第九章 内定と選択
二月の第二週の木曜日だった。新宿駅の西口は、帰宅する人の波で足元が見えないほど混んでいた。美優は十九時四十分に会社を出て、地下の通路へ降りる階段の手前で、人の流れに押されるまま歩いていた。早く出られた、と呼べる時刻ではない。ただ、終電を気にしなくていい日だった。
コートのポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。続けてもう一度。立ち止まると、後ろを歩いていたサラリーマンが舌打ちして、美優の肩をかすめていった。美優は柱の陰へ寄り、画面を点けた。
高橋健二。件名は〈【重要】内定のご連絡〉。
重要、という二文字だけで、親指が動かなくなった。この数か月、結果のメールを開くたびに胃が縮んだ。〈慎重に選考を進めました結果〉という書き出しを、美優はもう何通も見ている。その書き出しの形を、指が覚えていた。
駅の構内放送が、どこかの路線の遅延を告げている。人の声と靴音と、改札の電子音。美優は息を吸って、メールを開いた。
〈佐藤様 お世話になっております。高橋です。本日夕方、株式会社ライフクリエイト様より、マーケティングコーディネーター職での採用内定のご連絡をいただきました。詳細は添付の書面をご確認ください。お電話でも補足いたしますので、ご都合のよいときにご連絡ください〉
そこまで読んで、美優は同じ一行をもう一度読んだ。採用内定。四文字の漢字が、画面の中で、どこか他人の名前のように見えた。
添付ファイルを開く。条件通知書、と題された一枚目に、数字が並んでいた。提示年収、四百十万円。美優の今の年収は、固定残業代を含めて三百八十万円ほどだ。勤務時間は九時から十七時。休憩は一時間。時間外労働は、一分単位で全額支給。
全額。その二文字を、美優は指でなぞった。画面に指紋が残った。
四十五時間分の固定残業代を超えて積み上がってきた時間が、この五年間、一円にもならずに消えていった。それを今、この紙は「全額」と書いている。当たり前のことが当たり前に書かれているだけだ。そう思うのに、目頭が熱くなった。
足が震えた。嬉しいから震えているのか、怖いから震えているのか、区別がつかなかった。柱に背中を預けると、冷たいタイルの感触がコート越しに伝わった。目の前を、誰かの傘の先が通り過ぎていく。雨は降っていない。今朝の予報が外れて、乾いた風だけが吹いていた。
これを受けるということは、あの六階の、〈スピードは信頼〉の貼り紙の下へ、辞めると言いに行くということだ。
その考えが、遅れて胸に落ちてきた。内定が出れば自由になれる、と心のどこかで思っていた。けれど自由になるには、まず部長の前に立たなければならない。メールの文字は光っているのに、その向こうに、窓に背を向けた自分の席と、いつもの蛍光灯が見えた。
美優は画面を閉じ、また開いた。内定のメールはそこにあった。消えていなかった。
〈いま、お電話しても大丈夫ですか〉
そう打って送ると、一分と経たずに、画面に着信が表示された。
「佐藤さん、高橋です。おめでとうございます」
いつも通りの声だった。後ろで、キーボードの音が止まる。仕事の電話をしている部屋の静けさだ。
「ありがとう、ございます。あの、まだ、うまく読めていなくて」
「それが普通だと思います。順番にお話ししますね。先方の人事の方は、最終面接の質問への答え方を高く評価していました。特に、後輩への関わり方の話を」
最初は支え方を間違えた、と答えたあの場面だ。面接官の一人が、ペンを止めて頷いたのを覚えている。
「条件は、面談でお伝えした求人票の通りです。年収、勤務時間、時間外の扱いも、書面になっています。入社日は四月一日を想定されていますが、ここは調整が可能です。回答の期限は、来週の木曜日までです」
「来週の、木曜」
「はい。ですので、今日この場でお返事をいただく必要はありません。持ち帰ってゆっくり考えていただいて構いません」
駅のコンコースの向こうで、立ち食いそばの湯気が上がっていた。人が次々と吸い込まれ、次々と出てくる。
「高橋さん」
「はい」
「お受けします。よろしくお願いいたします」
