第6話 銀糸と約束
目を開けると、見慣れた天蓋がぼんやりと視界の向こうに揺れていた。
どのくらい眠っていたのだろう。私は自室の寝台に横たわっていた。
体を動かそうとした瞬間、足先から腹、胸、指先、腕、顔まで——全てが鋭い痛みに焼かれた。手足が思うように動かない。枷をはめられ、拘束されているようだった。
頭の中が重い。黒い霧がかかったように、記憶が曖昧で思考が鈍い。
必死に目だけを動かして辺りを見回すと、寝台の傍に両親がいた。やつれて憔悴し切った顔で、複雑な感情を含んだ曇ったガラス玉のような瞳が、無表情に私を見下ろしている。
その後ろ、窓辺にもたれかかって不敵な笑みを浮かべる見知らぬ青年がひとり。
「目覚めたか、苛烈な少女よ」
妖しい声色に、どこか聞き覚えがある気がした。でも思い出せない。黒衣の青年は寝台に近づき、私の顔を覗き込んだ。満月のような黄金色の瞳が、昼間の猫のように細くなる。
「シエルレインからの言葉を伝えに来た」
心臓が、強く脈を打った。
巨大な氷に押し潰されるような感覚が全身を稲妻のように駆け抜ける。そして——全てを思い出した。
シエル。シエルが、生きている……?
「……シエル……」
涙が溢れた。安堵と後悔と懺悔と、言葉にならない感情が入り混じって、次々と頬を伝ってシーツを濡らしていく。
青年は手のひらを差し出した。程なく、緑色の揺らめく炎のような光が現れる。それに小さく息を吹きかけると、光の中からシエルレインの声が聞こえてきた。
まだ声変わりをしていない、柔らかく優しい声。いつまでも聞いていたいと思う、愛しい声。
「セシリア、傷の具合はどう?君のことを聞いて、とても心配しているよ。相変わらず君は無茶なことをするね。君の隣にいるその人から大体の事情は聞いている。僕は今、その人に身体の治療をしてもらっているんだ。少し難しい怪我だから、しばらくの間僕の体は眠ったままになるそうなのだけど、心は彼が魔術で作ってくれた夢の中でちゃんと生きているから。
いいかいセシリア、よく聞いて欲しいんだ。僕は君を決して恨んだり憎んだりなんかしていない。どうか自分を責めないでほしい。
そうは言っても、生真面目で責任感の強い君だから、君は君を許さないだろうし、君を取り巻く人々からも辛く当たられるかもしれない。だから僕は決めたんだ。
セシリア、君を、僕の婚約者とする。
今後、何人も君に害をなすことを許さない。君も決して自身を傷つけてはいけない。皇族の婚約者が自らを貶めることは皇家を、この国を冒涜することになる。そんなことは許されないと、賢明な君自身が一番よくわかるはずだ。
もしかしたらこれは死よりも苦しいことを君に与えてしまうのかもしれない。でも、それでも僕は君に生きていてほしい。僕が眠りから覚める時を待っていてほしいんだ、セシリア。
僕から君への初めてのお願いを、どうか叶えてください」
光が、消えた。
静寂が落ちた。
私が、シエルの婚約者に——。
本来なら天にも昇るような喜びのはずだった。なのに、どす黒い罪悪感で心が千切れそうになった。痛い。身体の傷なんかより、心が痛い。
シエルはわかっていたのだろう。このままでは私が自ら死を選ぶかもしれないことを。そうしなかったとしても、シエルをああしてしまった恨みで誰かが私を害すると。誰も私をどうこうできないようにするには、大きな力の中に入れてしまうこと。皇位継承権第一位の婚約者にしてしまえば、誰も——私自身でさえも——「シエルレインの婚約者セシリア」に傷をつけられない。
優しいシエル。
でもこの優しさは、残酷だ。
「シエルからの伝言は以上だが、少女よ。お前からは何かあるか?」
何も、言えなかった。
懺悔も、感謝も、謝罪も——何もかも言葉にすることが違和感だった。今の自分に何が言えるだろう。何を言っても、本物にならない。言葉の代わりに、雫が瞳から零れ落ちた。
青年は胸の前で腕を組み、返答を待っているようだった。
この青年は何者なのだろう。この国ではほとんど見ない黒髪に、異国の長衣。シエルはこの人から治療を受けていると言っていたけれど、宮廷医師や治癒師の中に異国の者がいると聞いたことはない。
「あなたは……誰なのですか」
満月の瞳を見返して問う。
「今のところシエルの主治医であり、あやつの世界とこちらとを繋ぐ仲介人といったところだ。私のことを詳しく知りたければ、お前が動けるようになってからゆっくり語ってやろう。色々と複雑なのでな。さて、そろそろ失礼するとしよう。あとの治療は王宮内の医師や治癒師に任せても問題ないぞ、公爵」
唖然としている両親に一瞥をくれ、青年は立ち去ろうとした。
「お待ちください。代理人というなら、あなたがなさることはシエルと同じと思って良いのでしょうか?」
黄金色の瞳が鋭く光り、私に向けられた。
「それはシエルが望めば、そうなるであろうな」
「シエルが望まないことは?」
「……何が言いたい、少女よ。私はどんなに請われようと、お前を殺したり切り刻んだりすることはできんぞ。シエルの願いだからな」
「殺す、傷をつける、以外なら?」
「できないことも、ないだろう」
私は枷をはめられた手足をなんとか動かし、寝台から立ち上がった。背の高い黒衣の青年を見上げる。
「髪を、切って欲しいのです」
「セシリア!」
