閑話 ガルドの冬
冬の帳面に、飢えによる死者なし、と書かれた日の夜。
俺は灯院の外に立っていた。
雪は細かい。
風は強くない。けれど、息を吸うと胸の奥まで冷えた。
灯院の中では、まだ小さな声がしている。フィアナが帳面を片付け、ミレナがリナを帰らせようとしている声。カインは何かを言いかけて、たぶんミレナに止められている。
今年の冬は、まだ終わっていない。
それでも、帳面には確かに書かれた。
保存失敗による大きな損失なし。
物資不足による配分停止なし。
飢えによる死者なし。
俺はその言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
なし。
たったそれだけの言葉が、ずいぶん重かった。
「ローグ」
声に出すつもりはなかった。
けれど、白い息と一緒に名前がこぼれた。
返事はない。
あるはずがない。
俺は灯院の壁にもたれ、雪の積もる道を見た。
あの日も、雪だった。
エルクが戻らないと聞いた時、ローグは誰より早く動いた。
バルナ婆さんが珍しく取り乱していた。
「エルクが戻ってこないんだよ」
その言葉を聞いたローグは、短く舌打ちした。
「まずいな」
それだけで外へ出た。
俺が木を割っていると、ローグの声が村の中央に響いた。
「ガルド!」
低い声だった。
怒鳴っているわけではない。だが、森へ入れる男には十分届く声だった。
「エルクが戻らない」
その一言で、村の空気は変わった。
誰も騒がなかった。
騒いでも、雪は待たない。
縄。
灯り。
槍。
雪避け布。
森へ入れる男たちは、自然と集まった。
ローグは支度が早かった。
槍を持ち、外套を締め、灯りの油を確かめる。手は迷っていない。けれど、顔は険しかった。
俺はその横顔を覚えている。
あれは、死にに行く顔ではなかった。
帰るために急ぐ顔だった。
「居そうな場所は」
「黒樹の先だと婆さんが言ってる」
「なら先にそこを見る」
ローグは即答した。
その時、戸口にリナが立っていた。
まだ小さかった。
雪の中へ出ようとする父親を見て、何が起きているのか分からないまま、目だけを大きくしていた。
「父さん?」
ローグは一瞬だけ振り返った。
本当に一瞬だった。
それでも、俺は見た。
ローグの顔が、ほんの少しだけ柔らかくなるのを。
「すぐ戻る」
ローグはそう言った。
嘘をつく声ではなかった。
本気でそう思っている声だった。
だから俺も、何も言わなかった。
すぐ戻る。
そう信じたかった。
森の中は、白かった。
雪が降るたび、足跡が浅くなる。
時間が経つほど、エルクの跡も、獣の跡も、森に飲まれていく。
俺は雪の上へ膝をつき、足跡を見た。
二人分。
一つは軽い。
一つは深い。
その横に、大きな爪の跡があった。
誰も、それを声に出さなかった。
冬獣。
声にしたところで、現実は変わらない。
「別れる」
俺が言う前に、ローグが頷いた。
「見つけたら声を上げろ。近づきすぎるな」
「お前もだ」
俺が言うと、ローグは短く笑った。
「俺は森を知ってる」
「森はお前を知らん」
「言うなぁ」
それが、俺が聞いたローグの最後の軽口だった。
男たちは散った。
雪は音を吸う。
森は静かだった。
けれど、静かすぎる森ほど嫌なものはない。
最初に声が聞こえたのは、俺ではなかった。
遠くで誰かが叫んだ。
「いたぞ!」
その声へ向かった時、俺は枝の折れる音を聞いた。
低い唸り。
雪の奥から響く、腹の底を揺らす声。
俺が走った時には、エルクが森の中を転がるように走っていた。
顔は真っ白だった。
息は切れ、足はもつれ、片方の手には薬草籠の紐だけが残っていた。
「ガルドさん!」
俺はエルクの肩をつかんだ。
「ローグは」
エルクは息を吸った。
言葉が出ない。
出せないのだと、すぐ分かった。
その後ろ、白い森の奥で、ローグの声が響いた。
「走れ!!」
それは、怒鳴り声だった。
子供を生かすための声だった。
俺はエルクを男の一人へ押しつけた。
