第22話 アネモネ
遠くから、覚えたての口笛に似た鳥の声がかすかに聞こえる。
長い夢から覚めるときのように、閉じた瞼の向こうにほのかな光を感じた。けれど体は思うように動かず、誰かの温もりの跡と、何かが燻ぶったような匂いだけをぼんやりと感じていた。
意識がはっきりしてくるにつれ、横たわっている床のごつごつとした硬さがじわじわと伝わってくる。腕の痺れと寝心地の悪さが気になって、仕方なく目を開けた。
ぼやけた視界の先に、壁に背を預けて足を投げ出し、長細い何かを抱えて座り込む人影があった。いびつな円に切り取られた光を背にしているうえ、俯いた顔には髪がかかり、表情は見えない。目が慣れてくると、ここが洞窟の中だとわかった。粘土のように湿ってでこぼこした岩肌。風の通り道のない空間にこもった、肌にまとわりつくような湿気。
まるで門番のように入り口に座っていたのは、剣を抱えて眠る、陽の光の色の髪をした男だった。
起き上がろうとして、胸の膨らみの間に走る鈍い痛みに顔を顰める。セシリアが刃を突き立てた場所だ。心臓を刺されたように感じたが、あの刃は鋼でも鉄でもなかった。魔力か、あるいは呪物のようなものでできていたのだろう。肉を裂かれたわけではないにしても、私の魂には深い傷が残っていた。
あれは、一体何だったのか。
胸に手を添えて目を閉じ、いつものようにメルウィントの意識に触れようとする。いつもなら耳の奥に寄り添っているはずの、彼女の鼓動のような気配が、今はどこにもない。心の深い泉の底へ沈んだ魂は、呼びかけても答えなかった。この体は今、私ひとりのものだった。
ひとり。その言葉が、思いのほか冷たく胸に落ちた。
のそりと身を起こすと、体に掛けられていた外套が肩から滑り落ちた。泥や何かの体液でところどころ汚れ、ほつれた古い外套だった。上等とは言えないが、生地は分厚く、まだほのかに温かい。埃っぽい匂いの奥に、麝香の香りがかすかに混じっている。
誰かに何かを掛けてもらうなど、いつ以来だろう。思い出そうとして、やめた。千年分の記憶をたどっても、そこに温かな場面はほとんどなかった。
手足を確かめたが、怪我も痛みもない。ただ魂が傷つき、大した力は使えそうになかった。魔女の力の大半はシエルの中にあり、私の魂は、それを開くための鍵にすぎない。力を使うには、肉眼で相手をはっきり捉えられる距離まで近づかなければならなかった。
だから私はいつも、転生したシエルの傍にいる誰かの中へ潜り込んできた。家族、貴族、騎士、使用人。選ぶのは自分なのに、一度融合すれば、宿主が死ぬかシエルが生まれ変わるまで、外へ出ることもできない。千年のあいだ、私は誰かの内側でしか息ができなかった。
「はぁ……」
短いため息をついて立ち上がり、できるだけ音を立てないように入り口へ近づく。投げ出された男の足に触れないようドレスの裾をつまみ、側を通り抜けようとしたその時――
「起きたのか?」
深く、喉の奥から響くような声だった。距離はあるはずなのに、まるで耳元で囁かれたように鼓膜が震え、思わず体がびくりと跳ねる。
「……」
視線を向けると、男は俯いた姿勢のまま、顔を覆う金糸の髪の隙間から、空を思わせる双眸でこちらを見ていた。
抱えていた剣を脇に置き、前屈みだった背を反らして伸びをする。さながら獅子の寝起きだ。ゆっくりと立ち上がり、三歩ほどの距離で背を屈めて視線を合わせてきた。無造作に結ばれた襟足の髪が肩から流れ、きらきらと光る。
「おい、喋れねーのか? まさか、言葉が違うのか? え、ルナリア皇国ってほかに言語あったっけ……」
「……喋れるわよ」
顎に手を当てて考え込む男を見据えて答えると、男は途端に安心したように、くしゃっと無邪気に笑った。
その顔を見て、心臓の奥に小さな棘が刺さったような感覚を覚える。暁月はこんな笑い方はしない。少なくとも、この一千年のあいだに見たことはなかった。
それに、この笑顔は私に向けられたものではない。この体の、見知らぬ少女に向けられたものだ。わかっているのに、棘は抜けなかった。
「なんだ、案外元気そうだな。よかったよかった。んで、あんた名前は? なんで森になんかいたんだよ」
「……あなたには関係ない」
冷たく言い放ち、半歩下がる。男から視線を外し、洞窟の出口へ歩き出した。ここはどこなのか、どれほど時間が経ったのか、確かめなければならない。
「おいおい、命の恩人に対してそりゃーないぜ。俺があんたを助けなかったら、今頃魔物に食い散らかされて死んでるぞ?」
「……それはありえないわ」
「は?」
男の言葉を無視して洞窟を出ると、目の前には凪いだ湖が広がっていた。振り仰いで太陽の高さを確かめる。まだ朝方、市井の人々が働きはじめる少し前の時刻だろう。水面は風もなく静まり返り、空の色をそのまま映している。
「おい、待てって!」
男も洞窟から出てきた。まっすぐに立つと大柄で上背があり、引き締まった胸や腕の筋肉を見れば、少なくとも農夫や商人ではないとわかる。薄暗い洞窟ではよく見えなかった顔も、朝の光の下であらわになった。
