第三話 前編 森の迷子、足跡は奥へ
赴任三日目の朝。
目を覚ますと、窓の外はまだ薄い青色だった。
寝台を出て顔を洗う。
水は冷たかったけれど、眠気を取るにはちょうどいい。
騎士装に着替え、髪を整える。
肩にかかる暗い栗色の髪を梳き、左側だけ細く編んだ。
昨日と同じ濃紺のリボンで結んでから、壁に掛けられた小さな鏡を見る。
編み目。
リボン。
襟元。
問題なし。
鏡の中の灰青の目が、こちらを見返していた。
赴任して三日目。
まだ部屋に置いてある物の方が少ないし、廊下へ出る時には一瞬だけ左右を考える。
それでも、昨日よりは少しだけ迷わなくなった。
朝食を済ませ、胸当てと剣帯を身につける。
剣は左腰。
手袋もある。
私はもう一度だけ身なりを確かめてから、部隊長室へ向かった。
◇
廊下を曲がったところで、人が寝ていた。
最初は、そう見えなかった。
壁際に何か大きなものがあると思った。
近づいてみる。
男性だった。
しかも鎧の一部を身につけている。
どうやら騎士らしい。
足元には空いた酒瓶が一本転がっていて、近づくと酒の匂いもした。
私は足を止めた。
「あの……大丈夫ですか?」
返事はない。
呼吸はしている。
──たぶん。
もう少し近づくと、男が低く唸った。
「……ん」
「聞こえますか?」
薄く目が開く。
「ああ……」
男は私を見上げて、それから自分が廊下にいることを確かめるように周囲を見た。
「悪いな、嬢ちゃん」
「いえ。ただ……」
私は酒瓶を見る。
「こんなところで寝ていたら、風邪を引いてしまいますよ?」
男は何度か瞬きをした。
「……ああ。部屋戻って寝るわ」
壁へ手をつきながら立ち上がる。
足元は少し危なかった。
「気をつけてくださいね」
「おう」
男はゆっくり廊下の向こうへ歩いていった。
私はその背中を見送った。
朝の鐘は、もう鳴っている。
……寝て大丈夫なんだろうか。
少しだけ考えてから、部隊長室へ向かった。
◇
「失礼します」
「入れ」
ガレス部隊長は、机の上の書類から顔を上げた。
「来たか。今日はセリアとハルデン方面を回れ。昨日より距離はあるが、基本は通常巡回だ」
「はい。分かりました」
返事をしてから、さっきの廊下を思い出す。
報告するべきか迷ったけれど、黙っているのも違う気がした。
「あの、部隊長」
「何だ」
「途中で、廊下に騎士の方が寝ていたのですが……」
部隊長の眉がわずかに動く。
「酒瓶を持っていたか?」
「はい」
「ハーゲンだな」
即答だった。
「昨夜は夜番だった。勤務が終わってから飲んだんだろう。今朝は休みだ」
「そうだったんですね」
勤務中に飲んで寝ていたわけではないらしい。
それなら少し安心した。
「腕は立つ男だ」
部隊長は書類へ目を戻す。
「だからといって、廊下で寝ていい理由にはならんがな」
「……そうですよね」
そこは、私も同意した。
「ハルデン方面は昨日通った北側の道から分かれる。セリアに付いていけ。分からないことは聞け」
「はい」
「だが、自分でも見ろ」
顔を上げる。
「道も、人もだ。いつまでも先輩の後ろを歩いているだけでは巡回にならん」
「分かりました」
今度は、少し意識して答えた。
◇
厩へ行くと、栗毛はもうこちらへ顔を向けていた。
「おはようございます」
鼻先へ手を出す。
栗毛が匂いを確かめてから、少しだけ鼻先を寄せてきた。
「今日はハルデンまでですよ」
通じているかは分からない。
脚を順に見る。
腫れなし。
ひづめも問題なさそうだ。
鞍を載せ、腹帯を確認する。
小盾は鞍の横へ固定した。
「今日も頼みますね」
耳がこちらへ向いた。
「おはよう、リネット」
振り返る。
セリアさんが自分の馬を引いて入ってきた。
「おはようございます」
「準備できてる?」
「はい。あとは出るだけです」
セリアさんが栗毛と私の装備を一度見た。
「早いね」
「忘れ物をして戻る方が困るので」
「それはそう」
セリアさんが軽く笑った。
自分の馬へ鞍を載せ始める。
私も持ち出す水と簡単な手当て道具をもう一度確認した。
巡回の準備を終える頃には、朝の鐘からしばらく経っていた。
そろそろ出られる。
そう思って手綱を取った時だった。
砦の門の方から、速いひづめの音が聞こえた。
続いて、人の声。
「ハルデンから急ぎの伝令だ!」
セリアさんと顔を見合わせる。
私たちは手綱を持ったまま、厩の外へ出た。
門の内側で、一頭の馬が荒く息をしている。
乗ってきた男も肩で息をしながら、門番へ何か話していた。
「子どもが?」
門番が小さく言った。
聞こえてきた言葉は、それだった。
ほどなくして、部隊長室から呼び出しが来た。
