第八章 試練
ライフクリエイトとは別の広告関連企業で受けた最初の対面面接で何を聞かれたのかを美優が思い出したのは、不採用の通知を開いた夜だった。
あの日、扉の向こうの長机には、面接官が二人座っていた。一人は五十代くらいの男性で、もう一人は三十代の女性。履歴書に目を落としたまま、男性が言った。
「ではまず、なぜ今の会社を辞めたいと思われたのか、教えてください」
想定問答集の最初に書いた質問だった。何十回も、頭の中で答えを練習した質問だった。けれど、口を開いた瞬間、美優の中から言葉がすべて抜け落ちた。辞めたい理由。ひとつ言えば、会社の悪口になる。ふたつ言えば、愚痴になる。みっつ目を言ったら、それはただの、弱音だった。
「……キャリアアップのためです」
自分の声が教室で暗記した答えを読み上げる生徒のように聞こえた。女性の面接官が、手元のペンを少し動かした。男性は、「なるほど」と頷いた。その「なるほど」が、何も受け止めていない音をしていた。
「具体的には、どのようなキャリアを」
「より、責任のある、仕事を」
「現職でもできそうですが」
その通りだった。反論の言葉は見つからなかった。強みを聞かれたときも、実績を聞かれたときも、同じだった。言葉は喉の手前まで来て、そこで固まる。話している間じゅう、美優は自分の声の向こうに鈴木部長の「できない理由を並べる前に」が聞こえる気がした。
その夜、メールの受信箱に件名だけで分かる一通が届いた。〈選考結果のご連絡〉。開く前から、分かっていた。
〈慎重に検討を重ねました結果、誠に残念ながら、今回はご期待に沿えない結果となりました〉
最後まで読んで美優は椅子に座ったまま動けなくなった。パソコンのファンの音だけが続いていた。面接の間、女性の面接官が一度だけ、頷いてくれたことを思い出した。あれは、礼儀だったのだろう。そう分かっているのに期待した自分が恥ずかしかった。台所の蛇口から、水滴が一つ、シンクに落ちた。
高橋に電話をかけたのは、翌日の昼休みだった。ビルの裏の小さな公園のベンチで、銀杏の枯れ枝を見上げながら、呼び出し音を聞いた。
「私には、やっぱり、無理なのかもしれません」
言ってしまうと声が震えた。高橋はすぐには否定しなかった。電話の向こうで、紙をめくるような音が止まった。
「そう思うほど、頑張って準備したんですね」
その一言で鼻の奥が熱くなった。頑張ったことを認めてもらえるなんて、思っていなかった。
「不採用の理由も、分からなくて」
「分からないことを、全部ご自分の欠点にしないでください」
高橋は言った。
「採用の判断には佐藤さんの側から見えない事情が、たくさんあります。募集枠の都合、既にいる人との相性、そのときの部署の状況。私も、企業の方から理由を聞けることは、あまり多くありません。ですから、結果から読み取れることは、限られます」
「……はい」
「ただ、一つだけ、気づいたことがあります。次の面談で一緒に練習させてください。佐藤さんの経験が、うまく伝わる言葉になっていないだけかもしれません」
通話を切ると、公園の砂場のあたりで、小さな子どもが走り回っているのが見えた。ビル街の中の、平日の昼間の公園に子どもがいる。そのことがひどく不思議なことに思えた。
次の面談は、その週の土曜の朝、コワーキングスペースの個室で行われた。画面の向こうの高橋は、いつもの濃い灰色のセーターを着ていて、机の上に白いノートと、コーヒーのカップを置いていた。
「お話を聞いた限りでは前回、『なぜ辞めたいか』の質問が、いちばんつらかったようですね」
「はい。本当のことを言ったら、悪口になる気がして」
「正直に話してもいいんです。ワークライフバランスを求めている、ということも隠さなくて構いません。ただ、それを、相手が受け取りやすい形に、言い換えるんです」
高橋はノートに二つの文を書いた。
〈長時間労働が続いて、体を壊しそうだったので辞めたい〉
〈長期的に持続可能な形で会社に貢献できる環境を探しています〉
