第21話 もう一人の私
お兄様を「好き」だと気づいたのは、十歳の春のことだった。
きっかけは、他愛ないことだったと今となっては思う。なぜあの瞬間だったのか今でもわからないけれど、はっきりと覚えている。いつから、と問われれば、あの夜からだと、迷わずに答えられる。
満月の夜、私たちはお兄様の部屋のテラスで夜ふかしをしていた。護衛や侍女たちの目を盗んで、こっそりと二人きり。夜の風が冷たくて、昼間にこっそり取っておいたお菓子をつまんだりして、いけないことをしているようでなんだか少し大人になった気がした。
お兄様は雲ひとつない夜空に浮かぶ月を見上げながら言った。
「メルは月と星、どちらが好き?」
「星、です。お兄様は?」
お兄様は目を閉じてる少し考えてから、もう一度月を見た。
「僕は月かな。でも星がいないと月はきっと寂しいよね。こんな広い空に、ひとりぼっちで」
その時の横顔が——まるで月の光が愛おしそうに撫でているような、あまりにも美しくて、そして壊れ物のようにとても危うくて——気づいたら目が離せなくなっていた。
突然、強い風が吹いた。
テラスの手摺りから身を乗り出していた私は煽られて外へ落ちそうになった。一瞬の出来事のはずなのに、一秒一秒切り取られた時の断片を見せられているようにゆっくりと感じられたのを覚えている。お兄様は咄嗟に私の手を引いて、その身体に抱き留めてくれた。胸に顔を埋める形で、私はお兄様の体温を全身で感じた。温かい。激しく打つ鼓動が、耳の奥まで響いてくる。
その時、私の中の小さな何かがはじけた気がした。
それが何なのかはわからなかった。ただ、もっとここにいたいと思った。ずっとこうしていたいと思った。この胸の音を、ずっと聞いていたいと思った。
「メル、大丈夫?」
心配そうなお兄様の声が、頭の上から降ってくる。
大丈夫じゃなかった。心臓が掴まれたように苦しい。
私はしばらく何も答えずに、お兄様の腕の中で自分の胸の高鳴りを感じていた。
その気持ちが何なのかを知るのはもう少し後のこと。知ってからは、もっと時間がかかった。認めるまでに。
お兄様は兄だ。血を分けた、兄。こんな気持ちを抱いてはいけないと、頭では理解していた。理解していても、一度知ってしまったら止められない。お兄様が微笑むたびに胸が甘く痛み、セシリアと話すお兄様を見るたびに、それを独り占めにしたいと思った。胸の奥で何かが少しずつ腐っていくような、じりじりと焦げるような感覚が日ごとに増していく。
「それが嫉妬というものよ」
物心ついた頃から私の中にいる、もう一人の私がそう教えてくれた。
最初はそれが不思議なことだとは思っていなかった。誰の心の中にも、自分とは少し異なる誰かが住んでいるものだと思っていたから。眠る前に瞼を閉じると現れる、姉のような、母のような、友人のような——その存在と言葉を交わすことは、私にとって息をするのと同じくらい、自然なことだった。
その声は柔らかくて、とても甘い。でも時々、底が見えない不安を感じていた。
静かに訪れる、夢と現の間の場所。どこでもないような、どこにでもあるような。色彩のない空の下に、鏡のような水面が広がっていて、その上に私と彼女が向かい合って座っている。水面に、私の顔が映っていた。栗色の巻毛。薔薇色の頬。けれどその瞳の色だけが、私の知っている色ではない。紫水晶の——お兄様と同じ色。話し方も笑い方も、私とは似ているようでも全く違うようでもある。彼女の本当の顔は知らない。でもその気配はよく知っている。生まれた時からそこにいたのだから。
「……嫉妬」
「愛しているから、他の誰かに向く視線が許せない。それだけのこと」
彼女の声は責めなかった。ただそこにいて、私の痛みを静かに受け取ってくれているように優しい。
彼女の中にも、同じ痛みがあることを私は感じていた。誰かを想う、叶わない、焼けつくような——私のものとよく似た、でも私のものよりずっと古い、深い痛みが。
「あなたも、誰かが好きなの?」
問うと、彼女は少し黙った。
「……ええ」
「どんな人?」
「とても……美しい人」
それだけしか言わなかった。その声に滲んでいたものを、私は上手く言葉にできない。悲しみとも怒りとも違う、もっと根深いところにある何か。千年でも万年でも消えない種類の、感情。
