第三部 出口へ 第七章 鞄の中のスーツ
六階の共用トイレはエレベーターホールの奥にある。個室は二つだけで、奥のほうは換気扇の音が大きい。美優はいつの間にか、そちらを使うようになっていた。
昼休みの終わりかけ、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。画面に〈高橋健二〉と出ている。美優は鍵をかけ、蓋を閉じた便座に腰を下ろして、通話ボタンを押した。
「佐藤さん、いまお話しして大丈夫ですか」
「はい。……少しなら」
声が勝手に小さくなる。高橋は事情を察したように、いつもよりゆっくり話した。
「先方から日程の候補が来ました。来週の水曜、午後三時。あるいは翌週の金曜の夕方。水曜のほうが、先方の担当者が揃うそうです」
「水曜、で」
「半休は取れそうですか」
「取れる、と思います。理由は、考えます」
ドアの向こうで誰かが入ってきた。ヒールの音が、洗面台の前で止まる。水が流れる。美優は通話中の画面を伏せた。蛇口が閉まり、ハンドドライヤーの風の音が続き、ヒールの音は遠ざかっていった。
「すみません、人が」
「いいえ。急ぎませんから、落ち着いてからで大丈夫です」
受話口の向こうの声は、驚くほど平らだった。美優はスマートフォンを耳に当てたまま、個室の壁に貼られた〈トイレの使用後は清潔に〉の紙を見ていた。五年も通っていて、その紙に何が書いてあるのか、初めて読んだ。
通話を終えて水を流し、手を洗う。鏡の前で髪を直すふりをしながら、美優は自分の顔を見た。後ろめたいことは何もしていないのに、悪事のあとのような顔をしている。そう思ったとき、自分が何に怯えているのかが、分からなくなった。
席に戻ると、田中が顔を上げた。
「佐藤さん、顔色、悪くないですか」
「大丈夫。寝不足なだけ」
「あの、これ。さっき買ったんですけど、一個余ったので」
机の端に個包装のチョコレートが一つ置かれた。田中はそれ以上何も言わず、画面に目を戻した。美優は礼を言い、包みを開けずにペン立ての隣へ置いた。後ろめたさが、少し増えた。
夜になると、別の仕事が始まった。
終電に近い電車で帰り、コンビニの袋をテーブルに置く。中身はおにぎりが一つと、野菜ジュース。上着を椅子の背に掛けると、そのままノートパソコンを開いた。会社のパソコンではない、自宅の古いほうだ。起動するまでの間、ファンが唸る。
応募する会社の事業内容を、一社ずつ調べた。公式サイトの沿革、代表のあいさつ、過去のニュースリリース。求人票に書かれていない部分を探すように、社員紹介のページまで目を通す。笑顔の写真の背景に、時計が写り込んでいないか探している自分に気づいて、美優は笑った。
想定問答集は、Wordの白い画面に、箇条書きで増えていった。なぜ転職か。なぜ当社か。強みは。失敗した経験は。五年後は。高橋に教わった通り、質問の下に三行ずつ答えを書く。一行目は結論、二行目は根拠、三行目は具体的な出来事。
〈なぜ転職か〉の下に、美優は何度も書いては消した。〈キャリアアップのため〉。それは嘘ではない。けれど、本当のことの全部でもなかった。カーソルが点滅している。消すたびに、画面の端の時刻が進んでいく。二時四分。
缶コーヒーの飲み口に、唇が触れた。冷えて、苦いだけの液体だった。それでも飲めば、瞼が上がる。上がった瞼で画面を見て、また一行書く。カフェインだけが、意識を机の前に繋ぎとめていた。
机の端には、宮下のメモが置いたままになっている。紙の端が、パソコンの排熱で少し反っていた。〈真面目な人から先に壊れるから、気をつけて〉。その文字が視界に入るたびに、美優は目を逸らし、また戻した。
