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辺境騎士リネットの巡回日誌  作者: 鈴ヶ峰 リン


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第一話 赴任初日、羊十九頭

 レーヴェン砦へ着く前に、私は羊十九頭を追いかけることになった。


 正確には、最初に追いかけてきたのは向こうの方だった。


 春の街道を栗毛の馬に乗り進んでいると、前方に白いものがいくつも見えた。


 荷物か何かだと思った。


 けれど、白いものには脚があった。

 しかも速い。


「騎士さん! 危ないぞ!」


 遠くから声が飛んできた。


 私は手綱を引き、栗毛を街道脇の少し広くなったところへ寄せる。


 向こうから羊がまとまって走ってくるのを見て、栗毛が耳を後ろへ向けた。


「大丈夫ですよ」


 栗毛の首筋へ手を添えると、一度だけ鼻を鳴らした。


 それから改めて前を見る。


 羊は街道いっぱいに広がっていた。


 真正面から馬を向ければ、かえって散らしてしまいそうだ。


 右手には浅い溝。

 左手には低い草地があり、その先に木柵が見える。


 群れの後ろから男が一人走ってきた。


 さらに遅れて、若い手伝いらしい男も続いてくる。


「すまん! 柵が外れちまって!」

「何頭ですか?」

「十九!」

「……それは、全部ですか?」

「全部だ!」


 全部なんだ。


 私はもう一度、街道を埋めている羊たちを見る。


 多い。


 レーヴェン砦までは、もうそれほど遠くない。

 着任の報告は正午前まででいい。


 ここまでは予定どおりだったから、まだ時間には余裕がある。


 羊の群れを見る。


「分かりました。手伝います」

「助かる!」

「ただ、後ろから強く追わないでください。散ってしまうと思います」

「お、おう」

「そちらの方は、右から回ってもらえますか?」


 若い手伝いが大きくうなずいた。


 私は栗毛の向きを変える。


 羊を扱う訓練を受けた覚えはない。

 でも、人や馬がどこに立てば進路を狭められるかなら分かる。


 腰には剣がある。

 今のところ、まったく役には立ちそうになかった。


 羊の先頭が左へ寄った。


 その先へ回ろうと手綱を開くと、栗毛が身体を斜めに向ける。


 一頭がさらに外へ膨らもうとした。


 栗毛が、もう一歩だけ横へ出た。


 羊がその鼻先を避けるように向きを変え、後ろの何頭かもつられて草地側へ寄っていく。


「……ありがとう」


 小さく声をかける。

 栗毛の耳がこちらへ向いた。


 私はそのまま群れの外側へ回った。


「その位置でお願いします。左側は少し空けてください」

「塞がなくていいのか?」

「全部塞ぐと、反対へ逃げそうなので」

「分かった!」


 羊飼いの二人が位置を変える。


 三方から進路を狭め、空けておいた草地側へ群れを寄せていく。


 もちろん、それですぐ戻ってくれるわけではなかった。


 右へ抜けようとする一頭を止めれば、別の二頭がついてくる。


 羊飼いが焦って近づけば、今度はそこから離れていく。


 何度か繰り返したところで、私は馬を降りた。

 ここからは歩いた方がやりやすい。


「ここで待っていてくださいね」


 栗毛を街道脇の安全な場所へ寄せる。


 鞍の横には小盾が固定してある。左腰には剣。

 どちらも、今のところ出番はない。


 少し妙な感じがした。


「もう少しだけ、そちらへお願いします」

「ここか?」

「はい。ありがとうございます」


 外れた柵の前には若い手伝いが立ち、戻った羊がまた抜けないよう隙間を塞いでいる。


 しばらくして、ようやく群れが草地へ戻った。


 私は数える。


 一、二、三。


 途中で動かれた。

 最初からやり直す。


 七。

 十。

 十四。

 十八。


「十八頭です」


 羊飼いがこちらを見た。


「十九頭だ」

「はい」

「十九頭いるはずだ」

「……そうですよね」


 もう一度数える。


 十八。


 数え方を変えても増えなかった。


 三人で辺りを見回す。


 街道。

 草地。


 外れた柵。

 浅い溝。


「いた!」


 若い手伝いが声を上げた。


 指の先には、街道から外れて斜面へ続く細い道がある。


 草に半分埋もれたような古い道だった。


 その奥で、白い背中が一度だけ見えた。


「一頭、あちらへ入っています」

「あの道か……」


 羊飼いが眉を寄せる。


「昔の牧道だ。今はほとんど使ってねえ」


 私は栗毛の手綱を取った。