◇
「予定変更だ」
ガレス部隊長は地図の一角を指した。
「ハルデンで子どもが一人行方不明になった。六歳の少女。名はネラ」
六歳。
「地元の者が探したが見つからん。北側の森へ入った可能性があるそうだ」
「最後に見た場所は分かっていますか?」
私が聞く。
「森の縁に近い草地だ。詳しいことは現地で家族と目撃者に聞け」
「わかりました」
「セリア」
「はい」
さっきまで私と話していた時とは違う、勤務中の声だった。
「リネットを連れて向かえ。森へ入るなら、現地の人間から情報をよく確認しろ」
「分かりました」
部隊長が私を見る。
「子どもの捜索が先だ。通常巡回は中止する」
「はい」
ほんの少し前まで、今日は道を覚えるつもりだった。
でも今は違う。
栗毛も、装備も、もう準備できている。
「すぐ出ます」
◇
ハルデンまでは馬でそれほどかからなかった。
町へ入ると、待っていた人たちの中から一人の女性が駆け寄ってきた。
「騎士さん!」
顔色が悪い。
目元も赤くなっていた。
「ネラちゃんのお母さんですか?」
「はい」
私は馬を降りた。
「レーヴェン砦のリネット・ヴァレスです。こちらはセリア・フォーン。まず、分かっていることを教えてください」
女性は何度も頷いた。
「ネラは六つです。朝ごはんのあと、近所の子たちと草を摘みに出たんです。春の若い草を……」
「どこへ?」
「町の北です。森の手前に草地があって」
近くにいた年上の女の子が、おずおずと手を上げた。
「一緒にいたの?」
私が尋ねる。
「うん……」
「最後にネラちゃんを見たのはどこですか?」
女の子は町の北側を見る。
「森のふち。ネラが、もうちょっと向こうにいっぱい生えてるって」
「ネラちゃんは一人で行った?」
「少しだけ……。すぐ戻ると思った」
声が小さくなる。
責めても、今は何も進まない。
私は母親へ戻る。
「ネラちゃんの服装は?」
「黄色い上着です。下は茶色のスカートで……小さい籠を持っています」
黄色い上着。
茶色のスカート。
小さな籠。
覚える。
「いなくなったと分かってから、どこを探しましたか?」
近くにいた男が答えた。
「草地と道沿い、それから物置だ。森の入口も見た」
日に焼けた手をした中年の男だった。
腰に小さな鉈を下げている。
「森の中は?」
「浅いところまでは入った。何人かで名前を呼んだんだが、返事がない」
「足跡はありましたか?」
「子どもの靴みたいな跡はあった。だが、奥は落ち葉が多くてな」
セリアさんが尋ねる。
「森には詳しい?」
「ああ。木を切りに入る」
木こりらしい。
セリアさんが私を見る。
「入口まで案内してもらおう」
「はい」
私は母親へ向き直った。
「見つけたら、必ず連れて町へ戻ります。ここで待っていてください」
「お願いします」
女性が深く頭を下げる。
私は一度頷き、栗毛の手綱を取った。
◇
森の入口までは栗毛とセリアさんの馬で移動した。
草地の端で降りる。
そこから先は木々の間隔が狭く、馬を連れて入る方が動きにくそうだった。
木こりが森の中を指す。
「俺たちはこの辺りまでは探した。あの先から地面が悪い」
「この先に危ない場所は?」
セリアさんが聞く。
「深い沢はもう少し北だ。だが獣はいる」
「分かった」
セリアさんは周囲を見る。
「ここから先は私たち二人で行く。馬を見ていてもらえる?」
「任せろ」
私は栗毛の鞍の横から小盾を外した。
左腕へ通して位置を調整する。
剣は左腰。
栗毛の首筋を軽く撫でる。
「少し待っていてくださいね」
栗毛が鼻を鳴らした。
木こりに手綱を渡す。
「お願いします」
「おう」
私とセリアさんは森へ入った。
◇
日陰の土には、まだ湿り気が残っていた。
草地から続く境目を見ながら進む。
すぐに何かが見つかるとは思わない。
地元の人たちも、すでにこの辺りは探している。
それでも、見落としがないよう足元を見る。
「セリアさん」
「何かあった?」
私は柔らかい土のところへしゃがんだ。
「小さい靴の跡があります」
大人の靴より明らかに小さい。
でも、それだけだ。
「でもネラちゃんのものかは分かりませんね」
「うん。でも方向は見ておこう」
跡は森の奥へ向いていた。
少し先にも一つ。
その先は落ち葉の上へ入って、分からなくなる。
私は立ち上がった。
「ネラちゃーん!」
声が木々の間へ広がる。
返事はない。
セリアさんも別の方向へ声をかけた。
少し進む。
落ち葉。
木の根。
低い草。
足跡は見えない。
「こうなると、分かりませんね」
「それでいいよ」
セリアさんが言う。
「分からないのに、あることにしなければ」
「はい」
