第38話 濁り水
家の水桶は、朝になっても少し濁っていた。
昨日汲んだ水を静かに置いておいたのに、底には細かい土が沈んでいる。上の方は澄んで見えるが、桶を少し動かすだけでまた濁りが上がった。
リナは木椀を持ったまま、桶を覗き込んだ。
「これ、使える?」
「上だけなら」
「下は?」
「使わない方がいい」
「もったいない」
その言葉は当然だった。
水は汲みに行くのも大変だ。春になったからといって、好きなだけ使えるわけではない。むしろ泥道の分だけ、桶を運ぶのは冬より面倒だった。
アルノは古い木椀を一つ取り、桶の上澄みだけをそっと掬った。
水面を揺らさないようにする。少しでも深く入れれば、底の濁りが動く。
「こう?」
リナも真似をする。
けれど手が小さい分、椀が傾いた。桶の中で水が揺れ、底の土がふわりと舞う。
「あ」
リナが固まる。
「やっちゃった」
「少し待てばまた落ちる」
「ごめん」
「怒ってない」
リナはしょんぼりした顔で椀を置いた。
アルノは水桶の横へ、もう一つ小さな壺を置く。
「使う分だけこっちに移そう」
「水の家?」
「何だそれ」
「桶から壺に引っ越すから」
「まあ、そんな感じだ」
リナは少し笑った。
壺へ移した水は、料理用にした。飲む分はさらに小鍋へ入れ、火にかける。薪を使いすぎないよう、本当に少しだけだ。
火にかけた水から、湯気が上がる。
リナはそれをじっと見ていた。
「お湯にすると、加護寄る?」
「全部じゃない」
「全部じゃないの?」
「たぶん。でも、少し安心する」
「安心するなら寄ってるんじゃない?」
アルノは返事に困った。
そういう言い方もできるのかもしれない。
水が煮立つ前に、バルナ婆さんが言っていたことを思い出す。弱い子や病み上がりに飲ませるなら、火にかける。
リナは病人ではない。けれど小さい。アルノ自身も、まだ病み上がりから完全に抜けたとは言えない。
少しの薪で、少しの水だけ。
全部を変えられなくても、飲む分だけならできる。
「冷ましたら飲める?」
リナが聞く。
「ああ」
「熱いまま飲むと舌が死ぬ」
「死なない」
「見放される?」
「舌は見放されない」
リナは笑った。
その笑い声で、家の中の重さが少し薄くなる。
昼前、ミレナが様子を見に来た。戸口で靴の泥を落とし、家の中へ入る。
「水、どうしてる?」
「上だけ使ってる。飲む分は少し火にかけてる」
ミレナは桶を覗き、頷いた。
「春先はそれがいいね。昔、セラもそうしてたよ」
リナの顔が少し変わった。
「母さんも?」
「ああ。底が濁る日は、慌てて使うなってよく言ってた」
リナは桶を見た。
今までただの面倒だった作業が、母の手に少し繋がったように見えたのだろう。
「じゃあ、ちゃんと待つ」
「そうしな」
ミレナは優しく笑った。
アルノは湯を冷ますため、木椀を窓際に置いた。外の空気はまだ冷たい。湯気が細く上がって、湿った春の空気へ溶けていく。
水は増えた。
でも、安心して飲める水は、増えた分だけ簡単になるわけではない。
上澄みを掬う。底を揺らさない。飲む分だけ火にかける。
小さな手間が、また一つ増えた。
けれどリナは、冷めた湯を少し飲んで言った。
「今日は水が怖くない味する」
その言葉だけで、少し報われた気がした。