「村へ戻せ」
「でも」
「戻せ!」
男がエルクを抱えるようにして走り出す。
俺は槍を握り直し、森の奥へ向かった。
雪が深い。
足が取られる。
焦れば焦るほど、雪が重くなる。
その時、俺は小さな声を聞いた気がした。
「子供達を頼んだぞ」
風だったのかもしれない。
雪の音だったのかもしれない。
今でも分からない。
けれど、その言葉だけは、耳の奥から消えない。
子供達。
アルノ。
リナ。
村の子供たち。
ローグの声は、そこに全部を置いていった。
俺は走った。
だが、間に合わなかった。
森が揺れた。
雪が舞い上がった。
槍の折れる音がした。
それから、冬獣の声が遠ざかっていった。
ローグは、帰るつもりだった。
今でも、そう思っている。
あいつは死に場所を探すような男ではなかった。
セラが病で伏せた時も、アルノが弱っていた時も、リナが泣いた時も、ローグは帰るために動く男だった。
薪を背負って帰る。
薬草を持って帰る。
兎を一羽でも持って帰る。
泥だらけになっても、雪をかぶっても、あの家へ帰る男だった。
だから、あの日も帰るつもりだった。
エルクを戻し、少し時間を稼ぎ、俺たちを呼ばせて、自分も帰る。
そういうつもりだった。
ただ、冬は人のつもりなど簡単に折る。
それだけだ。
「親父?」
カインの声で、俺は目を開けた。
灯院の戸口に、カインが立っていた。
「こんなとこで何してんだよ」
「冷やしてる」
「何を」
「頭だ」
「また分かりにくいこと言う」
カインは外套の襟を上げながら隣へ来た。
昔のローグより、少し背が伸びた気がする。
もちろん、まだ全然違う。
カインは雑で、すぐ口を出し、泥に足を取られ、余計なことを言う。
だが、橋の時、こいつは戻るために動いた。
牙ではなく橋だと分かった。
それだけで、少しだけ大人に近づいたのかもしれない。
「リナ、帰ったか」
「ああ。アルノとミレナが連れてった。何度も帳面のこと聞いてた」
「そうか」
「なし、ってそんなにすごいのか」
カインが聞いた。
俺は雪の道を見た。
「すごい」
短く答える。
カインは少し驚いた顔をした。
「親父がそう言うなら、すごいんだな」
「すごいことだ」
もう一度言った。
飢えで死なない。
保存の失敗で持ち寄りを大きく失わない。
物資不足で配分が止まらない。
それは、派手な話ではない。
冬獣を倒した話でも、英雄が生まれた話でもない。
けれど、ローグが帰れなかった冬を知っている者には、その重さが分かる。
子供が、少し死ににくくなった。
それだけで、十分すぎるほど大きい。
カインは雪を蹴った。
「アルノ、すげえな」
「あいつ一人じゃない」
「分かってる」
「本当に分かってるか」
「最近は分かってる」
カインは少しむっとした顔で言った。
俺は鼻を鳴らした。
その言い方が、少しローグに似ていた。
言うなぁ、と返す声が、どこかから聞こえた気がした。
灯院の中で、フィアナが灯りを消す準備をしていた。
小さな火が揺れている。
俺はその火を見た。
強い火ではない。
だが、消えないように整えられた火だ。
ローグが守ろうとしたものは、きっとこういうものだった。
子供が帰る家。
灯りのある部屋。
少し温かい粥。
明日もまだ続くと思える冬。
大げさな言葉ではなく、そういうものだ。
「カイン」
「ん?」
「明日、溝を見るぞ」
「またかよ」
「雪で埋まる」
「分かったよ」
カインは面倒そうに言ったが、逃げる気はなさそうだった。
俺は灯院の階段を下りる。
雪は静かに積もっている。
ローグは帰らなかった。
その事実は変わらない。
だが、今年は帳面に、飢えによる死者なしと書かれた。
空へ息を吐いた。
白い息が、すぐに夜へほどける。
「ローグ」
返事はない。
それでも、俺は続けた。
「子供達は、まだここにいる」
言葉は雪に吸われた。
だが、それでよかった。
聞こえたかどうか分からないほどの声で十分だった。
あの日のローグも、きっとそうだったのだから。




