第82話 白き牙は足りない
白き牙の木枠は、共同棚の入口近くに吊るされていた。
食べ物の真上には置かない。子供の手が届く高さにも置かない。火に近づけず、湿ったら戻す火でゆっくり乾かす。
それだけで、扱いはずいぶん面倒だった。
けれど、効果はあった。
木枠の近くに置いた空の箱は、奥の箱より冷たさが少ない。湿った布を入れた試しでも、牙の近くの方が早く落ち着いた。
問題は、一つしかないことだった。
「村の棚全部には無理ですね」
フィアナが帳面を閉じる。
オルドは腕を組み、木枠を見た。
「欠けた祭具から取れるのは、もう少しだけだ、削りすぎりゃ壊れる」
「壊したらだめ」
リナがきっぱり言う。
「分かってる」
オルドは少しだけ困った顔をした。
欠けた牙は、もともと祭具庫で眠っていたものだ。使い方が分からなくなったから、しまわれていた。それを今、少しずつ試している。
でも、使えると分かった瞬間に、足りないことも分かった。
リナは木枠を見上げた。
「これ、増やせないの?」
「簡単には増えない」
アルノが答える。
「木枠はオルドさんが作れる、でも中の牙は作れない」
「牙だけ?」
「うん、たぶん、そこが一番難しい」
カインは木枠をにらむように見ていた。
「凍牙猪を倒せばいいって話じゃねえんだよな」
ダレスが即座に答えた。
「違う」
「分かってるって」
「分かってない顔をしている」
カインは口をへの字にした。
ダレスは地図を広げ、北の谷に黒い印をつけた。
「凍牙猪は橋を壊す、ぬかるみに足を取らせる、牙が欲しいから近づく相手じゃない」
「でも、出たら?」
アルノが聞くと、ダレスの目が少し細くなった。
「出たら、追う前に避ける、橋を守る、人を近づけない、倒すのは最後だ」
倒すのは最後。
その言葉が、アルノには大事に思えた。
魔獣素材は欲しい。けれど、素材のために人が死ねば意味がない。
フィアナは帳面に書いた。
「白き牙は助けになる、ただし、命より重く扱わない」
バルナ婆さんが鼻を鳴らす。
「当たり前のことほど、書いておきな、欲しいもんが見えると、人は当たり前を忘れる」
オルドも低く言った。
「道具は足りないくらいでいい、足りないから考える」
アルノは木枠の中の白い欠片を見た。
足りない。
けれど、足りないからといって焦ってはいけない。
それは牙の戻す火と同じだった。
フィアナは木枠の横に、小さな紙を結んだ。
濡れた手で触れない。食べ物の上に置かない。火に近づけすぎない。
リナはそれを声に出して読み、最後にもう一度木枠を見上げた。
「すごいものほど、約束が多いんだね」
「そうかもしれない」
アルノは答えた。約束なしで使える力など、きっと村には向かない。




