第53話 山羊乳の朝
山羊乳の匂いは、朝が一番柔らかかった。
ミレナの家の山羊小屋では、まだ薄い湯気が立っている。山羊の体温と、湿った藁と、搾ったばかりの乳の匂いが混ざっていた。
リナは小さな桶を両手で持ち、真剣な顔をしている。
「こぼすなよ」
カインが言う。
「言われなくても分かってる」
「前、ちょっとこぼした」
「ちょっとだけ!」
ミレナが二人の間に入った。
「はいはい、山羊の前で騒がない」
山羊は知らん顔で干し草を噛んでいる。
搾った乳は、木桶の中で白く揺れていた。白と言っても、雪のような白ではない。少し温かみがあって、表面に細かい泡が浮いている。
アルノは桶を覗き込んだ。
「温いな」
「搾ったばかりだからね」
ミレナは布で桶の縁を拭いた。
「でも、この温さのまま置くとすぐ嫌な匂いになる、飲む分は早く使う、残すなら浅い器に移して、風の通る所へ置く」
「冷たい所じゃなくて?」
「冷えすぎる所に置くと、今度は器が汗をかく、水が入れば味も変わるよ」
簡単ではない。
温いと悪くなりやすい。冷やし方を間違えても駄目になる。
リナは桶を抱え直した。
「乳って、わがまま」
「だから大事に扱うんだよ」
ミレナが笑う。
「山羊も毎日同じだけくれるわけじゃない、食べる草、天気、体の調子で変わる」
アルノは山羊を見た。
冬の間、少しの乳で粥がどれだけ温かくなったかを思い出す。
山羊乳はただの食べ物ではない。寒い日に、家の空気を少し柔らかくするものだ。
「今日は全部使う?」
リナが聞く。
ミレナは桶の中を見て、少し考えた。
「半分は粥、半分は試しに残してみな、ただし、夜まで持たせようと欲張らないこと」
「持たせないの?」
「持つかどうかを見るんだよ、駄目なら次を変える」
アルノは頷いた。
保存は、長く残すことだけではない。
どのくらいまでなら大丈夫か、知ることも大事なのだ。
帰り道、リナは桶を揺らさないよう慎重に歩いた。
カインが横から覗こうとして、ミレナに叱られる。
「顔を近づけない」
「見ただけだって」
「息が入る」
「息も駄目なのかよ」
リナは桶を守るように抱えた。
「乳はわがままだから」
その言い方が少し得意げで、アルノは小さく笑った。
家へ戻ると、リナは言われた通り浅い器を出した。
半分を粥へ入れ、残りを器へ移す。布を掛ける前に、何度も匂いを嗅いだ。
「今はいい匂い」
「今はな」
「ずっとこのままだといいのに」
「たぶん、それが難しい」
器は戸口から少し離した棚に置いた。風は通るが、泥の跳ねは届かない場所だ。
リナは何度も布をめくろうとして、そのたびに手を止めた。
「見ないと分からない、でも見すぎると悪くなりそう」
「難しいな」
「乳、ほんとにわがまま」
それでも朝の粥は、いつもより少し柔らかかった。リナは匙を動かしながら、明日の朝も山羊小屋を手伝うと言った。




