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夜明けの皇子と宵の月  作者: 月夜洸星
第一章 夜明けの星

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第8話 月神の誓い

シエルとの朝食を終えた後、暁月が向かった先は皇帝の私室だった。


ルナリア皇国の皇宮は、皇族の住まう南側の中心部と、その東西に伸びる両翼の建物でできている。中心部には大きな中庭と祭殿があり、月を崇めるこの国の象徴——皇家の紋章が祭殿の屋根の上で威厳を放っていた。

東翼には使用人や兵士の部屋が、西翼には宮廷貴族の住まいや執務室、会食場、魔術と兵術の研究機関が並ぶ。

皇族はそれぞれ中央部の二階に私室を持ち、皇帝を中心に皇后、そして中庭を挟んで向かい合うように皇子と皇女の部屋がある。


月の回廊と呼ばれる長い廊下を歩き、いくつかの扉を越えて、暁月は皇帝の私室の前に立った。両脇に控えた近衛が深々と礼をし、扉をノックする。


「皇帝陛下、暁月様がお見えになりました」


少し遅れて、威厳を含んだ低い声が応えた。


「お通ししなさい」


カチャリ、と冷たい音を立てて扉が開く。執務用の机の前に、皇帝が佇んでいた。


暁月の後ろで扉が静かに閉まった。


完全に閉まったのを確認するや否や、皇帝は両膝を折り、胸の前で手を合わせて頭を垂れた。


「暁月様、お待ちしておりました」


一国の皇帝が一人の男に向ける姿とは思えなかった。まるで大いなる存在に祈りを捧げるかのように。


「頭を上げよ」


暁月は凛とした声色で言う。


「そう大仰にせんでもよい。もう——月は堕ちたのだから」


遠くを見つめるような瞳の先に何が映っているのか、誰も知る由もない。


「しかし……」


「くどいぞ、レグルス。皇帝は皇帝らしく振る舞えばよいと何度も言っておるであろう。私はこの国に訪れた、ただの異国の過客なのだ」


胸の前で腕を組み、ため息混じりに暁月は言った。


「……承知いたしました」


しばしの沈黙の後、ルナリア皇国皇帝——レグルス・アステル・ド・ルナリアは細い声で答えた。


「話し方も対等でよいとあれほど……」


「いえ、流石にそれは。せめて二人の時だけでも」


祈りの姿勢のまま顔だけを向けて、そこだけは絶対に譲らないという意志をその瞳に込めてレグルスは言う。


「わかったわかった、好きにせよ」


暁月は降参したとでも言うように、右手をひらひらとさせた。


レグルスはゆっくりと立ち上がり、執務室の隣の部屋へ暁月を案内した。大きなソファーに暁月を座らせ、自らはテーブルの上の茶器で茶を注ぐ。白い湯気と共に、柑橘の香りが部屋を包んだ。


「この香りは……」


「ベニマの果汁が入ったお茶です。シエルレインの好物の……」


暁月はふと、十六夜の顔を思い出した。シエルに食べさせたいと試行錯誤を繰り返してベニマの焼き菓子を作り、食べさせても良いかと何度も味見をさせられた。合格点を出したのは確か六度目の時だったか。


