第35話 春草の匂い
森の匂いが変わっていた。
冬の森は、雪と凍った木の匂いが強かった。静かで、固くて、息を潜めているような匂いだ。
春の森は違う。
土が濡れ、枯れ葉が柔らかくなり、木の根元から青い匂いが上がってくる。まだ寒いのに、地面だけが先に目を覚ましているみたいだった。
「そこ、踏むな」
エルクが言った。
アルノは足を止める。
足元には、小さな緑の芽が出ていた。雪の下から押し上げてきたような細い葉だ。
「薬草?」
「まだ違う。踏むと分からなくなる」
「分からなくなる?」
「似た草が出る」
エルクはしゃがみ、指で芽の周りの土を少しだけ払った。
「春は全部が一気に出る。使える草も、腹に来る草も、似た顔をしてる」
バルナ婆さんも後ろから籠を揺らしながら来る。
「青いからって何でも摘むんじゃないよ。春は目が騙される」
「目が?」
リナが聞く。
今日はリナも一緒だった。村の近くの森だけ、という約束で付いてきたのだ。手には小さな籠を持っている。
婆さんは草を一本摘み、リナへ見せた。
「これは使える」
次に、隣の草を摘む。
「こっちは腹をやられる」
リナは二つを見比べた。
「同じに見える」
「だから勝手に摘むなって言ってるんだよ」
「はい」
リナは素直に頷いた。
アルノも二つの草を見る。葉の形が少しだけ違う。匂いも違う気がするが、はっきりとは分からない。
この世界には、知っているようで知らないものが多い。
湿気や煙なら気になっても、草の見分けは自分のものではない。バルナ婆さんやエルクの手元を見ていると、そのことがよく分かった。
「春草は乾きにくいんですか」
アルノが聞くと、婆さんは少し目を細めた。
「よく分かってきたじゃないか」
「濡れてるから」
「そうだよ。柔らかい分、加護が離れるのも早い。摘んだらすぐ広げる。籠に詰めすぎるな」
リナが慌てて、自分の籠の中を広げ直す。
「こう?」
「まあまあだね」
婆さんはそう言って、少しだけ口元を緩めた。
エルクは黙って周囲を見ている。森の奥へ目を向け、風の向きを確かめるように鼻を動かした。
「今日は奥へ行かない」
「冬獣?」
リナが小さく聞く。
「今はいない。でも春の森は音が変わる。水音で足音が消える」
その言葉で、アルノは耳を澄ませた。
確かに、水の音が多い。雪解け水があちこちで流れ、枝から水滴が落ち、地面の下でも何かが動いているように聞こえる。
冬の静けさとは別の怖さだった。
リナは籠を胸へ抱えた。
「春も怖いね」
「怖いよ」
婆さんがあっさり言った。
「でも、春草がなきゃ薬も足りない。怖いから見ないんじゃなくて、怖いところを覚えるんだ」
アルノはその言葉を聞きながら、足元の小さな緑を見た。
新しいものが出てくる季節。
同時に、間違えやすい季節。
春は明るいだけではない。
濡れて、柔らかくて、騙しやすい。
それでもリナは、教えられた草を一つだけ丁寧に摘んだ。
「これ、合ってる?」
婆さんが覗き込み、頷く。
「合ってる」
リナの顔がぱっと明るくなった。
その笑顔だけは、春らしかった。