「どちらも嘘ではありませんよね」
「……はい」
「上の文は事実の一部ですが聞く側には過去の不満として届きます。下の文は同じ事実から、これから先に向けた希望を取り出した形です。これを、佐藤さんの言葉に直してみましょう」
美優はペンを持って、考えた。ノートの余白に、いくつか書き出す。〈今の働き方では、続けられない〉。〈体力の問題〉。〈長く働きたい〉。書いては線を引き、書いては線を引いた。
「長く、働きたいんです。ここまでは本当に」
「ええ」
「でもその長く、の中身が今は五年先も同じように働いている自分を、想像できなくて……」
そこで声が詰まった。高橋は、何も言わずに待った。コーヒーカップの縁が、画面の端で湯気を立てている。
「想像できない、は、大事な言葉ですよ」
「大事、ですか」
「はい。それを、そのまま面接で言うと重く聞こえます。いま書いた言葉の中に、先へ向いた形はありませんか」
美優は、ノートの余白を見た。〈長く働きたい〉。〈五年先も〉。二つを並べて、少し考えてから、口に出した。
「五年後も、同じ熱量で仕事に向き合える環境で、働きたい。……こう言えば、いいですか」
「それです。佐藤さんが何を大切にしているかが、伝わります」
美優はその一文を、ノートに書き写した。口の中で、読んでみる。
〈五年後も同じ熱量で仕事に向き合える環境で働きたいです〉
「もう一度、声に出して」
言った。もう一度。三回目は、肩の力が、少し抜けた。四回目で、高橋が頷いた。
「いまの言い方は、自然でした。それは、佐藤さんが、本気でそう思っているからです」
その日は二時間、練習した。高橋が面接官の役をして、美優が答える。質問の順序を変え、わざと意地悪な聞き方もした。「それは本当に、前の会社を辞める理由になりますか」。美優は、少し詰まってから、答えた。「はい。辞めるというより、移る理由です」。高橋は、ペンを止めて、口の端を上げた。
「いまの、いいですね。メモしてもいいですか」
「そんなにいい答えでしたか」
「ええ。『辞めるというより、移る』。使い古された言葉に聞こえますが佐藤さんが言うと、自分の言葉になっています」
帰り道、美優はスマートフォンの録音アプリを開いた。さっきの練習の、自分の声を聞き返す。思っていたよりも、低くて、落ち着いていた。少し笑ってしまった。
ライフクリエイトの一次面接は、年末の木曜の夕方、オンラインで受けた。結果の連絡は、年が明けてから届くと言われていた。
画面の向こうの面接官は一人だった。四十代くらいの女性で、背景には観葉植物と、白い本棚が映っていた。森下、と名乗った。若林が話していた、あの上司の名前だった。
「ご経歴を拝見しました。商店街のパン屋さんの広告、というお話がおもしろいですね」
「はい。最初の担当案件でした。店主さんが、新商品の試作品を、何種類も出してくださって。撮影の間、何度も笑ってしまいました」
言ってから、美優ははっとした。仕事の話で笑った、と言ったのは何年ぶりだろう。森下は、画面の中で、目を細めた。
「その笑った、が、佐藤さんの仕事の原点なんですね」
「……そうかもしれません」
そう答えたとき、画面の隅に映る自分の顔が、やわらいでいた。三十分の面接の終わりに森下は言った。
「結果は、年明けにご連絡しますね。年末は、お忙しいでしょうけれど、お休みを取ってください」
定型の挨拶だと思った。けれど、通話が切れたあともその言葉だけが耳に残っていた。
年が明けた。街は、新しい年の空気を引きずっていた。会社の廊下には、誰かが持ってきた箱入りのお菓子が置かれ、部長は「今年はスピードを上げていくぞ」と短く言った。誰も、拍手はしなかった。
新年最初の対面面接は、一月の半ば、平日の夕方に入っていた。半休を申請すると部長は画面から目を離さなかった。
「また、歯医者か」
「はい。治療が、続いていまして」
「長いな。領収書を、出してくれ。経費の話じゃない。勤怠の確認だ」
