石見屋の面々あれこれ
石見煎餅
文政4年1821年5月7日〜明治19年1886年4月11日享年65才
儚い登場時43才
代々丸太町室町上がるにある石見屋呉服店の店主。
黒船来航以降異人が増えたことを良いことに高値で着物を貸し出す商いを始めボロウ儲けである。
店は本店以外に三条河原町と嵐山法輪寺前、四条烏丸、鳥羽伏見の計5店舗がある。
どの店の天井にもガラス張りの水槽があしらわれ、本店から順に、カワウソ、金魚、コイ、金魚、コイが水槽で飼われている。
当初はカワウソではなく、どこぞで手に入れてきたのかワニを買っていたが、水槽がワニの重さに耐えられず、崩壊し着物が水浸しになるという大惨事を招くことになった。
それ以降煎餅はワニは飼うものではなく食うものだと言っている。
持ち前の才覚を出し惜しみなく発揮している煎餅だが、子供の教育に関してはイマイチであった。
妻のお絹がお蝶を女の子のように育てていることを咎めることが出来ないまま、ずるずるとそれを許してきた結果どうすることもできない状態になってしまった。
しかし、案ずることなかれ家は弟が継げば良い。と、短絡的な部分も有る。が、矢張り長男に期待している部分が大きく。13才から奉公に行かせ商売の基本を学ばせている。
60才になると2人の息子に店を譲るり、さっさと引退してしまう。その後は嵯峨野に新居を構え隠居生活を送る。その傍ら、恵まれない子供達を集め、学問を教えたり、食事をご馳走したりしていた。
隠居後は店に顔を出すこともなくなり、65歳で天然痘にかかり他界するまでの5年間はゆったりとした時間を過ごしていたという。
石見絹枝
天保2年1831年3月4日〜大正3年1914年11月25日享年83才
儚い登場時33才
お絹は男の子よりも女の子が欲しかったらしく、生まれてきた子供を女の子のように育てていた。
5年後には待望の女の子が生まれるのだが、煎餅に似ていまいち可愛くなかった。其の為、お絹の興味は再度お蝶に注がれ結局お蝶は女として生きていくことを決めることになる。早い話、お蝶が男の娘に目覚めたのは男子が好きだからとか自分の中の女に気づいた何て事ではなく完全に母のお絹の所為なのである。
お陰でお蝶はお絹に女子としての礼儀作法を徹底的に叩き込まれている。まぁ、いまいち其れは稼働していないが…。
煎餅の隠居後は煎餅が集めてきた恵まれない子供達に女装させて喜んでいたが、おかしなことをしていると警察に通報され渋々断念するも、今度は可愛い孫を家に呼んでは女装させて喜んでいた。
晩年のお絹はボケることもなく、健康に生き続けたのだが、83才で肺炎にかかりそれが元で他界した。
吉松彦乃助
天保10年1839年10月30日〜明治42年1909年2月2日享年95才
儚い登場時25才
お蝶の良き理解者であり、石見屋の番頭を務める。吉松は本店だけではなく残り4店舗の番頭も務めている。
才覚は煎餅を凌ぐほどの力量の持ち主で、その才覚を惜しみなく使い4店の店を切り盛りしている。
吉松は4才の時に河原に捨てられているのを見つけた煎餅が家に連れ帰り、我が子のように育ててもらった経緯を持つ。其の為、お蝶のことを我が妹のように慕い大切に思っている(恋愛感情はない。)。が、吉松は奉公人である以上一線を越えた付き合いをこのまず、飽く迄も主人の娘としてお蝶を扱っている。
石見屋の成長に伴い吉松の給金も莫大なものになった。噂では一ヶ月の給金が20両はあったと言われている。
のちの戊辰戦争や、第一次世界大戦の煽りを受け一時は衰退気味になった石見屋だが吉松は石見家を裏切ることなく一生涯を通して使えた。
結局吉松は石見家3代に使え、自身が退職する時には数億円の資産を有するまでになっていた。
其れでも、8代目当主石見雅正は感謝の気持ちとして吉松に退職金として2億円を支払っている。
退職後も石見家とは関わりを持ち続けた。
29才の時に12才年下の女性と結婚し、2男3女をもうけている。
長く生き過ぎた所為もあり、晩年は妻を見送り、息子、娘を見送った後、孫、曾孫に見守られ乍ら息を引き取った。
千野代祢
1851年3月21日〜1916年5月4日享年65才
儚い登場時13才
石見屋で働く奉公人。
草刈佳恵
1849年9月12日〜1894年8月30日享年45才
儚い登場時15才
石見屋で働く奉公人。
場代恵
1851年1月3日〜1866年12月18日享年28才
儚い登場時13才
石見屋で働く奉公人。




