第54話 ぬるい乳
失敗は、甘い匂いではなく、ぬるい匂いで分かった。
昼に残した山羊乳を、リナは何度も見に行った。
浅い器に移し、布を掛け、風の通る棚へ置いた。ミレナに言われた通りだった。けれど春の昼は思ったより暖かく、家の中には竈の熱も残っていた。
夕方、布を外した時、リナの顔が変わった。
「……変」
アルノも近づく。
器の中の乳は、朝の柔らかい匂いではなかった。強く悪いわけではない。けれど、飲みたいと思えない匂いが混じっている。
「飲まない方がいい」
「ちょっとだけでも?」
「駄目だ」
言い方が少し強くなった。
リナは器を見下ろす。
「もったいない」
「分かる」
「でも、駄目?」
「駄目」
そこへミレナが来た。器を嗅ぎ、すぐに頷く。
「これはやめな」
リナの肩が落ちた。
「山羊がくれたのに」
「だからって、腹を壊したら山羊も困るよ」
「山羊、困るかな」
「私が困る、リナが寝込んだら、アルノも困る、村も困る」
ミレナの声は優しかったが、はっきりしていた。
惜しいから食べる。
それで倒れたら、もっと多くを失う。
アルノは器を持った。
「どこへ捨てる?」
「家の足元はやめな、水が溜まる所も駄目、少し離れた土へ流す」
前にも聞いた言葉だった。
分からないもの、悪くなりかけたものは、家の近くへ戻さない。
リナは器を両手で持ち、外へ出た。アルノも隣を歩く。
土の低い所へ、乳を流す。
白い線が泥に混ざり、すぐ見えなくなった。
リナはしばらく黙っていた。
「次は、朝に飲む分だけにする」
「それがいい」
「残すなら、もっと少しだけ」
「ああ」
ミレナが後ろで言った。
「失敗した分だけ、次は無駄が減るよ」
リナは小さく頷いた。
家に戻ると、器はすぐに洗った。灰でこすり、何度も水を替える。洗った後、口を下にして風へ当てた。
乳は残せなかった。
でも、残せないと分かった。
それはたぶん、空っぽの器より少しだけ役に立つ失敗だった。
夜の粥は、山羊乳なしだった。
リナは少し残念そうに匙を動かしたが、最後には言った。
「お腹痛くない方がいい」
「そうだな」
「でも明日は、朝に飲む」
その声は、もう少し前を向いていた。
器を洗っていると、リナがふと思い出したように聞いた。
「鶏なら大丈夫?」
「何が」
「この乳」
ミレナはすぐに首を振った。
「人が駄目だと思ったものを、鶏へ押し付けるんじゃないよ、鶏が弱れば卵も減る」
「そっか」
リナは少し恥ずかしそうに器をこすった。
悪くなりかけたものは、誰かに渡せば消えるわけではない。家の外へ押し出しても、別の場所で困りごとになる。
アルノはその言葉を覚えておこうと思った。
洗い終えた器は、いつもより長く風へ当てた。リナはその前に座り、乾いていく様子を見ていた。
「次は、飲めるうちに飲む」
それも保存を知る一つの答えだった。