「……はい」
部長はそれ以上何も言わなかった。席を立つとき、隣の島の木村がちらりとこちらを見た。紙袋を提げている美優の手元に、一瞬だけ目が止まって、すぐに外れた。
「いってらっしゃい」
木村は小さな声で言った。
「帰りに、空、見てくださいね」
美優は返事ができなかった。ただ、頷いた。エレベーターの扉が閉まるまで、木村はこちらを見なかった。
その面接先は、都心のオフィスビルの十一階にあった。受付の壁一面が窓になっていて、午後四時の光が床に長い四角形を落としている。美優は、待合室の椅子に座りながら、その四角形が少しずつ動いていくのを見ていた。この前の待合室のように他の人の靴を数えることはしなかった。
通された部屋には、面接官が二人いた。四十代の男性と、少し若い男性。名刺を交換すると、年上の男性は「人事部の者です」、若いほうは「配属予定の部署の者です」と名乗った。
「ではお願いします。まず、これまでのご経歴から」
美優は五年間の仕事を、四分に収めて話した。商店街のパン屋の新商品広告から始まって、雨の中のイベント告知のこと、大手クライアントの媒体運用のこと。高橋と作った、数字の入った言葉は口から出てきた。
「なぜ、転職を」
「五年後も同じ熱量で仕事に向き合える環境で働きたいからです。これまでは、担当者個人の頑張りで業務を回すことが多くありました。これから、チームで仕事を分け合い、質を保ちながら続けられる環境で、経験を生かしたいと考えています」
言い終えたとき、年上の男性のペンが紙の上で止まった。数秒の沈黙が、会議室に落ちた。
「分かりました。では、こちらからは以上で。何か、ご質問は」
美優は膝の上のメモを見なかった。顔を上げて、二人を交互に見た。
「入社後の、働き方について、伺ってもよろしいでしょうか。繁忙期は、どのくらいの残業になるのか。その際、チームでは、どのように業務を分けているのかを知りたいです」
年上の男性は少し考えてから、口を開いた。
「正直に言うと、四月と十月は忙しいです。月に三十時間から四十時間くらい。その期間は、課の中で担当を組み替えて、新しい案件は人数が足りるか確認してから受けます。受けられないときは、営業に断ってもらうこともあります」
美優はメモを取った。数字と、組み替え、断ること。具体的だった。顔を上げると、若い男性が小さく頷いていた。
「あの、僕から、補足していいですか。僕の課では月曜に、全員で今週の予定を共有します。一人で抱え込んでいる案件があれば、そこで出してもらうようにしています」
「ありがとうございます」
美優は書きながら、その二人の話の端々に、嘘がないことを感じた。数字を口にする声が、乾いていた。
「私のほうからも、一つ、伺っていいですか」
そう言ったのは年上の男性だった。机の上で指を組んだ。
「佐藤さんは、前職でなぜあれほど長時間働いていたのですか。ご自分で、改善できなかったんでしょうか」
美優は息をのんだ。椅子の肘掛けに、指を置いた。かつてなら、すべて自分の不足として説明しただろう。責められている、と思いかけた。けれど、男性の目は責める目ではなかった。質問の答えを、知ろうとする目だった。
「改善できた部分も、あったと思います」
声は自分でも驚くほど静かだった。
「資料の作り方を見直して、確認の回数を減らしたり、案件ごとの優先度を整理して、上司に相談したりしました。ただ、担当者の工夫だけでは変えられない部分も、ありました。業務量の配分や、最終的な決定の仕組みです。その点について、私は、変えることを諦めた時期がありました」
言いながら、「諦めた」という言葉が自分の口から出たことに、驚いた。それは、練習した原稿にはなかった。
「今は、業務の見通しを共有できる環境で経験を生かしたいと考えています」
言い終えて、美優は一度、息を吐いた。若い男性が、メモの上にペンを置いた。年上の男性は、何かを書き留めた。それが何だったのかは、分からない。