口に出した瞬間、足の震えが収まった。代わりに、胸の真ん中が、ひやりと冷たくなった。
「承知しました。では、先方へはそのようにお伝えします。そのうえで、今夜は書面を一度ご自分の目で見てください。給与の内訳、試用期間、時間外勤務の扱い。確認して、気になる点があれば、遠慮なく言ってください。決めたあとでも、確かめる権利はなくなりませんから」
決めたあとでも、確かめる権利は。美優は繰り返さずに、「はい」とだけ答えた。電話を切ったあとも、画面を見たまま、しばらくそこに立っていた。
人の波が、右から左へ流れていく。誰も美優を見ない。誰かに伝えたかった。梨沙に、母に。けれど、その前に、まず自分の部屋で、この紙を読みたかった。
練馬行きの電車は混んでいたが、ドアの横に場所が取れた。窓に映った自分の顔は、疲れた人の顔のままだった。笑ってはいなかった。
アパートの玄関を開けると、冷えた空気と、乾いた土のにおいがした。部屋の電気を点けるより先に、ベランダのパキラが目に入る。窓の外の鉢の葉は、先のほうが茶色く縮れたままだった。水をやり忘れていたわけではない。やり方を忘れていた、というほうが近かった。
美優はコートも脱がず、小さな丸いテーブルにノートパソコンを置いた。印刷はしなかった。代わりに、画面の数字を一つずつ、手帳の余白に写した。基本給、職務手当、通勤手当。固定残業の記載は、ない。時間外手当は実績に応じて支給、とある。試用期間は三か月で、その間も条件は変わらない。勤務地は品川。始業九時、終業十七時、フレックスの記載は、ない。
読むうちに、鉛筆の先が止まった。〈有給休暇は入社時より付与〉。入社時より。その一行の前で、美優は長く動けなかった。この五年間、有給は何日残っていたのだろう。確かめたことがなかった。半休は勤怠システムで申請したが、連続休暇に必要な紙の申請書を、どこで受け取るのかも知らなかった。
冷蔵庫を開けた。缶ビールが一本と、賞味期限の切れた納豆が二つ。何も作る気になれなくて、棚の奥からカップスープの袋を探し出し、お湯を注いだ。立ったまま飲むと、粉の塩味が舌に広がって、それが妙においしかった。
布団の中で、五年前の面接を思い出した。「君の志望動機は、よく分からないな」と言ったあとで、鈴木部長は笑ってこう続けたのだ。嘘がつけない人間だということは分かった、と。落ち続けていた自分を、あの人だけが拾ってくれた。あれは演技ではなかったはずだ。感謝している。それでも、もう戻れない。二つの気持ちをどちらか一つに決めなくても、朝は来るのだろうか。
書面を確認し終えたとき、時計は二十三時を回っていた。布団に入っても、目は冴えたままだった。嬉しい。確かに嬉しい。けれど、天井を見ていると、明日の朝のことばかりが浮かんだ。いつもの電車、いつもの席、窓に背を向けた椅子。内定が決まっても、明日の朝のメールは減らない。退職の時期。引き継ぎ。同じ島の人たちの顔。新しい仕事が決まっただけでは、古い生活は終わらない。
翌朝、美優はいつもより十分早く出社した。フロアにはまだ誰もいなかった。電気を点けると、蛍光灯が順番に瞬いて、〈スピードは信頼〉の紙が白く浮かび上がる。端の反りは、五年前のままだ。
美優は自分の席に座り、パソコンを立ち上げた。誰にも言わない。まだ、誰にも言わない。そう決めて、いつも通りに前日の続きの数字を開いた。内定の知らせは、鞄の底の、スマートフォンの中にだけあった。それが、お守りのような、重りのような、不思議な感触だった。
九時を少し回った頃、鈴木部長が出社した。いつもは靴音ひとつ立てずに自席へ向かう。その日は、美優の机の脇で足を止めた。
「佐藤さん、おはよう。ちょっといいか。会議室で話そう」
声がいつもと違っていた。低く、柔らかく、角が取れていた。美優の背中を、冷たいものが滑り落ちた。内定のことを知られているはずがない。そう分かっているのに、手のひらが汗ばんだ。
小さな会議室には、ホワイトボードの消し跡が残っていた。部長は自分で二つの紙コップにコーヒーを注いで、片方を美優の前に置いた。部長が誰かにコーヒーを淹れるところを、美優は五年間で初めて見た。
