第108話 帰るために行け
その夜、ガルドはアルノを蔵の前へ呼んだ。
空は曇っていた。雪解けの夜は冷える。昼に緩んだ土が、また薄く固まり、踏むと小さく音を立てた。蔵の入口には、いつものように灯りが一つ置かれている。
ガルドはしばらく何も言わなかった。
アルノも黙っていた。
灯りの火が揺れ、入口の板に淡い影を作る。
「お前の父親は、森へ行った」
ガルドが言った。
アルノは息を止めた。
ローグの話は、村で避けられているわけではない。けれど、軽く口にされることもない。特にガルドは、必要な時以外、あの日のことを話さなかった。
「死にに行ったわけじゃない」
ガルドの声は低かった。
「戻るつもりだった、あいつは、そういう顔をしていた」
アルノは灯りを見た。
父の顔は、はっきり思い出せる時と、霧の向こうにある時がある。声も同じだ。近い日と遠い日がある。
ただ、帰ってこなかったことだけは変わらない。
「俺は、お前をローグの代わりにするつもりはない」
ガルドは続けた。
「村も、お前に背負わせるために生き残ったわけじゃない」
「分かってる」
「本当に分かってるか」
アルノは答えられなかった。
ガルドは蔵の扉に手を置いた。
「三年前、お前はよく見た、湿った藁も、壺も、棚も、橋も見た、おかげで助かったものは多い」
「全部じゃない」
「全部じゃない」
ガルドはすぐに頷いた。
「だからだ、全部じゃないと知っている者だけが、次を見に行ける」
アルノは顔を上げた。
ガルドの横顔は、灯りのせいで深い皺が濃く見えた。
「だが、ひとつだけ約束しろ」
「何を」
「死なないために行け」
風が吹いた。
灯りが小さく揺れる。
「水蔵を直すためじゃない、青き石を取りに行くためじゃない、王都に認められるためでもない、お前が見て、覚えて、帰ってくるために行け」
アルノの喉が、少し詰まった。
「帰れなかったら、意味がない」
「そうだ」
ガルドは短く答えた。
その声には、怒りに近い重さがあった。誰に向けたものかは分からない。冬か、森か、過去の自分か。それとも、帰ってこなかった友へのものか。
「ローグは帰りたかった」
アルノは小さく言った。
ガルドは目を閉じた。
「そうだ」
しばらく、二人は黙っていた。
蔵の中からは、何の音もしない。けれど、そこには三年分の灯りと、帳面と、持った壺がある。
アルノは拳を握った。
「俺は帰る」
「言葉だけなら誰でも言える」
「帰るために見る、危ないなら戻る、分からないものを、分かったふりで触らない」
ガルドはゆっくりとアルノを見た。
それから、初めて少しだけ口元を緩めた。
「なら、行け」
アルノは息を吸った。
ガルドは蔵の灯りを持ち上げ、アルノへ差し出した。
「帰るために行け」
その言葉は、許しではなく、縄のようだった。
遠くへ行く者の腰に結ばれる、帰る道の縄。
アルノは灯りを受け取った。
火は小さく、けれど確かに温かかった。