手応えがあったかどうかも分からなかった。それでも、帰りの廊下を歩きながら、美優は嘘をつかずに話せたことだけを、一歩ずつ確かめていた。エレベーターを降りて、ロビーのガラス扉を押す。
外は、もう暗かった。冬の夕方は、あっという間に夜になる。木村に言われた通りに、空を探した。ビルの合間に群青色の細い帯が残っていた。
ただ、結果は、不採用だった。
メールを開いた瞬間、胃が縮んだ。〈今回は、見送りとさせていただきます〉。画面の文字を、何度も読み返した。やっぱり、自分には価値がないのではないか。古い言葉が、また、よみがえってきた。
その夜、高橋に連絡する前に梨沙へ、メッセージを送った。
〈落ちた〉
たった三文字だった。送信して、スマートフォンを机に置いた。メッセージの横に、既読の文字がすぐについた。数秒の後に、返信が届いた。
〈今日は何食べたい?〉
美優は画面を見つめた。慰めの言葉も励ましの言葉もそこにはなかった。ただ、夕食の話だけが、置いてあった。少し笑って、親指を動かした。
〈温かいもの〉
〈了解。駅で待ってる〉
梨沙は美優のアパートの最寄り駅の改札で、手を振っていた。黒いダウンジャケットを着て、マフラーに顎をうずめている。仕事帰りに、わざわざ電車を乗り継いで来たのだろう。鼻の頭が、赤かった。
「お疲れ」
「来てくれたんだ。ごめん、急に」
「謝らないの。私が来たかっただけ」
二人は駅の裏手の、小さな定食屋に入った。引き戸を開けると湯気と、出汁の匂いがした。カウンターの奥で、割烹着の女性が鍋をかき混ぜている。壁の短冊に、〈豚汁定食〉と書かれていた。
「豚汁でいい?」
「うん」
梨沙はメニューも見ずに二人分を注文した。運ばれてきたお椀は、持つと手のひらにじんわりと熱が伝わった。美優は、蓋を取って、立ちのぼる湯気に顔を近づけた。ごぼうと、大根と、豚肉。味噌の色が、少し濃かった。
一口すすった。熱が降りていく。美優は、箸を置いて、しばらく、お椀を両手で包んでいた。
梨沙は、何も聞かなかった。自分の豚汁を、ゆっくり食べている。ときどき、「ここのお漬物、おいしいよ」とだけ言って、小皿を美優のほうへ押した。
「……面接官にね、聞かれたの。なんであんなに長く働いてたのか、自分で改善できなかったのか、って」
「うん」
「前の私だったら、全部、自分のせいだって答えたと思う。でも、今日は、そうじゃなかった。言えたの」
「それ、すごいことじゃない」
「でも落ちたよ」
「落ちたね」
梨沙はあっさりと言った。それがかえって、美優の胸にすとんと収まった。
「落ちたのは、落ちた。それは変わらない。でも、嘘つかないで言えたのは、残るでしょ」
美優は答えなかった。ただ、お椀の底に残った汁を最後まで飲んだ。空になったお椀を置くと、割烹着の女性が、「おかわり、ありますよ」と声をかけてくれた。
「お願いします」
気づけば、そう言っていた。梨沙が、目を丸くして、それから、笑った。
「食べるじゃん」
「食べる」
二杯目の豚汁は一杯目よりも少しぬるくて、それでもおいしかった。店を出ると、夜の空気が顔に刺さった。梨沙は駅の改札の前で手を振った。
「また、ご飯行こう。今度は、美優の食べたいもの、聞くから」
「うん。ありがとう」
帰り道、美優は自分のお腹に手を当てた。久しぶりに、満腹という感覚があった。
一月の最後の週の月曜、ライフクリエイトから、年末の面接の結果のメールが届いた。
〈一次選考通過のご連絡〉
会社のデスクで見たとき、美優は思わず画面を伏せた。鼓動が、速くなった。周囲を見回す。誰も、こちらを見ていなかった。田中は、イヤホンをつけて、資料を作っていた。木村は電話に出ていた。
もう一度、画面を起こして、本文を読んだ。〈最終面接は、二月の第一週の水曜、十五時〉。通過、の二文字が、画面の中で光っていた。
夜、高橋に電話をかけた。通過を告げる前に、高橋のほうから言った。
「ご連絡が届いたんですね」