部長は机の端に積まれた見積書を押しやった。一枚には赤い字で〈人員増不可〉と書かれていた。「最近、君に頼りきりだったな。申し訳ないと思っているんだ」
美優は返事ができなかった。部長の口から出た「申し訳ない」という言葉が、どこの国の言葉なのか、一瞬分からなかった。
「実は、来月の頭に大きな案件が動く。駅前の再開発でできる商店街の、ブランディングだ。地元の小さな店を三十軒ほど巻き込んで、ロゴから販促物まで全部を任される。うちの会社の規模では、今後あるかどうかの仕事だ」
部長は机の上に、クリアファイルを滑らせた。表紙に、商店街の完成予想図が印刷されている。アーケードの下に、小さな看板が並んでいる。パン屋、花屋、乾物屋。絵の中の人たちは、どれも笑っていた。
その絵は、新卒の美優が、この会社を選んだ理由に、あまりにもまっすぐ触れていた。
「これを、君に任せたい。現場の責任者として。課長の話も、前に少ししたな。この案件が形になれば、正式に動かせる。私はそのつもりだ」
「……部長」
「君はうちの背骨なんだ。君がいなければ、この会社は立ち行かない。分かっているだろう」
背骨、という言葉を、美優は去年も、一昨年も、聞いた。夜の十時に、数字の差し替えを頼まれるたびに。けれど今朝のその言葉は、いつもより本当のことのような響きを持っていた。それがいちばん怖かった。
部長の指が、ファイルの端を軽く叩いた。
「五年前、君を採ったとき、期待してるぞと言っただろう。あの気持ちは今も変わらん。むしろ、ようやく報いてやれる時が来たと思っているよ」
紙コップの縁から、細い湯気が立っている。美優はそれを見つめた。五年前の面接室の空気が、鼻の奥によみがえった。何社も落ちたあとの、スーツの肩の重さ。「期待してるぞ」と言った声の温度。美優は、紙コップの向こうにある部長の手を見た。爪の脇に赤いインクが残っていた。
同時に、昨夜の紙の一行が浮かんだ。時間外手当は実績に応じて、全額支給。有給は入社時より付与。
「少し、考えさせてください」
自分の声が、思ったよりも落ち着いて聞こえた。部長は一瞬だけ目を細めた。
「もちろんだ。急がなくていい。ただ、来週の頭には、返事がほしい」
「はい」
会議室を出ると、廊下の向こうで、田中がコピー機の前に立っていた。目が合うと、彼は何か聞きたそうな顔をして、すぐに視線を逸らした。
席に戻ってから、美優はクリアファイルを机の上に置いたまま、しばらく動けなかった。完成予想図の中の、パン屋の看板を見る。新卒のとき、初めて担当した商店街のパン屋の、あの店主の顔が浮かんだ。試作品を笑いながら出してくれて、撮影中、何度も一緒に笑った。あの仕事のあとに、ここまで来るまで、自分は何を失ってきたのだろう。
完成予想図の端で、パン屋の看板だけが鮮やかな赤色だった。
美優はファイルを引き出しの奥に入れた。閉めるとき、紙と紙が擦れて、小さな音を立てた。
土曜日は、昼前に目が覚めた。目覚まし時計をかけていなかったのに、身体が勝手に起きたのは久しぶりだった。窓の外の光は薄く、ガラスの結露が、ところどころ筋になって流れている。
梨沙との約束は十四時だった。駅前の喫茶店は、去年の冬にも二人で入った店で、奥の席から商店街の通りが見える。美優が着いたときには、梨沙はもう窓際に座っていて、メニューを開いたまま頬杖をついていた。
「久しぶり。顔、ちょっと違うね」
「違う?」
「うん。なんか、目が前を向いてる」
梨沙はそれ以上何も言わずに、手を挙げて店員を呼んだ。美優はホットのミルクティーを頼んだ。梨沙は、ケーキの皿を二つ分、迷わず指さした。
「食べて。一個ずつ。私、栗のほうがいい」
運ばれてきたケーキの横に、小さなフォークが二本置かれた。美優はそれを持ち上げて、また置いた。
「あのね。ライフクリエイトから、内定が出た」
梨沙のフォークが、皿の上で止まった。それから、置かれた。少しの間があって、梨沙は両手でカップを包み、じっと美優を見た。
「おめでとう。……でも、無理して笑ってない?」
「嬉しいのは本当なの。ただ、怖い」
「そっか」
梨沙は頷いて、窓の外へ視線を投げた。店の前を、親子が歩いていく。小さな男の子が、道端の水たまりの前で立ち止まるたび、大人も歩幅をゆるめて待っていた。