翌朝、目覚ましが鳴ったとき、美優は自分がどこにいるのか、一瞬分からなかった。窓の外は、まだ灰色だった。三時間も寝ていない。洗面所で顔を洗うと、水が冷たすぎて、指先の感覚が遠くなった。
水曜の半休を申請したのは、その日の午前だった。勤怠システムの画面で、日付と〈午後休〉を選び、理由の欄にカーソルを置く。空欄のままでは送れない。
〈私用〉と打ち、少し迷って、消した。この会社では、私用と書いた申請がそのまま通ったことがない。
結局、直接話すことにした。部長の席の前に立つと、鈴木部長はキーボードから手を離さずに、目だけを上げた。
「何だ」
「来週の水曜、午後に半休をいただきたいのですが。通院の予定がありまして」
「通院」
部長はその言葉を舌の上で確かめるように繰り返した。
「歯医者か」
「……はい」
否定しなかった。歯医者です、とも言わなかった。ただ頷いただけなのに、喉の奥が熱くなった。
「水曜は、客先の最終確認が午後にあっただろう。時間は動かせないのか」
「確認は午前中に終わらせます。資料は前日までに仕上げて、田中さんに共有しておきます」
部長はしばらく美優の顔を見ていた。それから、画面に視線を戻した。
「臨機応変にな。歯の治療なんかより、先にやることがあるだろうとは思うが。まあ、承認しておく」
「ありがとうございます」
席に戻ると、承認済みの画面が出ていた。美優はそれを保存し、スクリーンショットまで撮った。何のためなのかは分からない。ただ、手が勝手に動いた。
面接の週は、月曜と火曜の二日間で通常の三日分の仕事を片づけた。午前の確認資料を前日の深夜に仕上げ、共有フォルダに入れ、田中に〈明日の午前、これ見ておいてもらえると助かります〉と送る。数分後、〈了解です〉と返事が来た。その短い言葉に、美優は救われたような気がして、同時に救われてしまう自分が情けなかった。
危なかったのは、火曜の夜だ。
フロアに残っているのは四人ほどで、美優は応募先から届いたメールの返信を、ブラウザの片隅の小さなウィンドウで書いていた。件名は〈面接日程のご案内〉。本文に、会社名と、水曜十五時、という文字が見える。
背後で、床がきしんだ。
美優は振り返らなかった。振り返らなくても、誰か分かった。粘着質な空気が、首の後ろにまとわりつく。マウスを握る手が、冷たくなっていく。
「佐藤さん」
「はい」
「来週の入稿予定の、確認シートはできているか」
「できています。いま、共有します」
声は自分でも驚くほど普通に出た。右手の人差し指が、キーボードのAltを押し、Tabを押す。画面が切り替わり、確認シートの表が現れた。切り替わる瞬間、メールのウィンドウは、タスクバーの奥に沈んだ。
部長は画面を覗き込んだ。香水ではない、洗剤でもない、乾いた紙のような匂いがする。
「ここの数字、昨日と違うな」
「先方から、修正が入ったので」
「そうか。……スピード感だぞ、スピード感」
部長はそう言い残して、離れていった。足音が遠ざかり、奥の席の椅子が鳴る。美優はしばらく、画面の数字を見つめたまま動けなかった。心臓の音が、耳の内側で鳴っていた。
タスクバーの奥に沈んだ小さなウィンドウを、もう一度開く勇気は出なかった。返信は、帰りの電車の中でスマートフォンから打った。送信ボタンを押す指が、震えていた。
水曜の朝は、よく晴れていた。冬の空気は乾いていて、駅までの道の途中で吐く息が白く見えた。美優は、いつもの黒いコートの下に、紙袋を一つ提げていた。中には、クローゼットの奥から出したスーツと、白いシャツと、黒いパンプスが入っている。
面接用のスーツは、新卒の就活のときに買ったものだった。袋から出したとき、ハンガーの肩に薄く埃が積もっていて、美優はそれを指で払った。就職活動で落ち続けた頃の自分が、このスーツを着て、何十回も説明会に通った。結局、袖を通した最後の日は、鈴木部長に「期待してるぞ」と言われた入社式の日だった。
