第110話 短い手紙の約束
出発の朝、ラーデ村は薄い霧に包まれていた。
ミレヴァールの霧とは違うのだろう。そう思いながら、アルノは家の前で荷を背負った。まだ見たことのない国の湿りを、今から考えても分からない。分かるのは、肩にかかる帳面の重さと、足元の泥の冷たさだけだった。
リナは戸口に立っていた。
厚手の外套を着て、髪を後ろで結んでいる。見送りに来たというより、今にも蔵へ帳面をつけに行きそうな顔だった。
「手紙」
最初の言葉がそれだった。
アルノは頷く。
「出す」
「短くてもいいから」
「分かった」
「でも、短すぎるのは駄目」
「どこからが短すぎる」
リナは懐から小さな紙を出した。
そこには、アルノが昨夜、試しに書いた文があった。
元気。
水が多い。
魚の匂いがする。
帰る。
カインが後ろから覗き込み、吹き出した。
「これは短いな」
「必要なことはある」
アルノが言うと、リナは紙を突きつけた。
「兄さん、これを本気で手紙だと思ってるの」
「違うのか」
「違う」
「帰るって書いた」
「それは大事、でも、もっと書くことあるでしょ、ご飯を食べたとか、カインが転んだとか、フィアナさんに怒られてないとか」
「カインが転ぶのはまだ分からない」
「転ばねえよ」
カインが言った。
ガルドが近づいてきて、荷の紐を確かめた。強く引き、緩みがないか見る。
「手紙は、帰る道の印だ」
リナが顔を上げる。
ガルドはアルノを見た。
「短くても出せ、遅れても出せ、何もなければ、何もないと書け」
「分かった」
「返事も読むんだよ」
リナが続けた。
「俺が?」
「当たり前でしょ」
「読める」
「読めるだけじゃなくて、ちゃんと返して」
アルノは少し考えた。
「努力する」
「そこは約束して」
「約束する」
リナはようやく紙を下ろした。
それから、小さな薬草袋をもう一度確かめるように触った。袋の中の木札は見えない。けれど、そこに書かれた言葉はアルノも覚えている。
帰る。
村の道には、見送りの者たちが集まっていた。バルナ婆さんは杖をつき、子供達は半分眠そうな顔で手を振っている。蔵の前には、朝の灯りが入っていた。
入口、左、奥、右、入口。
今日も誰かが見回る。
アルノがいなくても、蔵守りは止まらない。
そのことが、少し寂しくて、少し安心だった。
「行くぞ」
カインが荷縄を肩にかけた。
「うん」
リナは一歩近づき、アルノの袖を掴んだ。
「兄さん」
「何だ」
「帰ってきて」
その声は、三年前の泣き声とは違っていた。
怖さはある。けれど、ただ縋るだけではない。帰る場所を守る者の声だった。
アルノはリナの目を見て、短く答えた。
「帰る」
リナは頷き、袖を離した。
アルノとカインは村の出口へ歩き出した。雪解けの道はぬかるみ、靴の裏に重い土がつく。森の向こうには王都への道が続いている。その先に、水の国がある。
背中の帳面が揺れた。
ラーデ村で続いた三年分の灯りを、アルノは背負っていた。




