第104話 リナの小さな帳面
リナの帳面は、アルノのものより小さい。
表紙には薄い布が巻かれ、角にはカインが削った木片が当ててある。紙が濡れないよう、外へ持ち出す時は油を染み込ませた袋に入れる。大事そうに抱える姿を見て、村の子供達は少しだけ背筋を伸ばす。
昔のリナは、札の絵を見ていた。
丸なら壺。線なら棚。黒い点なら悪くなりかけたもの。三年前は、それを覚えるだけで必死だった。
今は違う。
「こっちは布替えの印、こっちは火入れ、こっちは開けたらすぐ使う壺」
リナは年下の子に、ゆっくり説明していた。
「読めなくても、印で分かるようにしてあるから」
「リナ姉は読めるんだろ」
「読めるけど、読める人だけが分かる帳面は駄目」
その言い方が、フィアナに少し似ていた。
アルノは小屋の外で薪を積み直しながら聞いていた。リナは気づいていたが、知らないふりをしている。見られると少し照れるらしい。
昼過ぎ、子供達が帰ると、リナは帳面を閉じた。
「兄さん」
「何だ」
「見てたでしょ」
「見てた」
「隠れて見るのやめて」
「隠れてない」
「壁の横にいた」
「邪魔しないようにした」
リナは不満そうに頬を膨らませたが、すぐに帳面へ目を落とした。
「フィアナさんみたいには書けないけど」
「十分だ」
「兄さんよりはきれい」
「それはそうだ」
アルノが素直に頷くと、リナは少しだけ笑った。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
リナは帳面の端を指でなぞりながら、低い声で言った。
「最近、兄さんは外の話ばかり見る」
アルノは手を止めた。
「そうか」
「魚とか、薬草とか、濡れた荷とか、ラーデ村には少ないものばかり」
「分からないからだ」
「分からないと、行くの?」
その問いは、まっすぐだった。
アルノはすぐには答えられなかった。
三年前なら、外へ行くなど考えなかった。村の蔵で手いっぱいで、家の寝床で手いっぱいで、目の前の冬を越すことだけを見ていた。
けれど、今は違う。
ラーデ村で続いた手順は、近くの村にも広がった。冬帳は王都まで届き、グランツ大灯院から返事も来る。そこには、ラーデ村だけでは見えないものが書かれている。
外には、別の湿りがある。
別の壺がある。
別の神事がある。
「まだ決まってない」
アルノは言った。
リナは目を細めた。
「それ、行く人の言い方」
「そうか」
「そう」
風が吹き、軒先の雪解け水が桶に落ちた。ぽたり、ぽたりと音がする。
リナは小さな帳面を抱え直した。
「行くなら、帰ってきて」
アルノは妹を見た。
それは、まだ出発を許す言葉ではなかった。
怖がっているのを隠しながら、それでも先に置かれた言葉だった。
「帰る」
「まだ行くって言ってないのに」
「そうだった」
リナは少し怒った顔をした。
けれど、帳面を抱える手は震えていなかった。
ラーデ村には、帰る場所を記録する人が育っていた。