「駄目よ!あなた、わかってるの?この国で女性が髪を切るということは——」
「わかっています!」
両親の顔を視界の端に収めて、再び青年を見た。
「私の髪を、短く切ってください」
「ほう……それになんの意味があるのだ?」
短く息を吐いて、続ける。
「この国では女性はみな、髪を長く伸ばします。身分に関係なく、死ぬまで長く美しい髪を保つことは、この国に生まれた女性として真摯に生きた証なのです。かつて神代の昔、この国が災厄に見舞われ滅びかけた時、私の祖先である騎士が最後まで戦いました。誇り高く、慈愛に満ちた女性だったと言われています。災厄ののち、この国の女性はその祖先を讃え、髪を伸ばすことが風習となりました。銀色の長く美しい髪をしていたその姿を模すことで、その騎士のようにあれるよう、受け継がれてきたのです」
「長く美しい銀色の髪を持つ祖先か。まさにお前のような女だったということだな」
「私の家系は代々銀色の髪と魔力を持つ者が生まれます。それ故に、特に我が一族の女性は髪を伸ばし、美しく保つことに誇りを持っているのです。そのような風習のある我が国で、ただひとつ女性が髪を短くする時があります」
「それは——罪を犯し、罪人となった時」
「一度でも罪を犯して髪を切られれば、その女性は二度と髪を伸ばすことを許されません。死ぬまで罪人の烙印を押されて生きるのです。罪を償う機会は与えられず、生涯囚人奴隷として使われる。時には人としての尊厳を全て奪われ、命が尽きるまで……」
「なるほど。自分を傷つけることも死ぬことも許されない代わりに、罪人の証が欲しいというわけだな。だがそれはシエルレインが受け入れまい。その奴隷のような罪人が皇家の婚約者で良いとお前は思うのか?」
私は青年の黒衣の胸元を、枷をはめられた手で掴んだ。
「シエルは……髪を切るなとは言っておりません。彼との約束を違えるわけじゃない。死ぬことでも傷がつくことでもないなら、せめてもの罰としてこの身に罪の証を……」
「お前が髪を切ることで、シエルレインが心を痛めるとは思わないのか」
青年の声色に、静かな怒りが込められていた。
「お前はあやつをあのような姿にしただけでは飽き足らず、さらに心まで傷つけるつもりなのか。罪の証が欲しい?お前のその強欲さが、傲慢が、このようなことを引き起こしたのではないのか」
金色の瞳が、朱が挿したように赤く染まって見えた。
そうかもしれない。
いや、きっとそうなんだ。偶然見つけた魔術書の呪文を得意げに試したからこんなことになった。みんなを驚かせたかった。シエルに「すごいね」と言ってほしかった。シエルに、褒めてもらいたかった。それだけだったのに。あんなことになってしまった。大好きな人を、言葉の通りぐちゃぐちゃにしてしまった。美しく優しい、奇跡のようなあの人を。私が、この手で——。
「うっ……うう……もう……私、どうしたら……どうしたら少しでも償えるの……ごめんなさいと伝えられるの……シエル……シエル……!」
青年の胸元を両手で力一杯掴みながら、堪らず声を上げた。
泣くな。泣くな、泣くな。泣きたいのはシエルだ。私じゃない。誰か、誰か、私を——罰して——。
ふと、青年の両腕が私を包んだ。
その瞬間、風が吹いた。
ザッ——。
首元を旋風が通り過ぎたと思った瞬間、視界が開け、銀糸が空を舞った。
「ああっ、なんてことっ!」
母の甲高い声が聞こえた。
「おや、失礼。お前の首元についていた埃を風の魔術で払おうとしたら、少し威力が強すぎたようだ」
温かい空気が首筋をなぞる。
頭が、軽い。
空に舞う煌めく銀糸が自分の髪だとわかるのに、時間はかからなかった。
「少女の母君よ、これは私の罪だ。彼女に非は何もない。この国の慣習を知らない異国の者が、祖先の騎士の一族の髪を《まちがえて》切ってしまっただけだ。そう皆に触れまわると良い。咎ならばいくらでも受けよう」
金色の瞳が私を見つめ、口を開く。
「なんだ、存外短い髪の方が似合うではないか。この国の風習も変えた方が良いのではないか、未来の皇后様?祖先の騎士殿もその方が喜ぶぞ。だいたいあやつは……いや、なんでもない」
形の良い薄い唇が三日月のように微笑み、青年は私の頭をくしゃくしゃと撫でた。そして身を翻して去っていく。
「あの……!」
歩みが止まり、横顔でこちらを見遣る。
「私は暁月。気が向いたら皇宮へ訪ねてくるがいい——あとは、お前次第だ」
艶やかな黒髪を靡かせ、青年は去った。
後に残されたのは呆然と立ち尽くす両親と、顎の下で短く切り揃えられた銀の髪をした私だけだった。
罪の証を手に入れた私は、少し安堵していた。
あの青年は、私を掬い上げてくれたのだ。愚かな私を——。
シエルは言っていた。目覚めるまで、待っていてと。目覚めるまで、生きていてと。
約束する。貴方が目覚めるまで、自分を傷つけない。どんなに死にたくなっても、死なない。だから——貴方が目覚めたら、私の願いを叶えてほしい。
そう思いながら生きてきた、三年間だった。
私は最後まで強欲なのかもしれない。
貴方に、殺されたい。
そのために私はこの計画を進めてきたのだから。貴方は何も知らなくていい。私が全ての罪を背負って、死んでいく。
やっと来た。
やっとやっと、この時が。ずっとずっと、待ち望んでいた。
私は必ずやり遂げてみせる。