午前の確認は、予定通りに終わった。客先は落ち着いていて、数字の差し替えも一件だけだった。会社に戻って席を片づけ、モニターをロックし、立ち上がる。
「では、お先に失礼します。午後は休みをいただきます」
「ああ」
部長は顔も上げなかった。〈スピードは信頼〉の紙が、斜めに視線の隅に入った。ドアを押して廊下に出ると、背中のほうで空気が閉じる音がした。
エレベーターの中で、美優は初めて、自分が息をしていることを思い出した。
新宿駅の構内で、いちばん奥にあるトイレに入った。鏡の前の台に、紙袋を置く。コートを脱ぎ、シャツを替え、スカートに脚を通す。ジャケットを羽織って、ボタンを留めようとして、指が止まった。
ウエストが、少し余っている。
五年前は、きついくらいだった。ホックを留めて、腰骨の辺りに手を当てた。ブラウスの上から触れた体の輪郭が、思っていたより薄い。最後に体重を量ったのがいつだったか、思い出せなかった。
ジャケットの肩だけが、記憶の中の形のまま、硬く張っている。美優は洗面台の鏡に向かって、襟を直した。後ろに並んだ女性が、咳払いをした。慌てて場所を空け、荷物をまとめる。コートを腕に掛け、仕事用の黒いバッグはコインロッカーに入れた。百円玉が、がたんと落ちる音がした。
改札へ向かう通路の途中、スマートフォンが震えた。木村からだった。
〈昨日の案件の件、部長に何か言われたら私が説明します〉
美優は立ち止まって、柱の脇に寄った。人の波が、左右に割れていく。木村のアイコンは、海辺の朝の写真だった。ポスターではない。たぶん、実際に撮った海だ。
〈ありがとう。でも無理はしないで〉
送信してから、続けてもう一通、打とうとした。今日、何のために半休を取ったのか。打ちかけて、消した。伝えたら木村はきっと、隠さなくていいと言うだろう。それでも言えなかった。木村を巻き込みたくない、という気持ちの下にもうひとつ、置き去りにしてしまう後ろめたさが隠れていた。
地下鉄の車内は、昼下がりの静けさだった。向かいの席の会社員は、スーツの袖口から時計をのぞかせて眠っていた。美優はつり革につかまって、ドアの上の路線図を眺めた。降りる駅までは、七つ。想定問答集のメモは、ロッカーに預けたバッグの中だ。読み返したくても、もう手が届かない。代わりに、頭の中で最初の一行を唱える。
〈御社の、お客様の課題に合わせて提案を組み立てる姿勢に、共感しました〉
そこで詰まった。次の一行が出てこない。車窓の黒い壁に、自分の顔が映った。口が少し開いていた。慌てて閉じた。
受付のある階は、白い壁と、淡い色の木目の床で整えられていた。女性スタッフに名前を告げ、案内された待合室の椅子に座る。観葉植物の葉が、エアコンの風で小さく揺れていた。
先客が二人いた。一人は、美優と同じくらいの年の男性で、膝の上に薄い革のファイルを開いている。もう一人は、少し年上に見える女性だった。黒い靴はきれいに磨かれていて、爪先に天井の照明が点のように映っていた。
美優は彼らの経歴を、勝手に想像した。きっと大手の出身で、きっと実績の数字が美優よりずっと大きい。さっきまで頭の中で唱えていた一行が、すうっと薄くなる。靴の先を、後ろへ引いた。ヒールの擦り減った踵が、見えないように。
壁の時計の秒針は、動いていた。受付のほうから、誰かの笑い声が聞こえた。短く、軽い笑い声だった。仕事の合間に、誰かが何かを面白がっている。美優はその音を、不思議なもののように聞いた。アド・ヴァンスの六階では、笑い声が起きるたびに、誰かが周囲を見回す。聞こえてはいけない音のように。
