第55話 水桶の台
水桶の置き場所が、また問題になった。
春の床は冷たい。家の中にいても、足元から湿りが上がってくる。水桶を床へ直接置くと、桶の下がいつも濡れているように見えた。
「上げるか」
アルノが言うと、リナはすぐに嫌な顔をした。
「高すぎると、私が取れない」
「そこまで高くしない」
「前、干し草も落ちた」
「言うなぁ」
失敗は覚えられている。
ガルドを呼ぶと、すぐに古い板と短い足木を持ってきた。新しく作るのではなく、余った木を組み合わせるだけだ。
「桶の底を床から離すだけでいい」
ガルドはそう言って、板を四角く組んだ。
カインが横から覗く。
「もっと高くした方がよくない?」
「高いと倒す」
「誰が?」
ガルドは何も言わず、カインを見た。
「俺かよ」
「リナも届かん」
リナは少し満足そうに頷いた。
台は膝より低いくらいになった。桶を乗せると、床から手のひら一つ分ほど離れる。高くはない。だが、下に空気が通る。
アルノは桶の底を見た。
「これなら拭けるな」
「下に布を詰めるなよ」
ガルドがすぐに言う。
「布を詰めたら湿る、空けるために上げたんだ」
「はい」
言われなければ、がたつきを抑えるために何か詰めたかもしれない。
リナは桶を乗せた台を横から見ている。
「水の家みたい」
「家?」
「床に寝ないで、ちゃんと場所があるから」
言い方は子供っぽい。
でも少し分かる。
物には場所がいる。床に置けば済むと思っていたものも、場所を整えれば少し持ち方が変わる。
ミレナが水を汲んできて、桶へ注いだ。
水面が揺れる。
台は少しきしんだが、倒れなかった。
「しばらくは持つ」
ガルドが言う。
「ずっとは?」
カインが聞く。
「湿れば足が弱る」
「また湿りか」
カインが笑う。
アルノも水桶の台を見た。
家が大きく変わったわけではない。
けれど、水が床から離れた。
たったそれだけで、家の中の湿った匂いが少し薄くなった気がした。
夜、リナは桶の下を覗き込んだ。
「ここも見る場所だね」
「ああ」
「増えるね、見る場所」
「増えるな」
リナはため息をついたが、少しだけ楽しそうだった。
翌朝、桶の下を見たリナが声を上げた。
「昨日より濡れてない」
床は完全に乾いてはいない。けれど、桶の丸い跡は前より薄かった。下へ手を入れると、冷たい空気が通っている。
「台、えらい」
「台を褒めるのか」
「だって働いてる」
カインが来て、うっかり台へ足を当てかけた。リナがすぐに睨む。
「水の家、蹴らないで」
「家なのかよ」
ガルドは台の足を見て、少しだけ削り直した。
「がたつくと倒れる、毎日一度は見るんだな」
見る場所はまた増えた。
でも、床の湿りが少し減るなら、その手間は悪くないと思えた。
その日の夕方、レヴァンから戻った巡灯が、家の水桶や灯りの記録をグランツへ送ると言った。
「大灯院で、春の記録を見る方がいるかもしれません」
リナは台の上の水桶を見て、少しだけ背筋を伸ばした。
「水の家も、グランツへ行くの?」
「話だけだと思う」
アルノはそう答えたが、少し不思議だった。
家の隅に置いた低い台の話が、遠い灯院へ届くかもしれない。
それなら、次に来る人は、この小さな台をどう見るのだろう。