高い頬骨から顎へと続く鋭い曲線、薄く形のいい唇、彫刻のような鼻筋。少し吊り上がった切れ長の目には、大きめの空色の瞳が収まり、湖面の反射を拾ってガラス玉のように輝いている。無造作に伸びた長い前髪も、束ねた後ろ髪も黄金色で、日に焼けた浅黒い肌と相まって、記憶が霞むほど遠い異国の、故郷の空を思い起こさせた。静かな月の夜に佇む、あの美しい神とは正反対の――
「……馬は」
「は?」
「馬よ、馬。真っ黒の、翼のある――」
言いかけて、しまったと思った。普通、馬に翼は生えていない。あるとすれば、それは魔物と呼ばれる類のものだ。
「と、とにかく、私の近くに馬はいなかった?」
「馬? いなかったけど。なんだあんた、遠駆けでもしてはぐれたのか? どっからどう見てもイイトコのお嬢様だろ、あんた。それともなんだ、家出でもしてきたか?」
――家出。
中身はともかく、外見はこの国の皇女だ。城から逃げてきたのだから、規模の大きな家出と言えなくもない。だが事情が事情なので、逃亡と言うほうが正しいだろう。
「お? 図星?」
なんと答えようかと顔を伏せて考えあぐねていると、金色の青年はニヤリと悪戯っぽく笑って覗き込んできた。態度や話し方もそうだが、この男は人との距離に遠慮がない。初対面だというのにずけずけと踏み込んでくる。
「……どうでもいいでしょ。ねぇ、ここから皇宮まではどれくらいかかるの」
「皇宮? あんたやっぱりお貴族様か」
「だから関係ないでしょ。ほら、早く教えなさいよ」
「そうだなぁ、早馬でも三日ってとこだな」
「三日……」
あの夜から、どれほどの時間が過ぎたのだろう。
黒い馬は、私が魔力で生み出した眷属だ。千年前から、あの子だけがずっと傍にいた。翼を持つ漆黒の馬は、人間の馬の何倍も強く、速い。皇宮を飛び去り、いつの間にかその背で意識を失ってからも、愛馬は懸命に飛び続け、追っ手の届かない遠くまで運んでくれたのだろう。その姿が見えないことが、胸の傷よりも痛かった。
森の奥なら滅多に人と出会うこともない。それに、魔女にとって魔物は害をなすものではなかった。魔物を生み出した力の源は、私自身なのだから。
シエルに魔女の力を発現させ、災厄を起こすには、皇宮へ戻らなければならない。何より、あそこには愛しい暁月もいる。
けれど、魂が傷つき力を十分に使えない私がのこのこと戻ったところで、すぐに捕らえられるのが落ちだ。皇女に宿っている以上、手荒な真似はされないだろう。だがその代わり、暁月たちは千年続くこの呪いと力の根源、魔女と災厄について、あらゆる手段を尽くして解き明かそうとするはずだ。……愛する星月のために。
あの人の腕の中にいるのは、いつだって星月だった。私はその外側から、千年のあいだ眺めているだけだ。
「あのさぁ、とりあえず街に戻んねぇ? 予定外に野営しちまったせいで、宿の女将に頼まれた仕事が中途半端なんだわ。それに腹減ったし、風呂にも入りてぇ。あんたも皇宮に行くんなら、馬なり馬車なり準備しねぇとだろ。あ、街に知り合いとかいる?」
無言で首を振ると、男は頷いて洞窟へ戻っていった。野営の跡を片付け、手早く荷をまとめ、腰に剣を佩き、外套を羽織ってまた近づいてくる。
「あんたが何者で、これからどうすんのか知らねぇけど、ひとまず森を抜けて街までは道連れだ。よろしくな」
快活に笑い、大きな手を差し出してきた。握手を求めているらしい。数秒その手を見つめてから、パシリと叩くように手を合わせる。
掌が、熱かった。生きている人間の体温だ。触れたのは一瞬だったのに、離したあとも、指先にその熱が残っていた。
世界を滅ぼせる災厄を起こす魔女とはいえ、今はただの非力な少女だ。力を取り戻すまでは、利用できるものは利用しておくほうがいい。そう自分に言い聞かせた。
「ほら、さっさと行くわよ。案内しなさい」
「つれないねぇ。それはそうとさ、名前くらい教えてくれてもいいだろ? おい、とかお前、とかでいいなら別にいいけど。あ、お嬢様って呼んでやろうか? 仕事で貴族の護衛は何度かやったことあるしな」
「……」
名前――。
この体の名前はメルウィントだが、皇宮から皇女がいなくなった今、秘密裏にせよ公にせよ捜索されているだろう。そしてメルウィントの名は、皇家への信仰が厚いこの国の民なら誰もが知っている。そのまま名乗るわけにはいかない。かといって、リリスは魔女として与えられた名で、本当の名ではなかった。
はるか昔、まだ何も知らなかった頃の、私の本当の名前。もう誰からも呼ばれることのない、ただの人間だった私の――
「……アネモネ」
口にしたのは、千年ぶりだった。舌の上で、ひどく古びた味がした。
その名を聞いた瞬間、男は陽の光のような笑顔を浮かべた。
「俺はソール。よろしくな、アネモネ」
誰かの口から、その名が呼ばれた。たったそれだけのことで、胸の奥の傷に温かいものが染みて、どうしようもなく痛んだ。
その笑顔を見て、思わず目を背けた。眩しい。この男は、今の私には眩しすぎる。
ソール。故郷の言葉で、太陽という意味だった。




