第70話 村だけでは足りない
湿った布のそばに置いた牙の削り粉は、翌朝、少し重くなっていた。
布は完全に乾いていない。
けれど、何も置かなかった布より、冷たさが少なかった。
アルノは何度も触り比べた。
「効いてると思う」
「本当か?」
カインが身を乗り出す。
「たぶん。もっと試さないと分からない」
「また、たぶんか」
「たぶんは大事」
リナが真似をするように言った。
フィアナは削り粉を入れた小さな皿を見つめていた。
「古い記録は、間違いではなかったのですね」
「全部正しいかは分かりません。でも、何かは残ってます」
アルノはそう答えた。
問題は、そこからだった。
白き牙は貴重だ。欠けた祭具から少し削り粉を取るだけでも、何度も相談が必要だった。村の保存棚全部に使うには、とても足りない。
オルドも、安易に使うなと言った。
ダレスは、凍牙猪を追うなと言った。
つまり、分かったからといって、すぐに村を救えるわけではない。
その日の午後、灯院に村の大人たちが集まった。
ガルド、ミレナ、バルナ婆さん、オルド、ダレス、フィアナ。アルノとカイン、リナも端に座らせてもらった。
フィアナは記録を読み上げた。
蔵守りの手順。
棚を空ける。古い藁を出す。床を拭く。壺を高く置く。火を入れる。灯りで奥を見る。白き牙は、あれば奥に吊るす。ただし、使い方を確かめるまで食べ物の近くには置かない。
ガルドが腕を組んだ。
「牙は足りん。今は手順だけやる」
「それでいいと思います」
アルノは言った。
「牙は最後の助けです。棚と火と風を先にしないと、たぶん意味がない」
オルドが短くうなずいた。
「道具に頼るやつほど、道具を壊す」
バルナ婆さんが笑う。
「いいこと言うじゃないか」
「うるせえ」
フィアナは帳面を閉じたあと、少し迷ってから口を開いた。
「白き牙は、ベルクレインの北だけでは足りないかもしれません。グランツの記録には、ミレヴァールの水蔵にも似た祭具があると書かれていました」
「ミレヴァール?」
カインが聞き返す。
「水の多い国です。魚や湿った荷を扱う記録が多く残っています」
アルノは顔を上げた。
他国。
ラーデ村からは遠い場所。
けれど、粗塩も針金も、良い壺も、村だけで作っているわけではない。知らない場所の誰かが作り、運び、持ち寄りの中に混ざっている。
村だけで生きていると思っていた。
でも、本当はずっと、足りないものをどこかから受け取っていた。
「ベルクレインだけでは、足りないものがあるんですね」
アルノが言うと、フィアナはうなずいた。
「はい。でも、ベルクレインにしか残っていない冬の記録もあります」
ダレスが低く言った。
「お互い様ってことか」
敵ではない。
けれど、身内でもない。
それでも、足りないものを少しずつ持ち寄ってきた相手がいる。
アルノは、灯院の小さな灯りを見た。
村の中だけを見ていた灯りが、少し遠くまで届いた気がした。