「怖いままでいいんじゃない」
「それって、いいのかな。決めたのに、怖いって」
「だって、五年いた場所でしょう。怖くないほうが変だよ」
美優はミルクティーに口をつけた。熱さが舌の先に残った。
「前はさ、怖いって言ったら負けだと思ってた」
「今は?」
美優は、少し考えた。窓の外の、親子の背中が小さくなっていく。
「怖いけど、行きたい」
口にした途端、その言葉が、自分の中のいちばん正確な場所に収まった。梨沙は何も言わず、栗のケーキを切り分けて、半分を美優の皿へ載せた。
「それが答えなんじゃない?」
「ありがとう。ごめんね、いつもこんな話ばっかりで」
梨沙は、フォークを置いた。
「それ、やめて」
思ったより強い声だった。美優は、肩を縮めた。
「ごめんって言われるたびに、私が貸しを作ってるみたいで、嫌なの。友達でしょう。聞くのが嫌なら、最初から来ないよ」
「……ご」
言いかけて、美優は口を閉じた。梨沙が、ふっと息を吐いて、小さく笑った。
「ほら。今、また言おうとした」
「だって、癖で」
「知ってる。五年分の癖でしょう。でもね、正直に言うと、ちょっと寂しいときもあるの。美優が話してくれるのって、たいてい、一人で抱えきれなくなったあとなんだよね。その手前で、呼んでほしかった」
「梨沙には、話してたつもりだった」
「聞いてはいたよ。でも、手前じゃなかった。……まあ、私が頼りなく見えてた時もあるんだろうけど」
返す言葉が見つからなかった。美優は、紙ナプキンを指で折った。
「次は、迷ってるときに呼ぶ」
「よろしい」
梨沙は大きく頷いて、少し照れたように、紅茶を口へ運んだ。
「あのね、もう一つあるの」
美優は、昨日の会議室のことを話した。部長が淹れたコーヒー。商店街の案件。課長の話。うちの背骨。梨沙は最後まで遮らなかった。
「それ、全部、本当のことだと思うよ」
「本当のこと?」
「うん。部長さんはたぶん嘘をついてない。美優がいないと困るのも本当だし、期待してるのも本当だと思う。でもね」
梨沙はフォークの先で、皿の縁を軽く叩いた。
「部長さん、その案件が終わったあとも、美優の睡眠時間を心配してくれるかな」
答えは、すぐに分かった。分かってしまうことが、少し悲しかった。
「去年、三人辞めたじゃない。その人たちにも、背骨って言ったのかな」
「……分からない」
「分からないよね。私も分からない。ただね、美優。その案件をやりたい気持ちがあるのは、嘘じゃないでしょう」
美優は頷いた。商店街の絵の中の、パン屋の看板。やりたい、と思ってしまった自分を、否定したくなかった。
「やりたい気持ちは、大事にしていいと思う。でも、そういう仕事に出会えるのは、ここだけじゃないよ」
美優は笑った。笑おうとして、先に涙が出た。梨沙はハンカチを差し出す代わりに、紙ナプキンを一枚、黙って押しやってきた。
窓の外で、日が傾き始めていた。五時には、まだ早い。それでも、通りのガラスに、薄い橙色が滲んでいた。
その夜、母から電話があった。画面に「お母さん」と表示されたのを見て、美優は今度は鳴りやむのを待たなかった。
「もしもし、美優。ご飯、食べた?」
「食べたよ。友達と一緒に」
「あら、いいね。梨沙ちゃん?」
「うん」
受話器の向こうで、水の流れる音がしていた。母が台所で、洗い物をしているのだ。蛇口の音と、食器が触れ合う小さな音。その音を聞いただけで、美優は声がつまった。
「お母さん、あのね。内定、もらった」
一拍置いて、「まあ」という息が聞こえた。水の音が止まった。
「よかったね。本当に、よかったね」
母は何度も繰り返した。よかったね、よかったね、と。その声が震えていて、美優は途中から何も言えなくなった。電話の向こうで、母が鼻をすする音がした。
「どんな会社なの」
「品川にある、IT系の中堅の会社。マーケティングの仕事。九時から五時で、残業代も出るの」
「五時。……五時に帰れるの」
「うん。たぶん」
「そう」
母は、それしか言わなかった。それから、堰を切ったように、聞いてきた。
「試用期間は、あるの。その間、お給料は下がらない? 社会保険は? 通勤は、何分かかるの。有給はつくの」
「ちょっと、お母さん」