膝の上で、手のひらが湿っている。ハンカチで拭いて、また握った。
先に、男性が呼ばれた。次に、女性。部屋の扉が開閉するたびに、淡い光が廊下に漏れた。一人で座っていると、時間の流れが自分の鼓動と同じ速さになる。
美優はスマートフォンを取り出して、高橋からのメッセージをもう一度開いた。昨夜のうちに届いていた。
〈明日の面接は、相手が佐藤さんを選ぶ場であると同時に、佐藤さんが相手を見る場でもあります。合わなければ、合わないことが分かるだけで、十分な収穫です。応援しています〉
読み終えて、画面を伏せた。深呼吸を一つ。吸った空気は、乾いたコーヒーの匂いがした。
「佐藤さん、どうぞ」
名前を呼ばれて、立ち上がった。足が少しふわりとして、床がやわらかく感じる。扉の取っ手に手をかけたとき、美優は高橋の言葉を、もう一度思い出した。選ばれる場であり、見る場でもある。
心臓の音は、少しも小さくならなかった。それでも、扉は開いて、椅子に座ることはできた。
面接の四十分間のことを、美優はあとから、断片でしか思い出せなかった。長机の向こうで、面接官が名刺をそろえる指先。窓の外の、低く落ちた冬の陽。自分の声が、思っていたより低く響いたこと。何か質問されて、何か答えた。答えながら、話している自分を少し離れたところから見ていた。
終わりの挨拶をして、深く頭を下げた。扉を閉めた途端、膝から力が抜けそうになった。廊下の壁に手をつき、数秒そのまま立っていた。
エレベーターを降り、ビルの外に出た。地下鉄の入口の階段へ、足が向かう。降りる前に、一度だけ、空を見上げた。
西の低いところが、薄い橙色に染まっていた。その上に、淡い水色が重なり、さらに上へ向かって、少しずつ藍が混じっていく。細い雲が、一本、横に流れていた。まだ午後五時には少し早い。けれど冬の太陽は、とうに下りかけている。
ビルとビルの間にこんなに広い空が残っていたことを、美優は知らなかった。いや、知っていたのに忘れていた、というほうが正しい。ずっと窓に背を向けた席で、蛍光灯の下にいたから。
街は慌ただしかった。信号が変わるたびに、人が流れていく。スマートフォンを耳に当てて歩く人、紙袋を提げた人、足を速める会社員。誰もが仕事に戻るか、次の約束へ急いでいた。美優も、会社に戻るつもりでいた。午後休は承認されていたのに、溜まった案件を思うと帰宅することができなかった。
ほんの数秒だけ、立ち止まった。冷たい風が、頬を撫でていった。鼻の奥がつんとして、目の縁が熱くなった。泣いているのとは、少し違った。ただ、空の色が、きれいだった。
階段を降りて、改札を抜けた。ホームの柱の陰で、スーツのジャケットを脱いで丸め、コートの下に隠した。
新宿に戻って、駅のトイレでもう一度着替えた。白いシャツの上に、会社用の紺のカーディガンを羽織る。パンプスをいつもの靴に履き替え、スーツ一式を紙袋に畳み入れて、ロッカーに預ける。さっきまでの自分が、袋の中に折りたたまれていく。最後にロッカーの扉を閉めて、鍵をかけたとき、美優は、泣きたい気持ちになった。
エレベーターで六階へ上がる。ドアを開けると、蛍光灯の白い光と、キーボードの音がいつもの顔で迎えた。
自席に座った。モニターのロックを解除すると、メールの受信箱の未読が、赤い数字で三十を超えていた。三十二。画面の端が、にじんだ。胸が、ぎゅっと締めつけられる。
全部に、今すぐ返さなければ。そう思いかけて、美優は指を止めた。
一度、深く息を吐く。ブラウザのタブを閉じ、受信箱の表示を、送信者別に並べ替えた。それから、一通ずつ、件名と冒頭の一行だけを読んでいった。
クライアントからの、明日午前までの修正依頼。制作会社からの、納期確認。部長からの、〈念のため確認〉。それから、社内の共有メールが十数通。請求書の締め日の通知。外部のセミナーの案内。
