第二話 初巡回、橋の手前に深い車輪跡
赴任二日目の朝、厩へ入ると、昨日の栗毛がこちらを見た。
私が柵の前まで行くより先に、耳がこちらへ向く。
「おはようございます」
声をかけると、栗毛の方から鼻先を寄せてきた。
手を添えても離れない。
昨日より、少し慣れてくれたのかもしれない。
見慣れた、と言うほど長く一緒にいたわけではない。
昨日の朝に借りて、街道を進み、羊十九頭の群れの前に一緒に立っただけだ。
それでも、知らない馬が並ぶ厩でその顔を見ると、少しほっとした。
「早いな」
厩の奥から声がした。
「おはようございます」
バルドさんが水桶を片手に歩いてくる。
私は持ってきた革袋を壁際の台へ置いた。
今日は北側の巡回路を回る。
そう聞いて準備はしてきたけれど、どの馬に乗るのかまでは聞いていない。
バルドさんは私を見て、それから栗毛へ顎を向けた。
「ああ、そうだ。そいつな」
「はい」
「しばらく、お前さんの巡回に回すそうだ。昨日と同じように、そのまま使っていい」
思わず栗毛を見る。
栗毛もこちらを見ていた。
「この子を、ですか?」
「部隊長から、そう聞いてる」
「……そうなんですね」
自分で思っていたより、声が少し明るくなった。
騎士団の馬であることに変わりはない。
それでも、今日も同じ馬に乗れる。
「ありがとうございます」
「俺に礼を言われてもな」
「そうですね」
では、誰に言えばいいんだろう。
少し考えて、栗毛の首筋へ手を添えた。
「今日もよろしくお願いしますね」
栗毛が鼻を鳴らす。
返事かどうかは分からない。
今日乗る馬が決まったので、私は柵を開け、栗毛を通路へ出した。
数歩歩かせ、歩き方を見る。
それから脚とひづめを確認した。
昨日バルドさんにも見てもらった。
でも、今日乗るなら今日も見る。
「問題なさそうです」
「なら鞍を載せていい」
「はい」
鞍を載せ、腹帯を締める。
小盾を鞍の横へ固定し、革袋を取りつけたところで声がした。
「準備できてる?」
振り返る。
厩の入口に、一頭の馬を引いた女性騎士が立っていた。
私より少し年上に見える。
軽装の胸当てに、使い込まれた手袋。
「セリア・フォーン。今日、一緒に回る」
「従騎士のリネット・ヴァレスです。よろしくお願いします」
「うん。聞いてる」
セリアさんは私の装備を見る。
「水は?」
「あります」
「手当て道具」
「革袋に入れました」
「じゃあ行こうか」
「はい」
確認はそれだけだった。
私は栗毛の手綱を取った。
◇
朝の空には薄い雲が残っていた。
雨は降っていない。
けれど、昨夜の短い雨の名残で、街道のところどころに湿った土が濃く見えている。
砦を出てしばらくは、セリアさんが少し前を進んだ。
速くはない。
周りを見る余裕が残る歩調だった。
「最初だから、今日は道を覚えればいいよ。分からなくなったら聞いて」
「はい」
最初の分かれ道で、セリアさんが馬を緩める。
右は森へ入る細い道。左は今までと同じくらいの幅がある。
「巡回は左。右は木こりが使う道」
私は道標を見る。
その脇には、大きな岩が一つあった。
左へ入って少し進むと、道の端に浅い水たまりがある。
セリアさんがそこだけ歩調を落とした。
「こういうところも見る」
「水ですか?」
「水そのものより、いつもと違うかどうか。昨夜くらいの雨なら、ここはこのくらい」
私は水たまりを見る。
道を横切って流れてはいない。
外側の土も、大きく崩れてはいなかった。
「これが普段どおりかどうかは、私にはまだ分かりませんね」
「今は聞けばいいよ。そのうち自然にわかるようになる」
「はい」
知らないのに、知っているつもりで決める必要はない。
少し先に、一本だけ傾いた道標があった。
文字は読める。
根元も、今すぐ倒れそうには見えない。
「これは前からですか?」
「ああ。それは前から」
前から傾いている。
今日初めて来た私には、それも聞かなければ分からない。
さらに進むと、小さな橋が見えてきた。
荷車一台が通れるくらいの幅で、下を浅い流れが通っている。
セリアさんが橋の少し前で歩調を落とした。
「橋は、板だけじゃなくて手前も見るんだ」
「手前ですか?」
「橋が無事でも、入るところが崩れてたら使えないからね」
