第7話 月の光の旋律
「はぁ……」
太陽が空の真ん中にある時刻、シエルレインはテラスの椅子にだらしなく体を預け、空を仰いだ。
目覚めてからの数日、暁月は片時も離れなかった。身体機能の回復のために行うリハビリも、寝食も入浴も——文字通り手取り足取り。排泄だけはシエルレインが断固として拒否したが、それ以外のあらゆる場面に暁月はいた。
今日は所用があるらしく、朝食を共にした後に外出していった。
久方ぶりに解放されたシエルレインは、なんだか気が抜けたように、普段より少し小さく見えた。
「お疲れのようですね、シエル様」
芳しい香りと共に、温かいお茶と焼き菓子が運ばれてくる。
「十六夜……」
「甘いものでも召し上がって、ゆっくりされてください」
十六夜と呼ばれた人物は、小さな円卓に茶器とお菓子を静かに置いた。暁月と同じ黒髪は頭の高い位置でひとつに束ねられ、金色の紐で結われている。眉上で真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下、琥珀色の瞳がよく見えた。
「ありがとう」
焼き菓子をひとつつまんで口に入れる。サクサクとした食感、口の中に広がる甘酸っぱい風味。乾燥させた果肉が混じっているらしい。
「この中に入ってるのは……ベニマ?」
「さすがシエル様。ベニマを乾燥させた果肉と果汁を生地に練り込んで焼いたものです。今年は特に出来が良くて、シエル様の好物だとお聞きしていたので」
十六夜は少しはにかみながら続けた。
「シエル様に召し上がっていただいても良いか、暁月様にお許しをいただくのが大変でしたけど……」
「あはは……そうだったんだね。ありがとう十六夜」
「お召し物からお口に入るものまで、全て暁月様が管理されていますから。お茶の一杯でも、まずは暁月様がご納得のいくお味と淹れ方でないといけませんし」
ほんの少し唇を尖らせて困り顔になる十六夜は、手のかかる子どもを抱えた母親のようだった。
「仕方ないわよぉ、十六夜。暁月様はシエル様にご執心なんだから」
間延びした声と共に、窓からひとりが現れた。すらりとした長身、艶やかな黒髪は三つ編みにされて体の前面へ流されている。無造作に分けられた前髪と片眼鏡の向こうから、蒼玉の瞳が三日月のように妖しく光った。
「十三夜!また無礼な物言いを……」
十六夜の鋭い視線を軽やかに受け流し、十三夜はするりとシエルレインに近づく。
「シエル様ぁ、ちゃんと食べてますう?お肉つけないとガリガリのままですよ。あ、ほっぺにお菓子ついてるわ」
左頬についた菓子の欠片をそっと指で拭うと、そのままパクリと食べてしまった。それから顎を持ち上げ、シエルレインの顔を覗き込む。
「顔色は良いみたいね。どれどれ……」
両肩に手を乗せ、目を閉じて何事か囁く。温かい風が体を包み、頭からつま先へと静かに循環していく。
「体温も脈拍も正常、血の巡りも良好。精神の不調もなし——良い状態ね」
両肩から手を離すと、十三夜はシエルレインの頭をひと撫でしてテラスの手摺りに腰を預けた。端正な顔立ちと女性的な話し方に反して、服の上からでもしなやかな筋肉がよく鍛えられているのが見て取れる。
十六夜と十三夜は暁月に仕える者だ。目覚めた日に紹介された。治癒術を扱う十三夜はシエルレインの治療と体調管理を担い、大地の力を魔力に変換できる十六夜は主に食事を作っている。もっとも暁月があまりに甲斐甲斐しく世話をするので、二人の出番はその他の雑事がほとんどだったが。
「シエル様、今日は何をいたしましょうか。暁月様は、部屋を出ること以外は自由に、と仰っていましたが」
「自由にといわれてもねぇ。部屋にいることも飽きておいででしょう?」
「うーん……暁月と十六夜と十三夜以外この部屋に入ることを禁じられているから、誰かに会うこともできないし」
しばらく思案していると、十六夜がおずおずと口を開いた。
「あの……ピアノを、弾いていただけませんか?お目覚めになってからまだ一度も演奏されていないようですし」
「あら、それはいいわね。私もシエル様のピアノ、聴いてみたいわぁ。暁月様ったらいつもシエル様にべったりで、私達とまともに会話もさせてくれないしぃ。今日はシエル様と二人でゆっくりお話しちゃおっと」
十三夜は自分の両頬を両手で挟んでにっこりする。
「夢の中ではたまに弾いていたけど……うまく指が動くかな。実際に触れるのは三年ぶりだから、あまり期待はしないでほしいんだけど」
「はい、是非!」
「お願いします、シエル様ぁ」
ほぼ同時に声が重なった。
シエルレインは立ち上がり、部屋の角に置かれたピアノへ向かった。優雅な曲線を描くそれは全てガラスで作られており、美しい内部構造が外からも見て取れる。まるで今日演奏されることを知っていたかのように上蓋も鍵盤の蓋も開けられており、一点の曇りもなく磨き上げられていた。
椅子を引いて座る。高さを確認し、ペダルを踏む。問題ない。
「それじゃあ、弾いてみるね。これは夢の中で暁月に教えてもらった曲で、たまに一緒に弾いていたんだけど……」
白い手と黒い手が、鍵盤の上に乗る。
一音が、静かに空気を揺らした。
月の光で大地が照らされるような、星の瞬きの音さえ聞こえそうな、深い夜の旋律。慈しみがただ静かに、言葉もなく心の奥へ広がっていく。
その音楽を聴きながら、十六夜と十三夜は何かに思いを馳せるように、遠くを見ていた。深い悲しみを湛えた瞳で、どこか遠い場所を。
懸命に鍵盤と向き合っているシエルレインは、それに気づかなかった。
二人が何を知っているのか。この曲が何を意味するのか。
問いはまだ、音の中に溶けたまま、答えられずにいた。