今すぐ必要な対応は、三件だった。
残りは、今日中でなくていいものと、見るだけでいいもの、そして、自分が持たなくていいもの。そう分けて、順に印をつけた。三件に返信を打ち、残りは明日の午前に回す。
そのとき、背後で椅子が鳴った。
「歯医者は終わったのか」
鈴木部長だった。美優は、振り返った。目が合う。部長の目は、疑ってはいなかった。ただ、確かめるように、静かに見ていた。
「はい。終わりました」
「歯はもういいのか」
「……はい。大丈夫です」
「そうか」
部長はそれ以上、何も言わなかった。去っていく足音を聞きながら、美優は自分の手元を見た。三件の返信は、もう送信済みの欄に移っていた。
今は、ただ、三件だけ片づけた、という事実が机の上に置かれていた。
その週の後半から、面接の予定が立て続けに入った。水曜の対面面接の次は、翌週の火曜の夜に別の会社。その二日後には、ライフクリエイトのオンライン一次面接が入った。高橋が調整してくれた日程は、どれも美優が断る理由を見つけられないものばかりだった。見つけたくなかったのかもしれない。
夜は応募書類の手直しに使った。会社ごとに志望動機の言葉を変え、職務経歴書の一行を入れ替える。同じ経験なのに、並べる順序が違うだけで、別の人の経歴に見えた。パソコンの画面には、開いたままのファイルが七つ並んでいた。
忘年会は、十二月の第三木曜だった。幹事の美優は誰よりも早く新宿の居酒屋に入り、座敷の席札を並べ、人数を数え直した。木村の出欠欄はいつのまにか〈検討中〉から〈出席〉に変わっていた。丸の形が、少し小さかった。
乾杯から三十分で、部長は上機嫌になった。「若い者は遠慮するな」と笑いながら木村のグラスに酒を注ぎ、木村は笑顔のまま、注がれた分を飲んだ。座敷の端からそれを見ていた美優は、会費の入った封筒を握ったまま、立ち上がれなかった。
二次会へ流れる人の列の後ろで、美優は木村の袖を軽く引いた。「終電、まだあるよ。帰ろう」。木村は一瞬驚いた顔をして、それから小さく頷いた。幹事なのに、と誰かが言った。精算は明日やります、と美優は答えた。そう口にしただけで、足が少し軽くなった。
十二月の終わりが近づくにつれ、会社は年末の入稿ラッシュに入っていった。昼食を取る時間は、なくなった。デスクで食べるのではなく、そもそも食べなかった。三時を過ぎたころに、机の上の個包装のチョコレートを思い出す。包みを開けて、口に入れる。甘さは舌の上だけで消えて、胃までは届かなかった。
夜の一時を過ぎて帰宅した金曜、美優は玄関の鍵を閉めた途端、座り込んだ。
コートも脱がないまま、廊下の床に背中を預ける。蛍光灯のスイッチまで、手が届かない。足の裏が、じんじんと熱い。靴を脱いだのだけは覚えている。
テーブルの上に、広げっぱなしの応募書類があった。美優は這うようにして近づき、椅子に座ってパソコンを開いた。画面が明るくなる。志望動機の欄に、点滅するカーソル。そこに、一文字も打てなかった。
そのとき、何も起きていないのに、涙が出た。
理由は、思いつかなかった。悲しいことがあったわけではない。誰かに何かを言われたわけでもない。ただ、画面の白い余白を見ていたら、目の奥から熱いものがあふれて、頬を伝い、キーボードの上に落ちた。拭っても、拭っても、止まらなかった。
頑張れば、未来が開けると信じたい。頑張っている先に、あの待合室で聞いた笑い声のような場所があると信じたい。けれど、身体はすでに、別のことを言っていた。肩が重い。耳の奥で、細い音が鳴っている。指先が冷たい。胃は、空っぽのはずなのに重たい石のようだった。