「お金のことは、大事でしょう。あなたは昔から、聞かないで、黙って決めるんだから」
質問が全部、お金と手続きのことだった。それが母なりの愛情の形だと、美優は、遅れて気づいた。
そのあとで、ふと声が小さくなった。
「辞めるって言ったら、あの会社、怒るんでしょう」
「部長は……たぶん、怒ると思う。怒鳴りはしないけど、きっと、嫌なことをたくさん言う。この前も、課長にするって言われた」
美優は、自分がそれを口にしていることに驚いた。母に、会社の話をこんなに話したのは初めてだった。
「きっと、怒られる」
母は、すぐには答えなかった。台所の時計の秒針の音が、受話器越しに聞こえた気がした。
「怒られるかもしれないね。でも、怒られないためだけに、会社を続けるの?」
問いかけの形をしていたが、責める響きはなかった。ただ、まっすぐに投げられた石のように、美優の胸の水面に落ちて、輪が広がった。
怒られないために。五年間、自分が毎朝、電車に乗っていた理由を、母の言葉は言い当てていた。給料のためでも、やりがいのためでもなく、怒られないために。
「……続けたくない」
「うん」
「でも、怒られるのが、怖い」
「怖いよね。お母さんもね、怒られるのは今でも怖い。でも、あなたが食べられなくなるほうが、お母さんはずっと怖い」
美優は目を閉じた。まぶたの裏に、実家の台所が浮かんだ。窓際の流し、使い込んだ鍋、ガスの青い火。学校から帰ると、いつも味噌のにおいがしていた。
「ご飯だけは、ちゃんと食べるんだよ」
「分かってる」
「ほんとに分かってる?」
母が、笑った。美優も、つられて笑った。電話が切れたあと、部屋の静けさが、いつもより優しく感じられた。
日曜の夜、スマートフォンに通知が来た。送り主は木村だった。
〈佐藤さん、遅くにすみません。相談があります。急ぎじゃないので、都合のいいときに、少しだけ時間もらえませんか〉
美優は画面を見つめた。木村の文章は、いつも丁寧だ。丁寧すぎて、本当に言いたいことを、一枚の布で包んでいるように見えた。
自分が辞めれば、木村の仕事は確実に増える。その考えは、内定の通知を開いたときから、何度も頭に浮かんでは、消えなかった。教育係の自分が抜けて、田中も疲れていて、部長の目は木村に向かうだろう。そうなったとき、木村はどうなる。
美優は返信欄に〈実は〉と打った。そこで指が止まった。続きを、文字では書けなかった。顔を見て言いたかった。木村の声と、表情と一緒に。
〈実は〉の二文字を消して、打ち直した。
〈ありがとう。今週のどこかで、時間をとるね。連絡するね〉
すぐに既読がついて、一分後に返信が届いた。
〈はい。待ってます。急ぎじゃないので〉
最後に、頭を下げる絵文字が付いていた。美優はそれを見て、胸がきしむのを感じた。木村は、いつ言い出そうか、迷っていたのかもしれない。何を相談したいのかも、聞けなかった。
月曜の朝、美優は部長の席の前に立った。
「部長、金曜のお話ですが。もう少しお時間をいただけますか。月末までには、必ずお返事します」
部長は書類から顔を上げた。口の端が、持ち上がった。
「そうか。慎重なのはいいことだ。君らしい。待とう」
それは、勝者の笑みではなかった。むしろ、確信のある人の笑いだった。美優が断らないと信じている顔だった。
席に戻りながら、美優は自分の足が、思っていたよりしっかり床を踏んでいることに気づいた。部長の確信は、美優の中の、まだ決めきれていない部分を、ちくりと刺した。
その日の昼休み、美優は会社の外に出て、ビルの裏手の公園のベンチに座った。銀杏はすっかり葉を落としていて、枝の隙間から薄い雲が見えた。高橋に、ビデオ通話の予約を入れた。
夜、いつものコワーキングスペースの個室で、画面の中の高橋は、先に頭を下げた。
「お時間をいただきありがとうございます。お電話のあと、書面はご確認いただけましたか」
「はい。気になった点は、手帳に書きました」
美優は、三つの質問を読み上げた。試用期間中の有給の扱い、時間外の申請方法、入社後の研修の内容。高橋は一つずつ丁寧に答え、分からない点は人事に確認すると言った。
「それから」
美優は、少し間を置いた。
「退職の話を、どう切り出せばいいか。会社が、簡単には認めてくれない気がして」
