第92話 落ち牙の話
北の橋の補修は、日を決めて行われることになった。
ラーデ村だけではなく、隣村からも人が来る。荷車を通すには、崩れた土をならし、丸太を組み直し、水の逃げ道を掘らなければならない。
ダレスは、灯院の前で何度も同じことを言った。
「凍牙猪を追うな。跡があれば離れろ。橋を直すのが先だ」
カインは頷いたが、顔にはまだ少しだけ悔しさが残っていた。
「でも、牙があったら助かるんだろ」
「命より先に助かる道具はない」
ダレスが即答する。
カインは黙った。
その横で、バルナ婆さんがぽつりと言った。
「昔は、落ち牙を拾うこともあったらしいけどね」
全員がそちらを見る。
「落ち牙?」
アルノが聞き返す。
「魔獣が木や岩に牙をこすって、古い欠片が落ちることがある。あたしが見たのは小指ほどの欠片だったよ」
カインの顔が少し明るくなる。
「じゃあ拾えばいいのか」
「馬鹿だね。落ちてる場所は、そいつが通る場所だよ」
バルナ婆さんに言われ、カインはまた黙った。
ダレスは地図の谷の奥を指した。
「北の谷には、古い擦り木があった。魔獣が体をこすりつける木だ。近づくなら灯守が見る。子供は行かせない」
「行かない」
リナがすぐに言った。
カインも少し遅れて言う。
「俺も行かねえよ」
「本当だな」
「本当だって」
アルノは地図を見つめた。
牙は欲しい。
でも、取るために危ない場所へ行くのではない。
橋を直す。そのついでに、安全な場所に落ちた欠片があれば、灯守が拾う。
それくらいでいい。
「拾えなかったら、拾えなかったでいいと思います」
アルノが言うと、カインが驚いた顔をした。
「お前、牙ほしいんじゃないのか」
「ほしい。でも、橋の方が先」
「また橋か」
「橋がないと、牙があっても粗塩が来ない」
カインはしばらく考え、それから小さくうなずいた。
「それは困る」
フィアナは帳面に書いた。
「落ち牙は求めず、見つかれば灯守が拾う。橋と人の安全を先にする」
オルドが低く言う。
「拾えたら小さくても持ってこい。大きい牙より、欠片の方が試しには向く」
白き牙は、まだ遠い。
でも、急がない道もある。
アルノはそう思った。
リナは地図の北の谷を指でなぞりかけて、途中で手を止めた。
「ここ、怖い場所?」
「怖い場所だと思っておいた方がいい」
アルノが答えると、リナは小さくうなずいた。
「じゃあ、怖いって書いておこう」
フィアナは地図の端に、子供にも分かるような黒い印を描いた。近づかない印。灯守に知らせる印。
それを見て、ダレスが少しだけ目を細めた。
「昔の地図にも、こういう印があった。読めない者でも、そこから先へ行くなと分かる」
また一つ、古いものと今の作業がつながった。