私は橋板から足元へ視線を移した。
手前の土は少し湿っている。
でも、車輪跡は浅い。道の端も崩れていない。
橋そのものばかり見ていた。
橋を渡る。
今度は向こう側の道も見る。
こちらも少し湿っているだけだった。
私はその形を覚えておくことにした。
◇
二つ目の橋が見えた時、私は先にその手前を見た。
一つ目より少し広い。
下を流れる水も穏やかで、橋板に目立った傷みは見えない。
でも、その前で栗毛を止めた。
「セリアさん」
セリアさんが振り返る。
私は橋へ続く二本の跡を指した。
「この車輪跡、ずいぶん深くありませんか?」
ここまでの道にも、荷車の跡はいくつもあった。
でも、これは違う。
特に外側の一本が深い。
車輪が沈んだところの土がえぐれ、その脇では道の端も少し崩れていた。
セリアさんも馬を止める。
「そうだね。見てみようか」
「はい」
二人とも馬を降りた。
私は栗毛を、セリアさんは乗っていた馬を、それぞれ道脇へ寄せ、近くの木につないだ。
私は車輪跡のそばへしゃがむ。
土にはまだ湿りが残っている。
靴の先で軽く押すと、表面が少し沈んだ。
「昨夜の雨でしょうか」
「それもあると思う」
セリアさんが外側の跡を見る。
「でも、この深さは普段よりあるね」
やっぱりそうなんだ。
少なくとも、見当違いではなかったらしい。
「重い荷車が通ったんでしょうか」
「たぶんね。でも、それ以上は跡だけじゃ分からない」
「はい」
分からないことは、分からない。
私は橋を見る。
橋板そのものに、壊れているようなところは見えない。
問題は、その手前だ。
外側の車輪跡。
柔らかい土。
少し崩れた道の端。
同じところへもう一度車輪が入れば、もっと沈むかもしれない。
その時、後ろから木の車輪の音がした。
振り返る。
砦の方から、荷車が一台こちらへ向かってくる。
荷馬が一頭。
御者が一人。
荷台には袋が何段か積まれていた。
軽そうには見えない。
私は荷車を見る。
それから、足元の車輪跡を見る。
このまま来れば、今ある跡へ車輪が入りそうだった。
外側は柔らかい。
荷車はまだ離れている。
止めるなら、今なら余裕がある。
でも、私はこの道を今日初めて通ったばかりだ。
一瞬だけ迷う。
それでも、このまま通して大丈夫とは言えない。
「セリアさん。一度、止めた方がいいと思います」
セリアさんは荷車を見る。
次に、深い車輪跡を見る。
「うん。お願い」
私は道の中央へ出た。
荷車からよく見える位置で右手を上げる。
「すみません! 一度止まってください!」
御者がこちらに気づいた。
手綱が引かれ、荷馬が歩調を落とす。
荷車は橋から十分離れたところで止まった。
まず、止まった。
それだけで少し肩の力が抜けた。
◇
「何かあったのか?」
御者が御者台から声をかけてきた。
「橋の手前の道が柔らかくなっています。深い車輪跡もあるので、通す前に確認させてください」
「橋が壊れてる?」
「いえ。橋ではなく、その手前です」
言葉にすると少し変な感じがする。
でも、本当にそうなのだから仕方がない。
セリアさんも近づいてくる。
御者が荷車から降り、三人で車輪跡を見る。
「ああ……これは深いな」
男が外側の跡をのぞき込んだ。
セリアさんは橋の入口から、道の中央寄りまで歩いて土を確かめる。
「橋は通れる。ただ、この外側の跡には車輪を入れたくない」
「中央へ寄せるのか?」
「そう。それと、少し荷を軽くした方がいい」
御者が荷台を振り返った。
「麦だよ。北の村まで持っていくところなんだ」
私は荷台を見る。
「全部ではなく、上の分を何袋か下ろすのはどうでしょう」
セリアさんが荷車と道を見比べる。
「それでいこう。通ったあとに戻せばいい。私たちも手伝うよ」
御者は少し渋い顔をした。
「急いでいるんだけどな」
「ここで車輪を取られたら、もっと時間がかかると思います」
私が言うと、男はもう一度深い跡を見る。
「……それもそうか。分かった」
御者が荷車の車輪へ止め木を入れる。
荷馬が落ち着いているのを確かめてから、三人で上に積まれた麦袋を何袋か下ろした。
一袋抱える。
重い。
持てないほどではないけれど、軽くもない。
私は麦袋を抱え、橋を渡って向こう側へ置く。
