第89話 牙ではなく橋
北の橋から戻った者たちは、泥だらけだった。
けれど、全員帰ってきた。
リナはそれだけで泣きそうな顔になり、ガルドの外套をつかんだ。
「帰ってきた」
「ああ」
「ほんとに帰ってきた」
ガルドは少し困ったように、リナの頭をなでた。
作業は終わっていない。
橋そのものは残ったが、荷車はまだ通せない。水の逃げ道を少し作り、崩れた土を避ける仮の足場を置いただけだった。
それでも、人は通れる。
小さな荷なら背負って渡せる。
粗塩も油も、一度にたくさんは無理だが、完全には止まらない。
ダレスは灯院で報告した。
「凍牙猪の新しい跡は、谷の奥へ向かっていた、追っていない」
カインが少しだけ残念そうな顔をした。
ダレスはそれを見逃さなかった。
「牙は取っていない」
「分かってる」
「橋を守った、今日はそれでいい」
アルノはその言葉にうなずいた。
牙は欲しい。
でも、今日必要だったのは牙ではない。
橋だった。
橋が残れば、荷が少しずつ来る。人も行き来できる。隣村とも連絡が取れる。
白き牙一つより、今はその方が大きかった。
フィアナは報告を記録した。
「凍牙猪を追わず、橋と水の道を優先、人は全員戻る、荷車は不可、背負い荷は可」
オルドが補修に使った金具の数を伝える。
ミレナが持たせた焼き芋が役に立ったと、隣村の男が少し照れながら言った。
バルナ婆さんの薬草袋は、足を冷やした男に使われた。
一つ一つは小さい。
けれど、それらがあったから戻れた。
隣村の男は、共同棚の紙を見て言った。
「そっちも蔵を直してたのか」
「待ってるだけだと怖いから」
リナが答える。
男は少し笑った。
「いいな、それ、うちにも写してくれ」
フィアナは顔を上げた。
「蔵守りの紙ですか?」
「ああ、橋が直るまで、うちも荷を詰めすぎるかもしれん」
アルノは思った。
魔獣を倒す話ではない。
冬へ続く道を、少しだけ残す話なのだ。
そして、その道は紙にもなって、隣へ渡ろうとしていた。
カインはしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「倒して牙を取った方が、話としてはすごいのにな」
ダレスは肩をすくめた。
「すごい話で腹はふくれん」
「橋が残った方がいいか」
「少なくとも、今日の村にはな」
カインは悔しそうにしながらも、今度は笑った。
「じゃあ、今日は橋の勝ちだな」
「勝ち負けじゃない」
アルノが言うと、カインは頭をかいた。
「分かってるって」
その声には、前より少しだけ本当に分かっている響きがあった。アルノはそれが、少し嬉しかった。