見えないものを、見えたことにはできない。
私たちは進む速度を落とした。
時々止まり、名前を呼ぶ。
返事を待つ。
また進む。
低くなった場所で土が柔らかくなり、もう一度、小さな靴底らしい跡を見つけた。
「こっちですね」
言いかけて、直す。
「少なくとも、小さい靴の跡はこっちへ続いています」
セリアさんが薄く笑った。
「うん。それでいい」
さらに奥へ進んだ。
◇
枝が折れる音がした。
私は足を止めた。
今まで聞こえていた小さな鳥の声とは違う。
重い。
すぐ近くで、低い茂みが大きく揺れた。
「セリアさん」
「止まって」
低い声だった。
私は小盾を前へ出す。
茂みの向こうから、黒褐色の大きな獣が姿を現した。
猪に似ている。
けれど、普通の猪よりずっと大きい。
肩回りは厚い毛で覆われ、口元から長い牙が伸びている。
獣はこちらを見ると、低く息を吐いた。
「大牙猪かな」
セリアさんが剣へ手をかける。
「下がらないんですね」
「そうみたい」
私も右手を剣の柄へ置く。
獣が前脚で地面を掻いた。
──来る。
鞘から剣を抜いた。
金属音が、森の中では妙に大きく聞こえた。
初めてだった。
実戦で剣を抜くのは。
でも、じっくり考えている時間はない。
「リネット、正面で受け止めないで」
「はい」
大牙猪が地面を蹴った。
速い。
身体の大きさから想像したより、ずっと。
私は斜め右へ踏み出す。
完全には避け切れない。
左腕の小盾を傾け、向かってくる頭を外へ流す。
牙が盾の縁を擦った。
次の瞬間、重い衝撃が左腕から肩まで走った。
「っ!」
一歩、足が崩れる。
それでも倒れない。
横を抜けた大牙猪の肩へ剣を振る。
刃が厚い毛へ入り、浅く切れた。
深くない。
獣が甲高い声を上げる。
「リネット!」
顔を上げる。
大牙猪が向きを変えようとしている。
セリアさんが横から踏み込み、後脚の近くへ斬りつけた。
獣の身体が大きく揺れる。
今度はセリアさんへ頭が向いた。
「こっち」
セリアさんは真正面には立たない。
突進の線から外れながら、剣を構える。
大牙猪が再び地面を蹴った。
セリアさんが横へ抜ける。
獣がそのまま行き過ぎる。
さっきより、動きが少し鈍い。
左腕は痺れている。
でも動く。
私は小盾を構え直した。
大牙猪がこちらを向く。
「来ます」
三度目。
私は待った。
早く動けば、向きを変えられるかもしれない。
ぎりぎりまで引きつける。
地面を蹴る音。
牙。
鼻息。
私は半歩外へずれ、小盾を斜めに当てた。
今度は止めない。
頭の向きだけを逸らす。
衝撃で左腕がさらに痺れる。
けれど、獣の身体が私の横へ流れた。
そこへセリアさんの剣が入った。
大牙猪が大きく体勢を崩す。
私は踏み込んだ。
厚い毛の下、首の付け根へ剣を突き込む。
刃が入る。
獣の身体が震えた。
すぐに剣を引いて距離を取る。
大牙猪は数歩進み、前脚から崩れた。
土の上で一度大きく身体を動かし、それから止まる。
私は剣を構えたまま待った。
動かない。
「……終わった?」
セリアさんの声。
「まだ、近づかない方がいいと思います」
「うん」
少し待つ。
呼吸らしい動きもない。
周囲を見る。
他に大きな気配はなかった。
そこでようやく、大きく息を吐いた。
左手を握る。
痺れている。
でも、指はちゃんと動いた。
「リネット、腕は?」
「少し痺れました。でも、動きます」
「痛みは?」
肩を回す。
強い痛みはない。
「大丈夫です」
「無理なら言って」
「はい」
私はセリアさんを見る。
「セリアさんは?」
「平気。かすってもないよ」
それならよかった。
倒れている獣へ視線を戻す。
「これが、大牙猪ですか?」
「たぶんね。大きさも牙も特徴と一致している」
「この辺りにもいるんですか?」
「いる」
セリアさんは大牙猪を見下ろした。
「でも、ここまで南へ出てくるのは珍しい」
「珍しい……」
覚えておく。
理由までは分からない。
今ここで考えても、答えは出ない。
それより。
私は森の奥を見る。
「まだ、ネラちゃんを見つけていません」
セリアさんもそちらを見た。
「うん」
腰の小袋から手入れ布を取り出し、剣についた汚れを拭う。
刃を確かめてから、左腰の鞘へ戻した。
隣ではセリアさんも刃を拭い、剣を鞘へ収めている。
私は左手をもう一度開いた。
少し痺れている。
でも動く。
最後に小さな靴跡を見つけた場所まで戻る。
「ネラちゃーん!」
声を出す。
返事はない。
もう一度、足元を見る。
小さな跡は、さらに森の奥を向いている。
小盾の位置を直した。
「行きましょう」
「うん」
二人で、またその先へ進んだ。




