第19話 夜明けの花
ひらひらと薄紅の花弁が夜風に舞い、凪いだ海を埋めるように浮かんでいる。
そこは皇宮の南にある小さな島。潮が引いた時にだけ現れる小道を渡ってたどり着く場所だ。なだらかな丘の上、一本の巨木が眼前に広がる海を眺めている。その幹は歳月を深く刻み、枝は天を裂くように広がり、幾千もの先端に、儚くも気高い花を咲かせていた。
月へ届かんとするように。
常春のルナリア皇国にのみ根付くその木は、その花が散れば次の蕾が膨らみまた可憐な花を咲かす。永遠の繁栄の象徴でもあった。
その根元に、漆黒がひとつ落ちていた。幹に背を預け、深淵の闇のような黒い髪がその顔を覆い隠している。そのまま夜に溶けていってしまいそうなほど、その姿は生気が感じられなかった。
私はこの一千年、何をしていたのだろう。
力を失い、厄災に対抗する力もなく魔女に翻弄され、シエルを殺し続けてきた。魔女を封じなければ世界が滅ぶ。そのためにはシエルを殺さなければいけない。そう思ってきたのに——それすらも魔女の手のひらで踊っていただけだというのか。
本当は世界など、どうでも良かった。星月に出会ってから私の世界は星月そのものだったのだから。長い時を生きる神にとっては生も死も滅びも再生も特に意味はなく、ただ巡るだけの現象に過ぎない。
それでもシエルを殺し、世界を生かし続けてきたのは、それが星月の願いだったから。
——無駄にシエルを殺し続けてきた。
魔女の言葉が無数の虫となって内側から身体を食い破る。吐き気がした。口元を押さえた指の隙間から過去が溢れ出す。一千年分の懺悔でこの身が焼かれる。今まで幾人ものシエルを殺してきた手の感触が、生臭い血の匂いが、断末魔の儚い微笑みが、昨日のことのようにひとつひとつ鮮明に思い出された。
両手で己の頸に爪を立てる。いっそこのまま掻き切ってしまおうか。それで終わることができればシエルも救われるのに、永遠の命を持つ神には死ぬこともできない。こんなことでは終わらないことはわかっている。
青白い首から一筋の紅が流れた。
全てを持つ神は、何も持たないのと等しい。永遠とは虚無だ。何かを欲したとしても時が全てを奪っていく。だから何も望みはなかった。望んではいけないとも思っていた。
だが——。
初めて、何かを欲しいと願った。その無垢な心、髪の毛の一本からシエルを構成する全て、魂の丸ごと、永遠を共にしたいと望んだ。私のそばにいてくれさえすれば、もう他に何も望まない。たったひとつの願い、ただ一人の人。それだけでよかったのに。それさえもこの指からこぼれ落ちてしまう。留めておくことができない。
でも、それでも。
シエル。星月。
お前だけは救ってみせる。それをやっと、私は——。
「やっぱりここにいた」
柔らかな音を含んだ声が聞こえた。顔を見ずともわかる。一千年間も想い続けてきた、たった一人の、声。
顔を上げることができなかった。こんな情けない姿は見せたくなかった。だが取り繕うだけの余裕などどこにも残っていない。真っ黒い汚泥の中に全身が沈んでいるような感覚。言葉ひとつ、言い出せないでいた。
見るな、シエル。こんな無様な私を。
ふと、視界に星が煌めいた。シエルレインは暁月の頬に触れ、その面を自分に向けさせる。紫色の瞳が、暁月を捉えて離さない。
「夜を越えたよ、暁月」
「……ああ……」
「約束」
「ああ……わかっている」
満月の瞳に星が滲む。今にも溢れそうなその雫を、シエルレインは唇で掬った。蕾のようなそれはゆっくりと頬を降りていく。
熱を失い冷たくなったそこに、祈るようにそっと押し当てた。
「教えて……暁月」
もう一度。今度は慰めるように。
「シ……エ……」
唇を合わせたままシエルに体重を預けられ、幹の根本に押し倒される。その交わった部分がより深くなる。熱を含みながらもどこかぎこちなく、拙い。それがより一層情欲を掻き立てた。
息が混じるほどの距離で、シエルを見た。白い頬は紅潮し、同じ熱情を潤んだ瞳に秘めている。
熱を取り戻した唇を過ぎ、耳から首筋へ舌が這う。快感に全身が粟立つのがわかった。
「っ……」
小さな舌が首筋に流れる紅を丁寧に舐める。たまらず声が漏れた。息が荒くなる。体の中心でどくどくど脈うつ熱い塊が疼いている。
「教えて、暁月の、全部、何もかも」
星の手と黒い手が、漆黒の衣服に手をかける。首元を緩め、胸元のボタンを外していく。暁月はその手に自分の手を重ねた。震えている。それでもシエルはやめなかった。
「シエル」
起き上がり、膝の上でシエルレインの体を抱える。もっと言葉で伝えるべきことはたくさんあるはずなのに、そんなことを全て吹き飛ばして今二人が求めているものは同じだった。言葉よりも伝わる方法は、一千年前から知っている。
「私と、共に……」
黒い半面をそっと外し、純白の衣服をひとつひとつ丁寧に脱がしていく。月明かりの中、半醜半美の皇子は花びらの褥に横たえられた。
薄紅の花弁が、二人の間に静かに降り積もっていく。
