第6話 安眠亭:バルト:エレナ
携太が向かったのは、仕立て屋エルフィンの隣にある宿屋。
看板には「宿 安眠亭」と書かれている。こじんまりとした佇まいで、少々年季の入った建物だが、窓から漏れる温かな光が疲れた体に心地よかった。
扉に手をかけようとした瞬間、中から誰かが飛び出してきた。思わず一歩後ろに下がるも――
「わっ!?」
十五歳くらいの女の子が躓き、そのまま携太にぶつかった。
ドスン!
とっさにかわしきれず、携太は思わず尻餅をついてしまう。
弾みで手にしていた荷物も取り落とした。とはいえ、荷物は甚平と巾着袋だけ。割れる物も、こぼれる物もない。
「す、すみません! お怪我はありませんか?」
女の子が慌てて、落とした荷物を一緒に拾ってくれた。顔を真っ青にして、申し訳なさそうな表情だ。温かみのあるオレンジのような茶髪が肩まであり、毛先がクルンと跳ねている。心配そうな黄色い瞳が、携太を見つめていた。
「平気ですよ。ちょっとビックリしただけですから」
携太は苦笑して、立ち上がりながら尻をさすった。
奥から店主と思われる四十歳くらいの男性が急いでやって来た。小さなメガネをかけた痩せ型の男性で、ラフな格好をしている。
「申し訳ございません! お怪我はありませんか? うちの娘が……」
男性は本当に心配そうな表情を浮かべている。髪は豊かだが、白髪が少し目立ち始めている。
「問題ないです……。それより、今日からしばらく利用させてもらいたいのですが……空き部屋はありますか?」
すでに疲れを感じていたため、何件も宿を探したくはなかった。
「今日の空きはありますよ。何日お泊まりの予定で?」
男性が尋ねる。
「んー……。決めてはいないんですが、とりあえず一ヶ月ですかね」
「一ヶ月! それはありがたい。……ところで、どちらから? 武器もお持ちではないですから、冒険者じゃないのかなと」
(武器もバッグもない。怪しまれて当然だな)
「実は……あまり覚えていないんです。気づいたら、この街の近くで倒れていたらしくて」
携太は当たり障りのない言い方を選んだ。本当は異世界から召喚されたと言えれば楽なのだが、あの兵士の話では、召喚はこの国でも本来は禁忌とされる術だという。むやみに口にすれば、どんな厄介事を招くか分からない。
「倒れていた……?」
男性が、興味深そうな、それでいて心配そうな表情を見せる。
「ええ。通りかかった兵士の方に助けてもらって、なんとかこの街まで。ただ、目が覚めたときには、荷物も武器も何ひとつなくて。事情を察してくれたのか、当面のお金まで持たせてくれたんです」
「それは大変だ……」
男性は本気で心配してくれているようだ。
携太は少しだけ心が痛んだ。
(本当のことを言えなくて、ごめんなさい)
「あ、すみません、とりあえず中へどうぞ」
店主が中のカウンターへと案内する。
女の子は、手にしていたゴミ袋を宿屋と仕立て屋の間のスペースへ置きに行った。
◆
店内は質素だが清潔だった。
木製のカウンターや壁に掛けられた色褪せた絵画からは年季を感じるが、床には埃一つない。奥には小さな食堂スペースも見える。
決して豪華ではない。だが、不思議と落ち着く宿だった。
「私はバルト。この宿の主人です。こちらは娘のエレナ」
バルトが自己紹介をした。
エレナが戻ってきて、携太に会釈をする。小柄な体にオーバーオールを着ていて、とても可愛らしい。
「先ほどは本当にすみませんでした」
「気にしないでください。怪我もしてませんから」
携太は笑顔で答えた。
「携太です。よろしくお願いします」
「それでは、一ヶ月ですね。一泊3,000イエンですので、三十日分で90,000イエンになりますが……長期でのご利用ということで、15,000イエンお値引きして、75,000イエンでいかがでしょう?」
「助かります。あ、食事は含まれていますか?」
携太が尋ねると、バルトは少し困った顔をした。
「今はやってないんです。食堂はありますが……あれは妻が生きていた頃の名残でして。私が料理が得意だったら良かったのですが……お金を頂くほどの物は……」
「あぁ、すみません、余計なことを聞いてしまって」
「いえいえ、食事ができると思われてもおかしくないですよ! ただ……撤去することもできないので、私たちの食事やお客様の談笑スペースにしております」
「なるほど。問題はありませんので、三十泊でお願いします」
携太は巾着袋から金貨を八枚取り出し、カウンターに置いた。
バルトが枚数を確かめ、お釣りとして大銀貨一枚――5,000イエンを返す。
「確かに頂戴しました。ありがとうございます」
会計を終え、ホッと一息ついた。
その時だった。
ピピピピピ!
電子音が鳴り響いた。
「……?」
携太が固まる。
(この音……俺のスマホのアラーム? 元の世界で設定していた、定時退社のためのアラームだ……)
残業続きだった携太は、できる限り定時で帰りたいという思いから、アラームを設定していた。それが今、鳴っている。
バルトとエレナは、不思議そうに携太を見ている。
(もしかして……二人には聞こえていない?)
携太の心臓が早鐘を打つ。
(スマホ……どこだよ。出てこいよ)
そう思った瞬間――目の前にスマホが出現した。
空中に、ふわりと浮いている。
「え!?」
携太が驚く。
「なんだその箱!」
先ほどまでの丁寧な口調は、完全に消えていた。
エレナも口と目を大きく開けたまま、壁際まで後退りしていた。
バルトもエレナも、魔法や魔道具は見慣れている。だが、何も唱えず、構えもせずに物が宙へ現れる光景は、初めてだった。
◆
宙に浮いたまま、スマホは鳴り続けている。
けたたましいその電子音は、相変わらず携太の耳にしか届いていないようだった。
バルトとエレナの視線は、その黒い板に釘付けになっている。
どう説明すればいいのか――携太の頭は、真っ白になっていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
携太は宿屋「安眠亭」に滞在することになりました。
そして、元の世界から持ってきたはずのスマホが、思わぬ形で姿を現します。
次回は、この黒い板についてのお話です。
続きも読んでいただけると嬉しいです。