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三年前の春、皇宮に客人が来た。
お父様の執務室に通されたその人を、私は廊下の角から盗み見ていた。黒い長衣に腰まで届く黒髪、青白い肌に黄金色の瞳。人ではないものが人の真似事をしているような——そういう気配をしていた。
あの夜お兄様と一緒に見た、月みたいな人。
そう思った瞬間、私の中で何かが爆発した。
私のものではない感情が。
「——暁月」
アカツキ。
聞き慣れない言葉が聞こえた。眠る時にしか聞こえないはずの声が、昼間に、廊下の真ん中で。それは初めてのことだった。いつも気丈で気位が高い彼女が、全く違う何かのように感じる。渦を巻くような、激流のような——長い長い間秘めてきた感情が一気に溢れ出すような。それは愛しさと憎しみが溶け合って、もはやどちらとも言えない感情だった。
「あなたの知っている人なの?」
私が問う間もなく、彼女の感情が私の体を飲み込んでいった。暗い海に溺れるみたいに、息ができなくなる。
気づいた時、私は壁に手をついて、肩で息をしていた。
あの黒髪の青年とお兄様が愛おしそうに寄り添い合っている場面が脳裏をよぎる。そんな光景は見たことがないはずなのに、なぜだか知っている気がする。まるで夢で何度も見たことがあるような——遠い記憶の中にあるような。
あの人がお兄様を連れていってしまう。
なぜそう思ったのかわからなかった。でも本能のようなものがそう告げている。お兄様とあの人を会わせてはいけない、と。それは彼女の感情なのか、私の感情なのか、もはや区別がつかなかった。
お兄様とあの人が結ばれてしまったら——私の想いは、一体どこへ行くのだろう。
私のものにならないなら、いっそ——。
自分でも信じられなかった。世界で一番大切な人を、消してしまいたい。それほどまでに私は追い詰められていたのだ。誰にも打ち明けられない想いを、ずっと独りで抱えてきたのだから。お兄様への慕情も、彼女の激情も、私の中で混ざり合って、もはや自分が誰なのか、どこにいるのかさえわからない。
「たまには、歴史を変えるのもいいかもしれない」
そんな言葉が、聞こえた気がした。
息を切らして廊下を歩きながら、ふと書庫の前で足が止まる。なぜここで止まったのか、自分でもわからない。ただ導かれるような感覚があった。糸で引かれるような、あるいは押されるような。
書庫の中へ入った。
棚の間を歩きながら、一冊の背表紙に目が留まった。とても古い本で、歪んだ文字で魔術の名前が記されている。引き寄せられるように、気づいた時には手に取っていた。
そこにセシリアがいた。
彼女はいつもこの場所にいる。魔術の本を読みながら、お兄様を驚かせる何かを考えながら。その横顔はとても嬉しそうでとても真剣で、だからこそ私は彼女のことが——好きで、嫌いで、許せなくて、羨ましくて、いつもそのどれとも言えない気持ちで見ていた。
「面白いものを見つけたわ、セシリア」
息を整えて平静を装い、銀髪の幼馴染に声をかける。でも言葉を選んでいたのは、私ではなかった。
「この魔術、お兄様を驚かせるのに使えるかもしれない」
セシリアは目を輝かせた。お兄様のためになることなら、彼女はいつも迷わない。だからこそ——だからこそ、利用されてしまうのだ。
「今からあの小さな島に行きましょう。波が引いているから。そこでお兄様を驚かせるの」
「うん、行こうメル。シエル、びっくりするかしら」
「ええ、きっとね」
ごめんね、セシリア。
でも、メルウィント、あなたの望みは叶えてあげる。誰のものにもならないように、永遠に。
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「思い出した?メルウィント」
蹲り顔を覆う私に、彼女は静かに話しかける。その声は嗤うような、しかし哀れむような、奇妙な色をしていた。
胸の奥で何かが軋んだ。思い出したくなかった。三年間、ずっと目を背けてきた過去。あの日の記憶は霞がかっていて、鼻をつく異臭と、セシリアの絶叫と、半分人の形をした何かだけが断片的に残っているだけで——それ以上は、思い出せなかった。思い出したくなかった。
