第23話 盃の花
赤、白、紫、桃色。
小さな盃のような花の中心は、どれも濃い色をしていて、底の見えない穴を連想させる。大きめの花弁は風が吹くたびに儚く揺れ、それを支える細い茎は、しなやかな首筋のようだ。色とりどりの花の中で、私は母を待っている。
「この花はあなたと同じ名前なのよ」
物心がつく頃、この花畑で母が教えてくれた。
花弁に見える色づいた部分は、実は花弁ではないらしい。花弁のない花なんて変だと思う。けれど花弁のように見えるのだから、もう花弁と呼んでしまっていいのではないか。自分と同じ名前を持つこの盃のような花を、私は嫌いではなかった。
年中暑く、乾季と雨季しかない極端な気候のこの国には、季節が入れ替わるほんのわずかな間だけ、風が心地よく過ごしやすい時期がある。この花はその時にしか咲かない。王都の街外れにぽつんと佇む建物を取り囲むように、私の名前と同じ花は咲いていた。
やっぱり玉ねぎみたいだ。
花畑の向こうの建物は、先端に大きな玉ねぎのような屋根を戴く尖塔と、丸い屋根の四角い建物が合わさってできている。四角い石を積み重ねた壁には、細長く切り取ったような窓が規則正しく並び、きつい日差しと雨に繰り返し晒されて、黄ばみ、煤けていた。扉は、まだ開かない。
母は月に何度も、この玉ねぎを冠した建物を訪れる。
数年前から、ここには異国から来たという男が住んでいた。不思議な力を使うとたちまち噂になり、王都中から彼を訪ねる人が絶えなくなった。小さな傷や風邪程度の軽い病なら、たちどころに治してしまうらしい。街中で小さな薬屋を営む母は、真っ先に興味を惹かれ、研究だの勉強だのと理由をつけては足繁く通っていた。もっとも、今となっては、それだけではないことくらいわかっている。私ももう子供ではないのだ。
父の顔は知らない。
私が生まれてすぐ、満月の夜にだけ咲く薬草を採りに行くと言って出かけたきり、戻らなかった。数日後、交易のキャラバンとともに帰ってきたのは、血に塗れた父の指輪だけだったそうだ。
女手一つで私を育て、父が経営のほとんどを担っていた店を切り盛りするのに、母は想像もできない苦労をしただろう。今は私も薬屋の知識を身につけ、母とともに、贅沢はできないまでも食べるのに困らない暮らしができている。そろそろ母が女としての喜びを取り戻してもいいとは思う。けれど、それにしても、ご執心すぎるのではないだろうか。
男は、類稀な美丈夫だと聞く。男女の見境なく噂する者が絶えなかった。私は遠目にしか見たことがなかったが、この国では見かけない、夜空のような黒髪をしていることは見てとれた。 母の見た目は中の上といったところで、そんな母を異国の美丈夫が真剣に相手にしているとは、到底思えない。それでも、母の気が済むならそれでいいと思っていた。
それにしても、逢い引きにいちいち私を連れて来ないでほしい。会いたいなら、店に迷惑がかからないよう都合をつけて、勝手に会いに行けばいい。私を連れてくるのは、やましいことはないと対外的に見せておきたいからだろう。そんなことをせずとも、黒髪の男と母が睦み合う仲であることは、街の誰もが知っている。
全く私を巻き込まないでほしい。親子共々だとか、母娘で一人の男を取り合っているだとか、何を言われるかわかったものではない。
扉の前で待つのは、いつも私だ。母の目に、花畑に立たされている娘の姿が映っているのかどうか、確かめたことはない。
一輪の花に、人差し指でそっと触れる。 私の瞳と同じ紫色の花は、風に揺られて、ふわふわとどこか儚げだ。この爽やかな季節ももうすぐ終わり、晴れを恋しく思う雨季がやってくる。そうすれば、この花たちも散り、大地へ還って、次に咲く季節を待つのだ。
雨の多い季節は憂鬱だ。天気のせいで客足は遠のくし、薬草にはカビが生える。保存状態を良好に保つのに手間がかかり、売り上げは悪いくせにやることばかり増えて、忙しい。そのうえ、客が少ないからと、母は頻繁に店を空ける。困ったものだ。
そんなに片時も離れたくないのなら、きちんと身を固めるなりなんなりして、店を手伝ってほしいくらいだ。美しい男が店にいれば、それ目当ての客も増えるだろう。
そんなことを考えていると、建物の扉が、遠慮がちな音を立てて開いた。
中から、頬がほんのり上気し、纏めた髪が少し乱れた母が出てくる。花を見るふりをしながら扉に目をやると、珍しく男も出てきた。噂の美丈夫をこの目で拝んでやろうと、こっそり盗み見る。
男は、母を見ているようで、見ていなかった。どこか虚空を見つめるような、透明な眼差しをしている。
音のない夜のような静けさを纏った男から、思わず目が離せなくなった。流れる黒髪の間から覗く瞳が、不意にこちらを向く。目が合った。
見つめられているというより、何かを量られているような気がして、背筋がひやりとした。
その瞬間、夜でもないのに、私は満月を見た気がした。




