第16話 銀の騎士
「……忌々しい女ね。私の中で大人しくしてれば良いものを。あんたのその汚れた情愛のせいでシエルが死に損なったじゃない」
少女は吐き捨てるように言い、片手を空高く掲げた。
途端、満月の天窓が暗闇に覆われた。
——!
耳を塞ぎたくなるような衝撃音とともに、天窓のガラスの破片が降り注ぐ。上弦はその巨軀からは想像もつかないほど素早く大剣を振り、周囲に風の幕を作り出した。落ちてくるはずの破片が見えない幕に当たり、床に滑っていく。
衝撃と共に天窓から現れたのは、翼を持った馬。毛並みが濡れたように黒く光る異形の生き物——所謂魔物と呼ばれるものだ。
「みんな下がって!十六夜、皇帝と皇后を!」
下弦がその構えを黒い魔物へと向ける。双剣の切っ先が月光を受けて鋭く光った。十六夜は呆然と立ち尽くしたままの二人を素早く自分のもとへ引き寄せ、祭殿の隅へ移動させる。細身の剣を胸の前に構え、二人を背に庇うように立った。
十三夜は少女とシエルレインの間に滑り込むように移動し、蒼玉の瞳で少女を鋭く見据える。いつもの飄々とした表情は消え、その細い体から発せられる気配は刃のように研ぎ澄まされていた。
暁月はシエルを背に庇ったまま、金色の瞳で少女を見ていた。その瞳の奥に渦巻くものを、シエルは初めて見た。怒りでも悲しみでもない——それは、千年分の、疲弊だ。
「これ以上は無駄なようだし、今日のところは見逃してあげる。よかったじゃない、暁月。一千年ぶりに死ななかったシエルと一緒にいられて。せいぜいいつ終わるともわからない恐怖と共に蜜月を過ごすといいわ——」
言い終わらないうちに、一筋の銀が少女と黒い魔物の前に煌めいた。
騎士だった。
全身を銀色の鎧に包んだ少女——セシリアだった。
「行かせません。メルウィント様……いえ、魔女リリスブロディア」
「お前……なぜその名を……!」
祭殿にいた全員の視線がセシリアに集まった。
暁月の瞳が細くなる。いつ来た、と問いたげに。しかしその口は動かない。
セシリアは誰の視線も受け取らなかった。ただ一点、少女だけを見ていた。切り揃えられた前髪の下に座する銀色の双眸からは、何の感情も読み取れない。静かな、静かな瞳だった。
「セシリア様……!」
十六夜が低く声を上げる。庇っていた二人の手を離さないまま、その琥珀の瞳がセシリアを見つめていた。
下弦は魔物から視線を外さないまま、唇だけ動かした。
「……来てたのか」
上弦は無言だった。ただ大剣を握る手に、わずかに力が込められる。
セシリアは無言で少女に近づいた。二人にしか聞こえない微かな声で、少女に告げる。
「あなたは今日消えるのです。私と共に」
「な……」
それは音もなく、少女の胸に納まっていた。
二つの膨らみの間にあるそれは、まるで幾千の星を宿したように煌めく刀身だった。セシリアは夜空の色をした柄を握り直し、さらに深く鎮める。その傷口と思しき場所から流れるのは鮮血ではなく、星の砂のような光だった。
「お……まえ……」
「リリスブロディア、お前の魂を、もらう」
——!!
耳を劈く絶叫が祭殿内に響き渡る。それはメルウィントとも魔女ともつかない声。いや、もはや声ですらないのかもしれない。聞く者の絶望を滲み出させるような、音だった。
苦痛に顔を歪めた少女はセシリアへと倒れ込んだ。それを抱き止め、柄を握ったまま仰向けに少女の肩を抱く。瞳は閉じられ、ぴくりとも動かない。
セシリアは短い息を吐き、その刀身を少女の胸から引き抜こうとした。
その刹那。
「セシリア……私を殺すの……?」
いつの間にか開かれていた少女の双眸は、よく見知った色をしていた。栗色の巻毛と同じ、甘いお菓子のような愛らしい色。
「メ……メル……」
メル、と愛称で呼んだのはいつぶりだろう。あの事件の後から、私たちの間には大地と月ほどの距離ができてしまった。メル、メルウィント。あんなことさえなければ、きっと今でも友人でいられたのだろう。
そんな思いが油断を生んだ。
ドン——!
強い衝撃でセシリアは後ろに倒れ込む。思わず握っていた柄を離してしまった。
「ふふっ。相変わらず詰めが甘いのね、セシリア。そんなことだからお兄様をしっかり殺せなかったのよ」
「何を——」
「教えてあげるわ、セシリア。あの日、あなたを使って私たちの愛しい人を肉塊にしたのは……私」
祭殿が、静まり返った。
セシリアは少女の顔を見た。そこには大きな二つの瞳に二つの色——紫水晶と甘いお菓子の、魔女とメルウィントの色が宿っている。
あの日。
あの魔術書。
魔術の名と効果が書き換えられていたと、暁月から聞いた。それが偶然ではなかったとするなら——。
「……仕組んだのか」
セシリアの声は平坦だった。怒りも悲しみも、その声には乗っていない。ただ、事実を確認するように。
少女は答えなかった。ただ微笑んだ。それが全ての答えだった。
胸に刺さった短剣に手を添えると、それは紫の光を帯びて泡のように消え去った。
倒れ込んでいたセシリアは、ゆっくりと立ち上がる。銀色の鎧に亀裂が入り、膝から血が滲んでいた。それでも、その立ち姿は揺れなかった。
「セシリア」
暁月が静かに呼んだ。その一言だけで、様々なものが込められていた。詰問でも労いでもない——ただ、彼女がここにいることへの、静かな承認だった。
セシリアは暁月を見なかった。ただシエルレインを見ていた。
「シエル……」
その目に何が宿っているのか、シエルレインには読み取れなかった。罪悪感か、覚悟か、それとも三年間抱え続けてきた何かか。
言葉は、なかった。
二人の間に流れた沈黙は、しかしどんな言葉よりも多くのものを伝えた気がした。
突然、馬の嗎のような声を魔物が発した。
それが合図だった。
少女は起き上がり、素早くその背に跨る。大きな翼が空を仰ぐように広げられた。
「ご機嫌よう、皆様方。また近いうちにお会いしましょう」
二つの色を宿した少女はその愛らしい顔に精一杯の微笑みを湛えていた。翼の生えた魔物が空中を闊歩し、満月の天窓から飛び去る。
黒い翼の影が消えた後、祭殿に静寂が戻った。
割れた天窓から夜風が吹き込み、朱金の髪と漆黒の髪を同じように揺らした。床に散らばるガラスの破片が、暗闇の中でかすかに光っていた。
誰も、すぐには動かなかった。
それぞれが、たった今起きたことの重さを、静かに受け取っていた。