それなのに、私の頭の中にあの日のことが鮮やかに甦ってくる。
「あの魔術書は、私が用意したの。効果を書き換えて、セシリアの前に置いたのは——私」
「……違う」
「違わないわ」
「違う、違う、違う」
水面が激しく揺れた。私の中で何かが崩れていく。犯した罪をひた隠しにしてきた三年間分の皮膜が、一枚一枚剥がされていくような感覚。
セシリアが。セシリアが偶然見つけた魔術書を試して、事故が起きたのだと——私はずっとそう思っていた。セシリアが、お兄様をあんな姿にしたのだと。だから憎んでいた。憎みながら、それでも友人だったあの頃を忘れられなくて、ずっと複雑な気持ちで彼女を見ていた。
でも。
でも、違ったのだ。
「私が……私が、させたの」
「そう」
「私が、セシリアを使って……お兄様を……」
言葉が続かなかった。
お兄様の姿が脳裏に浮かぶ。祭殿で見た、半醜半美の皇子の姿。黒い仮面に覆われた右半面。黒い襪に包まれた手足。あの下は一体どうなっているのか、想像もできない。あれは——あれは全部、私が、この手で。
「やだ」
声が漏れた。
「やだ、やだ、やだ——!」
否定したかった。でも否定するための言葉が見つからない。記憶が、証拠が、全部そこにある。書庫で笑っていた私の顔が、セシリアに本を差し出した私の手が、全部本物だった。
胸の中で何かが音を立てて割れた。
三年間、私はセシリアを恨んでいた。お兄様をあんな姿にしたのはセシリアだと思っていたから。でも本当は——本当は、セシリアこそが被害者だったのに。私に利用されて、大切な人を傷つけてしまったと信じ込まされて、自分を切り刻むほどの罪悪感を背負わされて。
髪を切ったのはセシリアだった。罪人の証を、セシリアが背負った。
でも本当は。
罪人は、私だった。
「髪を切るべきだったのはセシリアじゃない。切られるべきだったのは——私の髪だった」
水面に映る自分の顔を見た。規則的に波打つ栗色の長い髪。本当なら今頃短く切られていなければならなかった。この体は、牢獄の中にあるべきだった。セシリアが三年間背負ってきた重さは、全部私のものだったのに。
「やめて……やめて、やめてよ……」
膝を抱えて、水面に崩れ落ちる。波紋が広がって、自分の顔が歪んで消えた。
こんな気持ちを抱えたまま、どうやって生きていけばいいのだろう。お兄様の顔が見られない。セシリアの顔が見られない。お父様も、お母様も——誰の顔も見られない。私はそれほどの罪を、知らないうちに犯していたのだ。知らなかったということは、免罪符にならない。私の口が言葉を選び、私の足が書庫へ向かい、私の手が本を差し出した。それは全部、この体がしたことだから。
「おやすみ、メルウィント。あなたが命がけで守ったお兄様は、きっと今度も暁月が殺してくれるから……」
その言葉が、最後の一撃だった。
お兄様を殺したいと思った。その事実が今さらのように全身を焼く。愛しているから消したかった。独り占めにできないなら、誰のものにもなってほしくなかった。その歪んだ想いがお兄様を傷つけた。愛しているのに、愛しているから、傷つけた。
これほど醜い感情が、この胸の中にあったのだ。
水面が静かになっていく。波紋が消え、また鏡のような凪に戻る。私はもうそれを見ていられなかった。自分の顔を見ていられなかった。
実の兄に想いを募らせる愛らしい少女は、心の海に沈んだ。
戻ってこられるかどうかわからないほど深く、昏い水の底へ。
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激しく波だった水面は時をかけてまた鏡のように戻る。二つの色を宿していた瞳は、紫水晶を残すのみとなっていた。
「どうすれば、愛してくれるのだろう。どうすれば、私を見てくれるのだろう」
それはメルウィントと魔女の、千年分の想いと問いを含んでいた。何度も何度も繰り返してきた。答えが返ってこないとわかっていても、やめられない問いだった。
「暁月……」
溢れる涙が、夢の水面に落ちた。波紋が広がり、やがて静かに消えた。
その時、夢の外側で——誰かの指が、頬の涙を拭った。
温かい、大きな手だった。
それが一体何なのかわからなかったけれど、ずっと欲しかったもののような気がした。
目覚める時を、魔女は静かに待った。