「はい。……ありがとうございます」
「おめでとうございます、と言いたいところですが、まだ、最終ですね。気を引き締めましょう。ただ、ここまで来られたのは、佐藤さんの力です」
「最終面接で何を聞かれるでしょうか」
「おそらく、これまでの経験の深掘りと、働き方への考え方、それから、他社の選考状況です。これまでの練習を思い出してください」
電話を切ったあと、美優はノートを広げた。ペン先が、紙の上で止まった。想定問答は、もうたくさんある。足りないのは、言葉ではなかった。信じる、ということだった。
最終面接の前日、美優はいつもより早く眠ろうとした。けれど、目を閉じても天井の木目が瞼の裏に残った。スマートフォンの画面の光で、手帳のページを開く。〈質問のメモ〉と書いたところに、三つの問いを並べた。
〈上司は、何時に帰るか〉。〈困ったとき、誰に言うか〉。〈入社後の一日の流れ〉。
一つずつ、声に出して読んだ。それから、手帳を閉じて、電気を消した。暗闇の中で頭の奥の鈍い痛みが遠くにあった。
当日は、雨だった。
朝、アパートのドアを開けると、廊下の手すりに水滴が並んでいた。傘を持って、外階段を降りる。駅へ向かう道のあちこちに、水たまりができていた。靴の先が濡れないように少しずつ避けて歩いた。
会社に着くと、いつもと変わらず、蛍光灯の白い光がフロアを満たしていた。美優は、午前の仕事を、予定通りに片づけた。昼前に鈴木部長の席の前に立つ。
「午後、半休をいただきます。理由欄は、〈私用〉で出しました」
「歯医者じゃなかったのか」
部長はキーボードから手を離して、椅子ごと、こちらを向いた。穏やかな声だった。穏やかだから、その分、重かった。
「先月の分の領収書もまだ、もらっていないな」
「……私用です。それ以上は、書きません」
嘘を重ねるのはやめよう。昨夜、そう決めた。部長はしばらく美優の顔を見てから、黙って承認の操作をした。
「その代わり、年度末の準備は遅れるなよ。君は、うちの背骨なんだから」
「はい」
背骨、という言葉が胸に静かに落ちた。以前なら、その言葉に背筋が伸びただろう。今日は、背中が冷たかった。
会社を出る前に、給湯室の前を通った。木村が、紙コップにお茶を注いでいた。目が合うと彼女は、手を上げた。
「いってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
雨の音が、廊下の窓を叩いていた。
ライフクリエイトのオフィスは、駅から歩いて五分の、新しいビルの八階にあった。エレベーターを降りると、すぐ目の前に受付の小さなカウンターがあった。そこに誰もいなくて、代わりにタブレットが置かれている。案内に従って、名前を入力し、担当者を呼び出した。
奥から、女性が一人、歩いてきた。画面の中で見た、森下だった。
「佐藤さん、はじめまして。いえ、二度目ですね。今日は、雨の中、ありがとうございます」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「タオル、使ってください。肩、少し濡れてますよ」
差し出された白いタオルを美優は受け取った。柔らかくて、洗剤の匂いがした。肩を拭きながら、ふと、五年前の入社式の日が、よぎった。あの日は、晴れていた。
通された会議室は小さな丸いテーブルがあるだけの、簡素な部屋だった。窓の外では、雨が、細い線になって降っている。森下の隣に、人事の男性が座っていた。
「では始めましょう。まず、佐藤さんから、今日の気持ちを、聞かせてもらえますか」
そんな質問は想定問答集にはなかった。美優は、一瞬、戸惑った。それから、正直に答えた。
「緊張しています。でも、来られて、うれしいです」
「それはよかった」
森下は柔らかく笑って、手元の資料を開いた。
「なぜ、転職を考えられたのですか」
練習してきた質問だった。美優は息を吸った。一度、紙のメモを見ずに森下の目を見る。
