第31話 雪解けの音
朝、屋根が鳴った。
ぎし、と低く軋んだあと、ずるりと雪が滑る音がした。次の瞬間、家の横でどさりと重い音が響く。
リナが寝具の中で跳ね起きた。
「落ちた?」
「屋根の雪だと思う」
アルノは戸口へ向かった。開けると、冷たい空気と一緒に湿った匂いが入り込んでくる。
冬の匂いとは少し違った。
雪の奥に、土の匂いが混ざっている。凍っていたものが緩み始めた匂いだ。
家の脇には、屋根から落ちた雪が山になっていた。白いはずなのに、下の方は少し灰色で重そうだった。軒からは水がぽたり、ぽたりと垂れている。
「春?」
リナが戸口から顔を出す。寒そうに肩をすくめているのに、目だけは少し明るい。
「たぶん」
「春だ」
リナは小さく笑った。
けれどアルノは、素直に喜べなかった。
雪が溶ける。
それは暖かくなるということでもある。けれど同時に、家の周りも、道も、薪も、干し草も、全部が湿るということだった。
軒下に積んである薪の下へ手を入れる。冷たい。表面は乾いて見えるのに、下の方はじっとりしていた。
「……まずいな」
「何が?」
「薪の下が湿ってる」
リナは顔をしかめた。
「火、弱くなる?」
「なるかも」
「やだ」
リナはすぐに家の中へ戻り、古い板を持ってきた。小さい体で引きずるように運んでくる。
「これ、下に入れる?」
「そうしよう」
二人で薪束を少しずつ動かした。湿った雪が靴の下で潰れる。冷たさが足布へ滲んできた。
冬の間は、雪はただ積もっていた。冷たくて重いが、動かなければ静かだった。
春の雪は違う。
溶けて、流れて、染み込んでくる。
リナは薪を持ち上げながら、ふうと息を吐いた。
「春って、もっと楽かと思ってた」
「俺も」
「冬が終わったら、あったかくなるだけじゃないんだね」
アルノは水の垂れる軒を見た。
ぽたり。
ぽたり。
その音は小さいのに、家のあちこちを濡らしていく。
「たぶん、春は後片付けなんだ」
「後片付け?」
「冬が残したものを、全部見ないといけない」
リナは少し黙って、落ちた雪の山を見た。
「じゃあ、忙しいね」
「ああ」
「でも、外に出ても顔が痛くない」
そう言って、リナはまた少し笑った。
確かに、風はまだ冷たいが、刺すような痛さは薄れている。遠くの森も、黒い枝の間にわずかに水の光を持っていた。
春が来る。
けれどそれは、楽になる合図ではなかった。
次の冬へ向けて、濡れたものを見つけ始める合図だった。
アルノはもう一度、薪の下へ板を差し込んだ。
「リナ、濡れた薪は奥に入れるな」
「分かった」
「あとで広げて乾かそう」
「また干すの?」
「また干す」
リナは少しだけ口を尖らせ、それから諦めたように笑った。
「アルノ兄、春になっても湿気ばっかり見てる」
「見えるんだから仕方ない」
「言うなぁ」
今度はリナがそう言った。
アルノは思わず笑いそうになった。
屋根からまた雪が落ちる。
重い音が、春の始まりみたいに家の横へ響いた。
リナはその音を聞いて、家の奥へ走っていった。濡れた布を一枚、竈の近くへ移す。誰に言われたわけでもない。さっき見たものを、自分の手で一つ直そうとしていた。
アルノはその背中を見て、少しだけ息を吐いた。春の仕事は、もう家の中にも入ってきていた。
雪は静かに解けている。けれど、解けたものは消えるのではなく、家の下や道の端へ流れていく。
春は、見えなくなっていたものが動き出す季節なのだと思った。