暁月はシエルレインの額に口づけた。それから眉に、頬に、鼻の先に。一つ一つが祈りのように、懺悔のように。
「……怖いか?」
シエルレインは答えなかった。代わりに、月光を思わせる暁月の胸元にそっと口付けを贈る。それだけで十分だった。
沈みゆく月明かりの中で、二人の影が重なる。
花びらの褥の上、体温を確かめるように、指を、唇を、肌を、体のありとあらゆる部分でお互いに触れる。長い時間をかけて、二人は言葉の届かない場所へ、少しずつ降りていく。
暁月の唇が、シエルレインの中心に触れた。そこにはかつての祝福の代わりに、熱を持った吐息があった。
薄く透き通るような白い肌から黒く波打つ肌の隅々を、月の光が映す。その一千年分の軌跡を暁月の全てでなぞる。波が引いては満ちてくるように、シエルレインの息がゆっくりと、しかし確かに上りつめて行く。
「……暁月」
声にならない形で、名を呼ぶ。
暁月はその声を唇で受け取った。
舞い散る花びらを月が照らす。波が岸を洗う音だけが、遠く聞こえていた。
二人の間にあった境界が、いつの間にか溶けていた。どこまでが自分でどこからが相手なのか、もはやわからない。欠けた月が満ちるように——まるで最初からそうであったように、それは自然とそこにあるものだった。
シエルレインの指先が暁月の髪に触れた。漆黒の糸が、指の間をするりと流れていく。
その瞬間——暁月は感じた。
自分の欠片が、温かい場所へ帰っていく感覚を。それは痛みではなかった。長い旅を終えた者が、ようやく眠りにつくような——静かな、安堵。
シエル。星月。
お前の中に残してきた私の欠片を、今、還す。
シエルレインは何も知らない。ただ暁月の胸に顔を埋め、その鼓動を聞きながら、少しずつ意識が遠のいていく。
「暁月……」
「ここにいる」
「……ずっと、いてくれる?」
「ああ」
シエルレインの呼吸が深くなる。まつ毛が頬に影を落とし、朱金の髪が花びらの中に広がっていた。
暁月はしばらく動かなかった。
眠るシエルレインの顔を、ただ見ていた。何かを確かめるように、そして何かを諦めるように。
夜風が吹き、花びらが二人の上に降り積もった。
---
夢の中で、シエルレインは光の中にいた。
見たことのない場所のはずなのに、全てを知っている。
同じ場所だ、とシエルレインは思った。今よりずっと若く、しかし同じ木と花弁。同じ海。同じ月。
そして——同じ人の腕の中。
漆黒の髪と、黄金の瞳。あの顔が、笑っていた。今まで一度も見たことのない、子供のような笑顔で。
「月が、泣いているみたい」
誰かが言った。
自分の声だ、とシエルレインは思った。しかし自分ではない誰かの声でもあった。
「お前がそう言うから、私は泣けなくなった」
「どうして?」
「泣いていると思われたら、お前が悲しむだろう」
笑いながら、その人は言う。
月の光の中で、二人の影が重なっていた。
星が降るような夜だった。
波の音が聞こえた。
花びらが舞っていた。
地平線の向こうから、最初の光が滲み出すように広がっていく。夜と朝の境界で、空が七色に燃えていた。
「綺麗だ」
「ああ」
「また、見られるかな。こんな朝を」
「見せてやる。何度でも」
その約束と記憶が、遥か遠い水底から浮かび上がってくる泡のように——シエルレインの胸の中で、ゆっくりと形を成していった。
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瞼の裏が明るくなって、シエルレインは目を開けた。
花びらの褥。波の音。朝の匂い。
夢を見た。
はるか昔、星月だった頃の、今日と同じ朝を迎えたあの日を。
「目が覚めたか」
低い声が上から降ってくる。暁月の膝の上で、シエルレインは眠っていたらしい。黒い髪が朝の光を受けて、柔らかく輝いていた。
「……夢を見た」
「どんな」
「約束したこと、全部」
暁月は何も言わなかった。
シエルレインは起き上がり、空を見た。
東の空が燃えていた。紅と金と紫が混ざり合い、地平線から光が溢れてくる。西の空に満月が浮かんでいた。沈みかけた月はまだ金色に輝き、朝の光の中でもその存在を手放さないように——静かに、しかし確かに、そこにあった。
「あ……」
シエルレインは声を漏らした。
明けの明星が、輝いている。
夜と朝の境界に浮かぶその星は、消えそうで消えない。月が沈みかけ、太陽が生まれようとする、ほんの短い時間だけ世界で一番輝く星。
それは今、シエルレインと同じ空にあった。
「約束、守ってくれたね」
「ああ」
二人は並んで空を見ていた。
朝日が昇るにつれ、満月は少しずつ西の空に沈み、明けの明星は光を増し、そして——やがて朝の光に溶けていく。
その一瞬が、永遠のように長く感じられた。
「暁月」
「何だ」
暁月はシエルレインを見た。朝の光を浴びた横顔は、夜明けそのものだった。
「ただいま、暁月」
瞬間。
月が、泣いた。
満月が西の空に沈み、朝日が大地を金色に染め始める。
薄紅の花びらが、朝風に乗って二人の間を漂っていた。




