第107話 行くか、行かないか
ミレヴァールへ行く話は、すぐには決まらなかった。
集会小屋には、いつもより多くの村人が集まった。雪解けの泥が靴に残り、床板の上に黒い跡を作っている。入口の横には、濡れた外套が並んでいた。
ガルドは手紙を机の上に置いた。
「大灯院からの正式な相談だ、だが、アルノを出すかどうかは、村でも話す」
「王都が呼んでるなら行くんだろ」
誰かが言った。
ガルドは顔を上げた。
「王都が呼べば、村の者を何でも出すわけじゃない」
その声で、小屋の中が静かになった。
アルノは長机の端に座っていた。自分のことなのに、少し遠くの話に聞こえる。水の国。青き石。水蔵。魚の壺。どれも紙の向こうにある。
バルナ婆さんが杖をついた。
「行かせた方がいいよ」
リナが顔を上げた。
「婆ちゃん」
「怖い顔をするんじゃない、行けばいいと言ってるんじゃない、知りたいなら、見なきゃ分からないって話だよ」
「でも、遠い」
「遠いね」
婆さんは頷いた。
「だから支度をする、帰る道を決める、手紙を出す、そういう話をするんだ」
カインが手を上げた。
「俺も行く」
何人かが一斉に振り向いた。
カインは肩をすくめる。
「何だよ、アルノだけで荷物持てると思ってんのか」
「遊びじゃないぞ」
ガルドが言う。
「分かってる、道を見る、橋を見る、足元を見る、俺は字は下手だけど、ロープなら結べる」
アルノはカインを見た。
「来るのか」
「お前、放っとくと水の底の石まで見に行きそうだしな」
「行かない」
「今はな」
小さく笑いが起きた。
けれど、リナだけは笑わなかった。
彼女は膝の上で拳を握っていた。泣きそうではない。怒っているようでもない。ただ、何かをこらえている。
「兄さんは、行きたいの」
その声は、集会小屋の真ん中に落ちた。
アルノは口を開きかけ、閉じた。
行きたいのか。
そう聞かれると、違う気がした。
水の国を見たいわけではない。王都で褒められたいわけでもない。知らない国で偉くなりたいわけでもない。
ただ、分からないまま置いておくのが怖かった。
魚が持たない理由。薬草が使えなくなる湿り。濡れた荷が運ばれる時間。青き石を火で戻そうとする手。省かれていく古い歌。
知らない場所で、また誰かが「神が離れた」と言って諦めるかもしれない。
それが嫌だった。
「行きたい、とは違う」
アルノは言った。
「分からないままにしたくない」
リナは目を伏せた。
「それ、兄さんらしい」
ガルドが腕を組んだまま、深く息を吐いた。
「今日ここでは決めない、家で話せ、支度のことも考えろ、行くなら、村の帳面を持って行く、戻ってくるまでの蔵守りも決める」
「戻ってくるまで」
リナが、その言葉を小さく繰り返した。
アルノは聞こえないふりをしなかった。
「戻る」
リナはすぐに顔を上げた。
「まだ決まってない」
「決まってなくても、そこは変わらない」
小屋の外で、雪解け水が屋根から落ちていた。
春は来ている。
けれど、出発の話は、冬支度よりも重かった。