「今の職場では、担当者個人の頑張りに頼って、業務を回す場面が多くありました。私自身も、そうして働いてきました。ただ、五年後も、同じ熱量でお客様と向き合うためには、チームで見通しを共有しながら働ける環境が必要だと考えています」
森下は小さく頷いた。
「実績について、聞かせてください」
美優は商店街のイベントのことを話した。雨の日の告知、変更の連絡、メールの返信。〈雨の中、最後まで対応してくださって助かりました〉。そう書かれた、古いメールのこと。
人事の男性が、手を挙げた。
「他社の選考は、進んでいますか」
「いくつか受けましたが、現時点で、内定をいただいている会社はありません」
嘘ではなかった。不採用の通知はすでに届いている。ただ、内定はまだ一つもない。男性は、頷いて、メモを取った。
「では、最後に、私からです」
森下はペンを置いた。
「以前、後輩の方に、仕事を教えたことはありますか」
美優は、すぐには答えられなかった。木村の顔が浮かんだ。給湯室で、紙コップを持った指先が白かったこと。あのとき、自分が口にした、「もう少し頑張ろう」という言葉。そして、返ってきた、「慣れたくないです」。
「あります」
美優は答えた。
「ただ、私は、最初、支え方を間違えました」
森下の目がわずかに動いた。美優は、膝の上で指を一本ずつ、ほどいた。
「後輩が、限界かもしれない、と話してくれたとき、私はチームのためにもう少し頑張ろう、と言いました。指導する側の都合を優先して、本人の限界を、聞かなかったんです。それは、支えではありませんでした」
雨の音が窓の外で少し強くなった。
「そのあと業務量の確認と、相談の機会を、増やしました。彼女の担当を、一緒に見直しました。まだ、うまくできているとは言えません。それでも聞くことから、始め直しています」
言い終えて、美優は自分の声が震えていなかったことに、遅れて気がついた。用意してきた模範解答ではなかった。練習したどの答えにも、入っていなかった。
「失敗を話してくださって、ありがとうございます」
森下は言った。
「それは、教える側の人にとって、いちばん、話しにくいことです」
面接の最後に美優はメモを広げた。
「私からも、質問をさせていただいてよろしいでしょうか」
「もちろん」
「森下さんご自身は普段、何時ごろに帰られますか」
森下は人事の男性と一度、目を合わせてから、少し笑った。
「十八時半には、出ます。子どもの迎えがあるので。……と言いたいところですが、先月は三回、二十時を過ぎました。その翌日は、午後から来ました。上の人間が先にそうしないと誰も休めなくなるので」
美優は手帳に何も書かなかった。書かなくても、覚えていられると思った。
「ありがとうございます。それで、十分です」
美優は、冷たかった場所が温かくなるのを感じた。完璧だと言い切る相手より、直した跡を見せてくれる相手のほうが、ずっと信じられた。
会議室を出て、廊下に立つと、窓の外に雨の景色が広がっていた。ガラス一面が、灰色の水滴で曇っている。エレベーターを待ちながら、美優は自分の掌を見た。指先が震えていた。それでも、さっきまでの震えとは、違うものだった。
ビルの外に出ると、雨は小降りになっていた。傘を開く前に美優は、空を見上げた。
雲の厚い向こうに、薄く、白い光がにじんでいた。夕方の光だった。
結果が分かるのは、一週間後だと言われていた。スマートフォンを取り出すと、梨沙から、メッセージが入っていた。〈今日、頑張ってきた?〉。美優は、傘の下で、ゆっくりと文字を打った。
〈頑張ったというより、ちゃんと話してきた〉
送信して、歩き出した。濡れた舗道が、街灯の光を、細長く映している。雨上がりの冷たい空気に、湿った土の匂いが混じっていた。
帰りの電車で座席に腰を下ろしたとき、美優は最終面接の最後の質問を思い返した。答えは、誰かに教わったものではなかった。木村の顔が浮かんで、胸が痛んだ。それでも、その痛みは、逃げたいものではなかった。




