第51話 空の袋
困った時の袋は、まだ空だった。
棚の奥に置かれた布袋は、ぺたりと潰れている。口の紐も結ばれていない。中に何も入っていないから、置いたというより置かれてしまったように見えた。
リナは朝から、その袋を何度も見ていた。
「空っぽだね」
「昨日も言ってた」
「だって、困った時の袋なのに困った時に困るよ」
「それはそうだな」
反論できなかった。
冬前には、食べる袋しかなかった。春になって、ようやく残す場所を作った。けれど、場所を作ることと中身を入れることは別だった。
ミレナが来たのは、リナが袋をつついている時だった。手には古布の切れ端と、短くなった紐を持っている。
「リナ、昨日の山羊小屋の手伝いの分だよ」
「いいの?」
「いいんだよ、働いた分だからね」
リナは両手で受け取った。布は新しくない。端は擦り切れているし、色もまちまちだ。それでもリナは嬉しそうだった。
「これ、袋に入れる」
「待て」
アルノが止めると、リナはむっとした。
「また乾かす?」
「たぶん」
「やっぱり」
ミレナが笑う。
「アルノの言う通りだね、山羊小屋の近くに置いてた布だから、一度洗って干した方がいい」
「布もすぐ入れちゃ駄目なんだ」
「入れたあとで変な匂いになったら嫌だろ」
「嫌」
即答だった。
リナは布を抱え、戸口へ向かった。外は春の風がある。冷たいが、冬の風より物を乾かす力があった。
古布を竿に掛ける。短い紐も横に吊るす。風が吹くたび、布の端が小さく揺れた。
「困った時の袋って、食べ物だけじゃないんだね」
リナが言う。
「布も、紐も、針金の端も、困った時に要る」
「でも食べられないよ」
「食べ物を守れる」
リナは少し考えて、納得したように頷いた。
「じゃあ、守る袋だ」
空の袋は、まだ空だった。
けれど、入れる物を探す目ができた。
それだけで、前より少し袋らしく見えた。
夕方、布はまだ少し冷たかった。
リナは指で端をつまみ、鼻を近づける。
「もういい?」
「まだ少し山羊小屋の匂いがする」
「ちょっとだけなのに」
「そのちょっとが袋の中に残る」
リナは不満そうにしたが、もう一度竿へ戻した。
夜になって、ようやく乾いた古布と紐を袋へ入れる。中身はそれだけだった。食べ物ではない。けれど、口を結ぶと袋はぺたりとは潰れなくなった。
リナは棚の奥を見て、小さく満足そうに言った。
「空っぽじゃなくなった」
「少しだけな」
「少しだけでも、袋っぽい」
その少しだけが、今の家には大事だった。




