第30話 冬を越すために
雪が降っていた。
細かい雪ではない。湿って重い雪だ。屋根へ乗るたび、家が少しだけ沈むような気がする。
ラーデ村は静かだった。
共同倉庫には炭。燻製肉。灰色がかった粗塩。干し草。木箱。どれも豊かとは言えない量だが、少しずつ冬へ向けて積まれている。
アルノは倉庫の入口で、その匂いを吸い込んだ。
炭の乾いた匂い。燻製の煙。湿った縄。雪の冷たさ。
前なら、ただ臭いと思ったかもしれない。
今は、その中に少しだけ違いが分かる。湿りすぎた匂い。持ちそうな匂い。見放される前の、嫌な気配。
「また変な顔してる」
カインが横から言った。
「してない」
「してる。保存食見る顔じゃない」
「どんな顔だ」
「婆さんみたいな顔」
「それは嫌だな」
カインが笑う。
倉庫の奥では、ガルドが木箱の位置を直していた。ミレナはリナと一緒に干し草の紐を結んでいる。バルナ婆さんの薬草棚も、前より少し風が通るようになった。
大きく変わったわけではない。
村全体が豊かになったわけでもない。
けれど、少しずつ違う。
灯りの臭いは少し減った。燻製小屋の煙は、前より重くない。薬草の棚では、見放される草が少し減った。干し草は壁から離して置くようになった。
どれも小さい。
本当に小さい。
でも、リナは灯りの下で前より安心して眠る。バルナ婆さんは文句を言いながら棚を変える。ガルドは黙って板の角度を直す。カインは笑いながら手袋を投げてくる。
その小ささが、今のアルノには大事だった。
「アルノ兄!」
リナが倉庫の外から手を振る。
髪に干し草が付いている。本人は気づいていない。
「また付いてる」
「何が?」
「藁」
取ってやると、リナは恥ずかしそうに笑った。
「これで加護寄る?」
「髪には寄らないだろ」
「分かんないよ」
リナは真面目に言う。
アルノは少し笑った。
神や加護の言葉には、まだ完全には馴染めない。けれど、丁寧に扱えば物は持つ。放っておけば悪くなる。それをこの村の人達は、ずっと前から別の言葉で知っていた。
なら、言葉が違ってもいいのかもしれない。
大事なのは、見放される前に気づくことだ。
夕方、家へ戻ると灯りを整えた。
芯を少しだけ切り、火を小さく落ち着かせる。煙はまだ出る。でも、前ほど目にしみない。
リナが竈の前で粥を混ぜている。
「今日は臭くないね」
「少しだけな」
「少しでもいいよ」
リナはそう言って笑った。
外では雪が降っている。
冬はまだ長い。
きっとこの先も、どうにもならない事はある。雪崩も、冬獣も、重い雪も、全部を止めることはできない。
でも、湿った布を干すことはできる。
灯りの芯を整えることはできる。
草束の間を少し空けることはできる。
小さい事ばかりだ。
それでも、誰かが冬を越す助けになるなら。
アルノは灯りを見た。
火は静かに揺れている。
今年の冬は、去年より少しでも持てばいい。
その願いは、今のアルノにとって十分すぎるほど大きかった。
食事の後、リナは蜜の器を少しだけ眺め、今日は食べないと決めた。アルノはそれを見て、何も言わなかった。
我慢ではなく、明日のために残す。ベルクレインでは、それも生きる技術なのだろう。
竈の火が小さくなる。外の雪音は続いている。
「アルノ兄」
「ん?」
「今年、去年より怖くない気がする」
「まだ冬は長いぞ」
「うん。でも、少しだけ」
リナは灯りを見た。
「少しだけなら、怖くない」
アルノはその言葉を、しばらく胸の中で転がした。
少しだけ。
この物語は、たぶんそこからしか始まらない。