何度か往復した。
腰の剣は、今日も一度も抜いていない。
昨日は羊だった。
今日は麦だ。
騎士になってから剣の訓練はずいぶんしたけれど、羊と麦についてはあまり習った覚えがない。
「そのくらいでいいよ」
セリアさんの声で荷下ろしを止める。
最後の麦袋を橋の向こう側へ置いた。
セリアさんは向こう側に残り、私は荷車を誘導するため南側へ戻る。
御者が止め木を外し、御者台へ戻った。
私は橋の手前で荷車を見る。
「外側の深い跡を避けます。少しこちらへ寄せてください」
「このくらいか?」
御者が手綱を調整し、荷馬の向きを少し変える。
「はい。そのまま、ゆっくりお願いします」
荷馬が一歩進む。
荷車も続き、車輪が深い跡を外れて道の中央寄りへ入った。
そのまま進む。
土が少し沈んだ。
でも、道の端が崩れる様子はない。
「そのままです」
荷車が橋へ入る。
木の板が軋んだ。
私は橋の手前に残り、荷車が進むのを見る。
向こう側ではセリアさんが御者へ合図を出していた。
ゆっくり。
そのまま。
やがて荷車全体が橋を抜け、向こう側の固い道へ出た。
何も起きなかった。
それでいい。
私は息を吐き、橋を渡った。
向こう側へ置いていた麦袋を、御者とセリアさんと一緒に荷台へ戻す。
下ろす時より、持ち上げる方が少し大変だった。
最後の袋を載せると、御者が苦笑した。
「悪かったな。止められた時は何事かと思ったよ」
「いえ。こちらこそ、お時間を取らせました」
「車輪がはまるよりはいいさ」
「はい」
それは本当にそうだと思う。
御者は御者台へ戻ると、私たちへ片手を上げた。
それから荷車を北へ進ませる。
車輪の音が少しずつ遠ざかる。
それを見送ってから、私とセリアさんは橋を歩いて南側へ戻った。
二頭の馬は、さっきと同じ場所にいる。
置いていかれたことを特に気にしていないようだった。
たぶん。
私は栗毛のところへ戻り、木に結んでいた手綱をほどく。
隣では、セリアさんも乗ってきた馬の手綱をほどいた。
「ここは報告ですね」
「うん」
セリアさんが深い車輪跡を見る。
「帰ったら残しておこう。必要なら土を入れるか、目印を置くことになる」
「分かりました」
私ももう一度、跡を見る。
今分かるのは、ここまでだ。
深い車輪跡。
湿った土。
少し崩れた道の端。
重い荷車を、そのまま通すのは避けた方がいい。
それなら、それを報告すればいい。
「行こうか」
「はい」
栗毛へ乗る。
セリアさんも自分の馬へ乗った。
橋へ向かう前に、私はもう一度、深い車輪跡を見る。
次からは、橋だけを見ることはなさそうだった。
二人で橋を渡り、巡回を続けた。
◇
巡回は、そのあとも続いた。
朝まではただの道に見えていたものが、少しずつ違って見える。
途中で、もう一本傾いた道標を見つけた。
「これは前からですか?」
セリアさんが見る。
「いや。昨日はまっすぐだった」
「では、これも報告ですね」
「うん」
それだけ確認して、先へ進んだ。
朝に見た道標と同じように傾いている。
でも、意味は同じではない。
昼が近づく頃、セリアさんが帰路へ向きを変えた。
来た道を戻る。
朝に見た水たまりは、少し小さくなっていた。
前から傾いている道標も、そのまま立っている。
やがて、最初の分かれ道が見えた。
行きにセリアさんから教えてもらった場所だ。
私は道標より先に、その脇の大きな岩を見つけた。
ここだ。
栗毛を砦へ続く道へ向ける。
そのまま進む。
後ろから、セリアさんの馬の足音もついてきた。
合っていた。
昨日まで、この道のことは何も知らなかった。
今は、水のたまりやすい場所も、傾いた道標も、橋の手前に残った深い車輪跡も知っている。
まだ知らないことの方が多い。
栗毛の耳がこちらへ向く。
私は首筋へ軽く手を添えた。
「戻りましょう」
栗毛が前を向く。
帰ったら、栗毛の脚を見て、装備を戻して、それから報告と記録がある。
巡回は、まだ終わっていない。
でも、砦へ戻る道はもう聞かなくていい。
第二話読んでくださりありがとうございます。
三話~十話までは毎日一話ずつ投稿する予定です。
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