画面の向こうで、高橋は頷いた。
「就業規則を確認しましょう。退職の申し出の期限は就業規則によって異なります。三月末の退職にするなら、二月のうちに、書面で。口頭だけでなく、退職届という形で、控えも手元に残しておくのが安心です。感情的なやりとりになっても、記録は残りますので」
「書面で」
「はい。それと、引き継ぎはもちろん必要です。誠実にやってください。ただ」
高橋は、言葉を探すように、一瞬、視線を下げた。
「職場の人員配置まで、個人で背負う必要はありません。人員をどう確保するかは会社が決めることです」
美優は、すぐには頷けなかった。理屈は分かる。けれど、五年かけて身につけた考え方は、頭で分かっただけでは、体から抜けていかなかった。
「分かってるつもりなんですけど、後輩のことを考えると、どうしても」
「そうですよね。急に切り替えられなくて当然です。後輩の方のことを考えるのは、悪いことではないと思います」
画面の端に、個室の壁が映っている。小さな観葉植物が、窓辺で葉を広げていた。美優はそれを見ながら、自分の部屋のパキラのことを思った。
通話が終わったあと、家に帰る前に、美優はコンビニで小さなペットボトルの水を買った。帰宅すると、真っ先にベランダへ出て、パキラの鉢に水をやった。乾いた土が、ゆっくりと色を変えていく。
火曜の朝、給湯室でポットのスイッチを入れていると、田中が入ってきた。
「佐藤さん、金曜、部長に呼ばれてましたよね」
田中はポットの湯気を見たまま言った。
「……うん」
「大きい案件の話ですか。駅前の商店街の」
「知ってたの」
「部長、前の週から、見積もりの数字を何度も見てたんで。あれは佐藤さんに振るんだろうなって、みんな思ってました」
田中は紙コップの縁を指でなぞった。ためらうように、少し黙ってから言った。
「僕、あのとき、会議で何も言えなかったじゃないですか。納期の話のあと」
「言ったでしょう。確認工程が飛びますって」
「一回だけです。そのあと、黙っちゃった」
美優は首を振ろうとして、やめた。慰めの言葉は、もう使い古されている。代わりに、湯気の立つ紙コップを両手で包んだ。
「あれを言えたのは、すごいことだと思う。私は言えなかったから」
田中は、息を吐いた。ポットが、かちりと音を立てて止まった。
「佐藤さんがどっちを選んでも、僕、責めませんから。それだけ、言っておきたくて」
どっち、という言い方が、美優の耳に残った。田中は何も知らないはずだった。それでも彼は、美優の前に、二つの道があることを、分かっていた。
「ありがとう。そう言ってもらえて、助かった」
「いえ。僕が言いたかっただけなんで」
田中は照れたように笑って、給湯室を出ていった。美優は、ポットのスイッチが切れる小さな音を聞いてから、自分の紙コップを持って席に戻った。
その夜、美優は箪笥の奥から、古い小さな箱を取り出した。厚紙の蓋が、角から少し毛羽立っている。中に、入社式の写真が入っていた。
二十二歳の自分が、新品のスーツの肩をこわばらせて立っていた。口元だけが笑っていて、目は、まっすぐにカメラを見ている。眩しそうだった。何かを期待して、何かを信じている顔だった。隣には、まだ辞めていなかった宮下が、少しだけ入り込んで写っていた。
あの日の自分に、何と言えばいいのだろう。裏切るようで、怖かった。入社式の朝、胸に抱えていた気持ちを、五年かけて、少しずつ踏みつけてきたような気がした。
けれど、あの日の自分が願っていたのは、心も身体も壊して働くことではなかった。商店街の小さな店が、元気になる手伝いをしたい。それが、すべてだった。
美優は写真を箱へ戻した。蓋を閉めると、カタ、と小さな音がした。
机の上に手帳を開く。二月のページの、まだ何も書かれていない一日を探した。月末までの日付を、指で一つずつたどる。部長の会議が少ない日。月次の資料が出たあと。木村と、ゆっくり話せる日。
美優は、鉛筆を持ち直した。
二十四日の欄に、小さく、でもはっきりと書いた。
〈退職届を出す〉
文字は震えていなかった。鉛筆の先から、薄く灰色の粉がこぼれて、紙の上に落ちた。美優はそれを、息で、払った。