「……美味いな」


太陽よりも濃い色をした茶を一口飲んで、暁月は言った。


「さて、本題に入ろう」


「……はい」


向かいに座ったレグルスはきゅっと唇を噛み締め、居住まいを正した。


「成人の義までまだ幾日かあるが——災厄の兆候が出てきている」


暁月はコクリと茶を飲み、視線を落とす。


「……今回は、いつもと違ってやけに早い」


今回は——その真の意味を知る者は、この世界でほんの一握りだ。


「魔女は、何か気づいているのかもしれぬ」


眉を顰めて暁月は言う。


「……運命は、変えられるでしょうか」


レグルスは乞うような眼差しを向ける。


「変えてみせる。変えねばならぬのだ。もう——千年以上もあやつは檻に囚われたままだ」


暁月は目を閉じ、細いため息を吐いた。


「何度、運命に抗っただろう。その度に打ちのめされ、己の無力さを呪い、罪を重ね、それでも生き続けてあやつを待ち——また抗う」


言葉を紡ぐにつれ、その面持ちが悲痛なものへと変わっていく。レグルスは無言で見つめていた。


「……だが、今度は違う」


黄金の瞳が、怒りとも悲しみともつかない色に染まった。


「月は堕ちたが、再び輝く。私も、私に従う者たちも、長い時間をかけて力を取り戻してきた。呪われた運命は——もう終わりだ」


それは宣言か、予言か。


「暁月様、私は何をすれば良いのでしょうか」


「力を失ったお前たちができることは、何もない。定められた時に、定められたことをするだけだ」


「しかし……」


「お前たちができることは、運命を超えた先の未来に待っている。この千年、どの皇帝も成し得なかったこと——月星(シエル)の、いや、シエルレインの生きる日々を、共に紡ぐのだ」


宵闇を静かに照らす月明かりのような声色だった。


「そのために、歴代の明けの明星につけるべきとされた"シエル"ではなく、"シエルレイン"としたのであろう」


「暁月様……」


レグルスの瞳に光が滲む。


「どうか、息子をお救いください。あの子を——幸せにしてやりたい……」


暁月は不敵な笑みを浮かべた。


「レグルスよ、勘違いしてもらっては困る。あれは元々私のものなのだ。月星の肉体も魂も全て、永遠に私と共にあらねばならない。あやつを幸福にするのは、当然のことだ」


「……暁月様の仰せの通りなのですが……どうも、息子を嫁がせるような気持ちになってしまいますな」


目尻に皺を寄せ、レグルスは柔らかく笑った。皇帝ではなく、一人の父親の顔だった。


「シエルレインは、どうしておりますか」


「私と従者たちと、元気にやっている。日常生活に問題はない。次期皇帝に相応しい、立派な十六歳の青年になっているぞ」


「それはよかった。三年も顔を見ておりませんので、皆寂しがっております。特にメルウィントなど、毎日のようにシエルレインの話をしておりまして」


さらに目を細めて笑う。


「今回は魔女の呪いと災厄がシエルにどう作用してくるかわからぬ故、私と側近だけが傍にいた方が対処しやすい」


「会えるのは……運命の日ですか」


「必ず、救ってみせる」


暁月は立ち上がり、レグルスを真っ直ぐに見据えた。


「かつての、月神の魂に誓って」


「信じて、おります」


レグルスは再び床に膝を着き、祈りの姿勢をとった。


暁月はその前に静かに立ち、右手をゆっくりと差し伸べる。指先が、レグルスの額に触れた。月の光に似た粒が、ふわりと揺れた。


それは月神の祝福——千年の時を越えて、なお消えることのない、ただひとつの誓いだった。


---


皇宮への廊下を引き返しながら、暁月は自分の右手を見た。


指先に残る、かすかな温もり。


千年前も同じ手で多くの魂に触れた。千年後も、きっとそうするだろう。それでも毎回、この温もりは新しかった。


シエルの私室の扉の前に立った時、中から談笑の声が聞こえた。


弾んだシエルの声と、十六夜と十三夜の声。


暁月は扉を開けた。大きな音を立てて。


「お戻りですか、暁月様」


「暁月様ぁ、おかえりなさいませ」


「早かったね、あか……っ!」


言葉の途中でシエルの体が宙に浮いた。暁月が無言で抱き上げ、そのままベッドへ向かう。柔らかな寝具の上に降ろすと、覆い被さるようにシエルを腕の中に抱き込んだ。


「下がれ」


短く命じると、十六夜と十三夜は顔を見合わせ、静かに頭を垂れて部屋を辞した。


十三夜がニヤリとしながら小声で囁く。


(ごゆっくり)


「ど、ど、どうしたの、暁月……」


顔を赤らめて動揺するシエルの声に、暁月は答えなかった。ただ、抱きしめる腕にさらに力を込める。


「何も、聞くな」


その声はどこか、悲痛だった。


シエルはしばらく暁月の顔を見ようとしたが、やがて諦めたように目を閉じた。そっと、暁月の背に両腕を回す。

まるで、月を抱くように。


暁月が飽きるまでこうしていよう。

そうシエルは思うのだった。

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