第109話 旅支度
行くと決まれば、支度は急に現実になった。
ミレヴァールは遠い。まず王都グランツへ向かい、そこでフィアナと合流する。そこから西へ行き、国境を越え、水路の国へ入る。紙の上で聞くと簡単だが、荷を並べると胸が重くなった。
アルノは集会小屋の床に持っていくものを広げた。
蔵守り帳。
白き牙の扱い記録。
壺と布の記録。
火入れの日を書いた紙。
三年分の失敗と成功。
水に濡れにくいよう、油を染み込ませた布で一つずつ包む。フィアナならもっときれいにまとめるだろう。そう思いながらも、アルノは不器用な手で紐を結んだ。
「結び目が固い」
リナが横から言った。
「ほどけない方がいい」
「ほどく時に困る」
「それもそうか」
アルノが結び直そうとすると、リナが手を出した。
「貸して」
彼女は慣れた手つきで紐を通し、引けばほどける結びにした。帳面の束が、少しだけ旅の荷らしくなる。
外ではカインが荷縄を点検していた。
「こっちの縄は俺が持つ、予備もいるな、濡れるなら、乾いた縄を分けて包むか」
「カインが考えてる」
リナが小さく言った。
「失礼だな」
カインが戸口から顔を出す。
「俺だって三年経ったんだぞ」
「字は?」
「縄の話をしてる」
バルナ婆さんは薬草袋を持ってきた。中には、腹を落ち着かせる草、傷に当てる草、匂いで虫を遠ざける草が入っている。どれも少しずつだ。
「水の国には水の国の薬草があるだろうけどね、慣れた匂いも持って行きな」
「ありがとう」
「礼より、濡らすんじゃないよ」
リナは自分の棚から、小さな布袋を取り出した。
袋は古いが、口の紐だけ新しい。中には乾かした薬草と、小さな木札が入っていた。木札には、リナの字で短く書かれている。
帰る。
アルノはそれを見て、しばらく黙った。
「重くないでしょ」
リナが言った。
「重い」
「薬草だけだよ」
「そうじゃない」
リナは一瞬だけ目を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「なら、落とさないで」
「落とさない」
ガルドは、最後に村の帳面の写しを持ってきた。
全部は持っていけない。蔵には本帳を残す。旅に出すのは写しだ。それでも、三年分の村の手が乗っている。
「向こうで見せる時は、分からないことを分からないと言え」
「分かってる」
「向こうの帳面にも、向こうの冬がある」
「水の国に冬はあるのか」
カインが言うと、ガルドは少しだけ眉を上げた。
「冬がなくても、越すものはある」
その言葉で、アルノは荷を見る目を変えた。
ラーデ村は冬を越す。ミレヴァールは雨や霧や水を越すのだろう。
越すものは、国によって違う。
だから帳面も違う。
夕方までに、荷は三つに分けられた。
アルノの背に、記録。
カインの背に、縄と布。
共用の荷に、食べ物と薬草。
リナは最後に、アルノの荷へ手を置いた。
「重くなった」
「少しだけだ」
「嘘、かなり」
「じゃあ、カインに持たせる」
「おい」
カインがすぐに声を上げた。
小さな笑いが起きた。
けれど、笑いの下には別れの気配がある。
旅支度は、帰るための支度でもあった。