目的のある疲れだと、あの日、美優は自分に言い聞かせた。未来のための、価値のある疲れだと。けれど、身体はその区別をしてくれない。疲れは疲れとして、同じ重さで美優の中に積もっていく。
ノートパソコンを閉じて、机に額を押し当てた。木の表面は冷たかった。しばらくそのままでいると、少し呼吸が楽になった。立ち上がって、台所で水を一杯、飲んだ。コップの縁に歯が当たって、かたかたと小さく鳴った。
翌朝は、土曜だった。本当は、休めるはずの日だ。けれど、目が覚めたのはいつもと同じ朝六時だった。洗面所の鏡の前に立つと、視界の端がふっと暗くなった。慌てて洗面台の縁をつかむ。足元の床が、遠くなる。美優はそのまま、膝を折って、しゃがみ込んだ。
冷たいタイルが、膝に当たった。目を閉じて、数を数える。五つ数えたところで、暗さが引いていった。
立ち上がって、もう一度、鏡を見た。映っているのは、自分の顔だった。唇の色が、薄い。コンシーラーの小さな容器が、洗面台の隅に置かれたままになっていた。蓋を開けて、目の下に指でのせる。指先の温度が、肌に移らなかった。
〈今日は、面接を一つ、キャンセルしてもらうことは、できますか〉
そこまで打って、送信ボタンの上で指が止まった。申し訳ない。せっかく高橋さんが、紹介してくれたのに。そう思った。夜のうちに考えた方がいい、とも思った。送らないまま、スマートフォンを置いて、朝のコーヒーを淹れた。
しばらくして、梨沙から〈おはよう。今日は暇?〉と来た。美優は〈ごめん、寝てた〉と返した。〈生きてる?〉〈生きてる〉〈ならよし〉。短いやり取りだったのに、肩の力が抜けた。
先月の再診では、眠れない夜が続いていることを医師に伝えていた。休養も選択肢だと言われたが、収入と仕事の引き継ぎを考えると、すぐには決められなかった。今週も診察の予約を入れた。日曜の夜、もう一度、高橋にメッセージを書いた。今度は、消さなかった。
〈少し活動を緩めたいです。面接が続いて、体がついていかなくなっています〉
送信してから、すぐに後悔した。画面を伏せて、スマートフォンを、部屋の反対側のソファに投げた。布の上で、スマートフォンが跳ねた。せっかく紹介してもらったのに。ここで止めたら、もう二度と動けなくなるのではないか。ぐるぐると、同じ考えが回った。
返信は、数分で届いた。
〈承知しました。まず健康を優先しましょう。応募先への調整は私から行います。佐藤さんは、今日はゆっくり休んでください〉
続けて、もう一通。
〈明日の朝、一緒に予定を組み直しましょう〉
美優は画面を何度も読み返した。〈一緒に〉の二文字を、指でなぞるようにして、スマートフォンの画面を撫でた。ソファの上で、膝を抱える。涙が出たけれど、さっきまでの涙とは少し違っていた。
翌朝の電話で、高橋は日程の表を画面に出しながら、一つずつ聞いた。
「残したい予定は、どれですか」
「……一つだけなら。木曜の夕方の、オンラインのものを」
「ではそれだけ残しましょう。他の三件は、私のほうで先方に延期のお願いをします。理由は、日程の都合、とだけ伝えます」
「すみません、勝手を言って」
「勝手ではありません。佐藤さんの体の話です」
高橋は一拍置いた。
「私は、健康の専門家ではありません。だから、どのくらい休むべきかを、私が決めることはできません。ただ、いまの佐藤さんの話し方は、先月とは少し違います。疲れていることが、声から伝わってきます。それは、私が心配する理由として、十分です」
美優は返事をしなかった。スマートフォンを握る手に、少し力が入った。
「延期は、いつでもできます」
「……はい」
その日は予定していた木曜の一件だけを残して、他の面談を延期した。会社の席に座ったまま、美優は胸の硬い塊が少しