第39話 山羊の乳
山羊は、春の気配に敏かった。
雪が緩み始めた頃から、カインの家の山羊はよく鳴くようになっていた。小屋の中で足を鳴らし、外へ出せとでも言うように首を振る。
「うるさいだろ」
カインが言う。
「元気でいいじゃないか」
「朝から鳴くんだぞ」
「お前も朝からうるさい」
「俺は山羊じゃねぇ」
そのやり取りを聞いて、リナが笑った。
ミレナは木桶を持って山羊の横に座る。手つきは慣れていた。山羊の腹を撫で、声をかけ、静かに乳を搾る。
白い乳が、木桶の底へ細く落ちた。
リナは目を輝かせる。
「出た」
「出るよ。山羊だからね」
ミレナが笑う。
アルノは桶を見た。冬に分けてもらった山羊乳を思い出す。粥に少し入れただけで、味も温かさも変わった。
けれど、乳は難しい。
甘い匂いがする。温かい。栄養がある。だからこそ、悪くなりやすそうだった。
「これ、すぐ使うんですか」
アルノが聞くと、ミレナは顔を上げた。
「春は特にね」
「冬より?」
「冬は寒さで少し持つ。でも春は中途半端に温い。置きっぱなしにすると、すぐ嫌な匂いになる」
リナが桶を覗き込む。
「乳も加護離れる?」
「離れやすいよ。だから飲むなら早く。粥に入れるなら火のそば。残すなら冷たい所。ただし凍らせるほどじゃない」
ミレナの言葉は細かかった。
セラも、きっとこういうことを知っていたのだろう。
アルノは山羊小屋の中を見る。床には藁が敷かれているが、雪解けのせいで入口近くは湿っていた。山羊の足元も少し汚れている。
「桶、床に置かない方がいいですね」
「そうだね」
ミレナは頷いた。
「春は床から嫌なものが来る。乳は特に拾いやすい」
拾いやすい。
その言い方が、妙に分かりやすかった。
アルノは近くの小さな台を引き寄せた。桶を置くには低いが、床へ直接置くよりはいい。
カインがそれを見て笑う。
「乳まで台に乗るのか」
「偉いから」
リナが即答した。
「春草も偉かったよな」
「濡れると困るものは偉いの」
カインは少し考えた。
「じゃあ俺の靴も偉い?」
「カインの靴は泥だらけだから偉くない」
「ひでぇ」
ミレナが笑いながら、搾った乳を布で覆った。
「笑ってる場合じゃないよ。飲む分はすぐ分ける。残りは家へ持って帰って、粥にしな」
「リナの分、ありますか」
アルノが聞くと、ミレナは少し目を細めた。
「あるよ。昨日、リナが春草を広げるのを手伝ったからね」
施しではない。
いつものように、理由を付けてくれる。
リナは嬉しそうに桶を見た。
「今日は山羊乳粥?」
「少しだけな」
「少しでもいい」
その言葉に、アルノはどこかで聞いたような気がした。
冬の灯りの時も、リナはそう言った。
少しでもいい。
この家では、その少しが本当に大事だった。
帰り道、アルノは布で覆った小さな器を慎重に持った。揺らすとこぼれるし、温かいまま置いておくのも嫌だった。
リナは横から何度も覗き込む。
「まだある?」
「ある」
「減ってない?」
「歩いてるだけで減るわけないだろ」
「匂いは逃げるかも」
「蜜じゃない」
リナは真剣な顔で器を守るように歩いた。
春は水だけでなく、乳も動き出す季節だった。
動き出したものは嬉しい。
けれど、扱いを間違えればすぐ悪くなる。
アルノは器の温かさを手の中に感じながら、また一つ、気にするものが増えたと思った。