 道の入口まで行き、そこで足を止める。


 狭い。


 片側は緩く落ちていて、春先の土もまだ柔らかい。

 草の間には古い踏み跡が残っている。


 荷車を入れるには向かなそうだった。


 馬なら通れる。

 でも、わざわざ乗ったまま追う必要はない。


「この子をお願いできますか?」


 羊飼いへ手綱を渡す。


「一人で行くのか?」

「すぐ近くだと思います。それに、この道なら歩いた方が安全です」


 剣の鞘が枝へ引っかからないよう位置を直し、牧道へ入った。


 二十歩ほど進むと、街道の音が少し遠くなる。


 道は緩やかに上っていた。


 春草が靴に触れ、低い枝がところどころ道へ張り出している。


 あまり使われてはいない。

 ただ、道そのものはまだ残っている。


 人なら問題なく歩けそうだ。

 馬も、急がなければ通れるだろう。


 上の方まで続いているらしい。

 けれど、今日は道を調べに来たわけではない。


 羊だ。


 白い背中はすぐに見つかった。

 道脇の茂みで、呑気に草を食べている。


 私は足を止めた。


 近づくと、羊が顔を上げる。


 一歩下がった。

 こちらが急げば、向こうも急ぐ。


 正面から行かず、街道へ戻れる側を空けたまま横へ回った。


「大丈夫ですよ」


 声を落とす。

 羊の耳が動いた。


「もう追いかけませんから」


 半分くらいは本当だ。


 逃げたら、また追いかける。

 そこまで説明しても仕方がない。


 羊がまた草へ鼻先を向けるまで待つ。


 それから、少しだけ回り込んだ。


 羊が一歩動く。

 私も一歩。


 今度は下りる方へ。


「そうです。そちらです」


 褒めても、特に嬉しそうではなかった。


 それでも羊は少しずつ道を戻っていく。


 途中で一度だけ茂みへ向きを変えたので、その先へ回った。


 あとは大きく逃げなかった。


 やがて牧道の入口が見えてくる。


 羊飼いが両手を広げて待っていた。


「来た!」


 最後の一頭が牧道を出る。


 若い手伝いが大きく息を吐いた。


 私も息をつく。

 今度こそ数える。


 一。

 五。

 九。

 十三。

 十七。

 十九。


「十九頭います」

「いるな!」


 羊飼いの声が明るくなった。


「助かった。本当にありがとう、騎士さん」

「いえ。怪我がなくてよかったです」


 最後に戻ってきた羊の脚を見る。


 歩き方におかしなところはない。


 他の羊も、見える範囲では大丈夫そうだった。


 羊飼いの二人にも怪我はない。


 栗毛も落ち着いている。


 それを確かめてから、砦の方角へ目を向けた。


「それにしても、見ない顔だな」


 男が私の荷物を見る。


「ああ。砦へ行く途中だったのか?」

「はい。今日からレーヴェン砦へ赴任します」

「今日から?」

「はい」


 男が気まずそうに口元を曲げた。


「初日から悪かったな」

「大丈夫ですよ」


 まだ正午には間に合う。


「ただ、柵は早めに直してくださいね。また出ると大変なので」

「分かった。今度は十九頭まとめて出ないようにする」

「お願いします」


 栗毛へ乗り直す。

 羊飼いたちへ頭を下げ、街道へ戻った。


 後ろで羊が鳴いた。


 振り返ると、最後まで逃げていた一頭がこちらを見ている。


 見送っているわけではないと思う。


 私は前へ向き直った。


 予定より時間は使った。

 でも怪我人はいない。


 羊も十九頭そろっている。

 それなら、悪くはない。



 ◇



 レーヴェン砦が見えたのは、それから二十分ほどしてからだった。


 街道の先に、灰色の石壁と門が現れる。


 遠くから見た時は、もっと静かな場所を想像していた。


 近づけば、門から荷車が一台出てくる。


 内側では兵士が木箱を運び、厩の方から馬の鳴き声が聞こえた。


 どこかで金属を打つ音もしている。


 砦というより、仕事場なのだと思う。


 門の前で馬を止めた。


 羊十九頭を前にした時より、緊張してきた。

 それはどうなんだろう。


「止まってくれ。用件は?」


 門番に声をかけられ、背筋が伸びる。


「本日付でこちらへ赴任する、従騎士リネット・ヴァレスです。着任の報告に来ました」


 預かっていた書類を差し出す。

 門番は目を通すと、すぐに返してくれた。


「聞いてる。中へどうぞ。馬は厩へ」

「ありがとうございます」


 門をくぐる。

 知らない景色ばかりだけれど、まず探すものは決まっていた。


 厩だ。

 栗毛をそこまで歩かせ、鞍から降りる。


 朝から長い道を歩いてもらった。

 途中では羊の前にも出てもらった。


 首筋へ手を置き、一度だけ撫でる。


「ここまで、ありがとう」


 栗毛が鼻を鳴らした。

 返事かどうかは分からない。


 鞍を外す前に脚を確かめる。


 前脚。

 後脚。

 ひづめ。


 腫れも、目立った傷もなさそうだ。


「その馬、貸与馬だな」


 声に顔を上げる。

 日に焼けた年配の男が、厩の奥から歩いてきた。


「はい。赴任のために借りています」

「脚は見たか?」

「今、確認しました。異常はないと思います」


 男も栗毛の脚を手早く確かめ、うなずいた。


「ならいい。水はそっちだ。鞍はここへ置いてくれ」

「ありがとうございます」


 私は鞍を下ろした。

 男はそれを受け取りながら言う。


「バルドだ。ここじゃ馬のことは俺に言え」

「リネット・ヴァレスです。よろしくお願いします」

「知ってる。今日着任の新人だろ」


 新人。

 その一言で、ようやく少し実感が湧いた。


「着任の報告は済んだのか?」

「まだです」

「なら先に部隊長のところに行ってこい。こいつは見ておく」


 バルドが栗毛を示す。


「お願いします」


 頭を下げ、私は厩を出た。



 ◇



 案内された執務室の前で、一度立ち止まる。


 剣帯。

 胸当て。

 手袋。


 それから、片側に編んだ髪が崩れていないか指先で確かめた。


 大丈夫だ。


 ……たぶん。


 羊相手なら、髪を気にする必要はなかった。

 人間の方が少し難しい。


 扉を叩く。


「入れ」

「失礼します」


 部屋には机と書類、壁の地図、それから棚に並んだ記録帳があった。


 机の向こうにいる男へ、預かっていた書類を差し出す。


「従騎士リネット・ヴァレスです。本日付で着任いたしました」


 ガレス・ローデン部隊長は書類へ目を通し、うなずいた。


「聞いている。道中は問題なかったか?」

「はい。大きな問題はありませんでした」


 答えてから考える。


 羊十九頭は、大きな問題ではない。

 ただ、報告しないのも違う。


「……途中で、街道へ羊が十九頭逃げ出していましたので、回収を手伝いました。そのため、少し時間を使っています」


 部隊長が目を上げる。


「怪我人は?」

「ありません。羊も、確認した範囲では怪我はありませんでした」

「街道は?」

「通行できる状態です。柵が一部外れていましたので、所有者には修繕をお願いしました」

「分かった。遅刻もしていない。問題ない」

「はい」


 肩に入っていた力が抜けた。


「今日は着任手続きと装備の確認まででいい。明日から北側の巡回路へ出てもらう。同行者は騎士セリア・フォーンだ。朝の鐘が鳴る前に厩へ」

「分かりました」

「部屋と食事は後で案内させる。それと」


 部隊長が机の端に置かれた用紙を見る。


「さっきの件も簡単に残しておいてくれ。勤務開始前ではあるが、街道上の対応だ」

「はい」

「明日でも構わん」


 用紙を見る。

 今日のことだ。


「いえ。今日のことなので、今日書いておきます」

「そうか」


 それだけだった。

 でも、それで十分だった。



 ◇



 空いている机を借りて、記録を書く。


 書く前にはもう少し時間がかかるような気がしていたけれど、まとめてみれば数行だった。


 街道上にて羊十九頭の逃走を確認。

 住民二名と協力し、全頭回収。

 人的被害なし。家畜の被害なし。

 柵一部破損。所有者へ修繕を依頼。

 旧牧道側へ逃げた一頭を回収。


 そこまで書いて、筆を止める。


 短い。


 数行だけを読めば、ずいぶん簡単な出来事に見える。


 私はもう一度、最初から目を通した。


 数。

 場所。

 怪我の有無。

 柵。

 回収した一頭。


 抜けはない。

 なら、これでいい。


 筆を置く。

 窓の外はまだ明るかった。


 朝から馬に乗っていたせいか、肩が重い。


 今日から、ここで働く。

 そう思っても、まだ実感は薄かった。


 知らない場所がある。

 知らない人がいる。


 明日回る北側の道も、まだ知らない。


 分からないことは、これから増えるかもしれない。

 それでも、今日やるべきことは終わった。


 記録を閉じる。

 とりあえず、明日の予定欄に羊の数は書かれていなかった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


よろしければ引き続きリネットを応援してくださると嬉しく思います。

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