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腐敗は神罰ではありません 〜保存と冬支度から始める、寒村の生活改善〜  作者: 高山 墨人
蔵守りと冬の帳面

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閑話 帰るつもりだった人

その夜は暗く、吹雪の轟音に包まれていた。


森の奥は白い。


だが、その白さの奥に、嫌な気配が混ざっている。


俺は肩で息をしながら、雪へ膝をついた。


遠くで獣が吠えている。


低い。


腹へ響く声だった。


「ローグさん……」


エルクの声が震えている。


若い。


まだ、森の全部を知るには若すぎる声だった。


振り返らなかった。


振り返れば、エルクの顔を見てしまう。


見てしまえば、迷いが出る。


それが分かっていた。




日が暮れる前、バルナ婆さんの声が村に響いた。


「エルクが戻ってこないんだよ」


その声を聞いた瞬間、俺は薪を置いた。


胸の奥が冷えた。


昼前に山へ入った。


まだ戻らない。


雪が悪い。


それだけで十分だった。


「まずいな」


外套を取った。


戸口にリナがいた。


小さな手で戸枠を握り、何が起きているのか分からない顔でこちらを見ている。


「父さん?」


俺は一瞬だけ足を止めた。


本当は、笑ってやるべきだった。


心配するな。


すぐ戻る。


そう言えばいい。


けれど、その言葉を軽く言うには、外の雪が嫌な降り方をしていた。


それでも俺は、できるだけいつもの声で言った。


「すぐ戻る」


リナは頷いた。


全部は信じていない顔だった。


小さいのに、そういうところはセラに似ている。


何もかもを言葉通りには受け取らない。


俺はその頭を一度だけ撫でた。


「アルノを見ててくれ」


「うん」


アルノはまだ弱い。


病み上がりで、冬の空気にも負ける。


リナもまだ小さい。


セラがいれば、もっと上手く笑わせただろう。


俺には、それがうまくできない。


だから、帰らなければならない。


そのつもりだった。




村の中央で、俺はガルドを呼んだ。


「ガルド!」


ガルドはすぐに顔を上げた。


「エルクが戻らない」


それだけで、ガルドの目が変わる。


さすがだと思った。


余計なことを聞かない。


すぐに縄と灯りを持つ。


村の男達も集まる。


誰も騒がない。


雪の森で人を探す時、大声で不安を増やしても仕方がない。


必要なのは、道具と足と、帰る気だ。


「黒樹の先だと婆さんが言ってる」


「なら先にそこを見る」


槍を握った。


柄が手になじむ。


何度も森へ入った。


何度も雪の中を歩いた。


それでも、今日は嫌な感じがした。


冬の森は、同じ顔をして何度でも人を騙す。


知っている道を消す。


近いはずの声を遠ざける。


帰れるはずの足を重くする。


だから、急がなければならない。


急ぎすぎてはいけない。


その加減が、一番難しい。




森は白かった。


足跡は見えた。


エルクのもの。


まだ迷ってはいない。


だが、その横に大きな爪の跡があった。


俺は息を止めた。


冬獣。


口にしなくても、男達には伝わった。


ガルドがこちらを見る。


俺は短く頷いた。


「別れる。見つけたら声を上げろ。近づきすぎるな」


「お前もだ」


ガルドが言う。


俺は笑った。


「俺は森を知ってる」


「森はお前を知らん」


「言うなぁ」


少しだけ笑いがこぼれた。


その笑いで、男達の肩から力が抜けた。


こういう時こそ、力が入りすぎると足を取られる。


ガルドは分かっている。


だから、ローグもいつものように返した。


その時は、まだ帰れると思っていた。




エルクは、黒樹の先の窪地にいた。


片足を雪に取られ、薬草籠を抱えたまま動けなくなっていた。


顔は青い。


指先も震えている。


それでも意識はあった。


「ローグさん……」


「立てるか」


「たぶん」


「たぶんじゃなく、立て」


エルクの腕を引いた。


雪から足が抜ける。


膝が折れかけたが、まだ歩ける。


よかった。


まだ戻れる。


そう思った瞬間、森の奥で枝が折れた。


太い枝だった。


雪の重みで折れた音ではない。


踏み折られた音だ。


エルクの肩を押した。


「走れるか」


「……はい」


「村に戻れ」


「でも!」


「道は分かるな」


「分かる」


「なら戻れ」


エルクは動かない。


若い。


優しい。


だから、ここで迷う。


俺は少し苛立った。


その優しさは、今はいらない。


生きて帰ることだけ考えろ。


「ローグさん!」


「大丈夫」


少しだけ笑った。


ちゃんと笑えたかは分からない。


「俺も死ぬつもりはない」


それは本当だった。


死ぬつもりなどなかった。


家へ帰る。


リナに怒られる。


アルノの熱を見る。


セラの古い布をまた直せなかったと言って、心の中で詫びる。


そういう夜へ戻るつもりだった。


「時間を稼ぐだけだ」


エルクの顔が歪む。


「ガルド達を呼んでこい」


その言葉で、エルクの目が変わった。


戻らなければ。


そう思った顔だった。


よかった。


帰る場所を思い出したなら、まだ走れる。


森の奥で、低い唸りがした。


近い。


もう、迷っている時間はなかった。


「走れ!!」


怒鳴った。


エルクはようやく走り出した。


雪を蹴り、転びかけながら、それでも村の方へ走っていく。


その後ろ姿を横目で見た。


小さい背中だった。


まだ若い。


だから、生きて帰らなければならない。


「……子供達を頼んだぞ」


聞こえたかどうか分からないほど、小さい声だった。


言ってから、自分で少し驚いた。


誰に言ったのか分からなかった。


エルクにか。


ガルドにか。


雪にか。


それとも、もういないセラにか。


アルノ。


リナ。


家へ帰りたい。


本当は、ちゃんと帰りたい。


その気持ちは、胸の中にまだあった。


強くあった。


でも、ここでエルクを見捨てれば、自分は一生後悔する。


帰れても、家の灯りの前で息ができなくなる。


そういう性分だった。


セラなら、きっと怒る。


でも、分かってもくれる。


リナは泣くかもしれない。


アルノは、黙るかもしれない。


そんなことまで考えて、苦笑した。


「……怒るだろうな」


雪が降る。


白い。


静かな雪だった。


冬獣の影が、木々の間に見えた。


大きい。


重い。


こちらを見ている。


槍を構えた。


柄が湿っている。


雪か、汗か。


どちらでもよかった。


「来い」


声は震えなかった。


不思議と、胸の奥が少し温かかった。


まるで誰かが、まだ終わらないと言っているみたいだった。


最後に家を思い浮かべた。


湿った壁。


小さな灯り。


リナの怒った顔。


アルノのぼんやりした目。


セラの笑い方。


全部、帰る場所だった。


「アルノ」


名前がこぼれた。


なぜ、その名だったのかは分からない。


弱かったからか。


守りたかったからか。


それとも、何かを託したかったからか。


答えは出なかった。


次の瞬間、森が揺れた。


雪が舞い上がる。


槍を突き出した。


帰るつもりだった。


最後まで、帰るつもりだった。


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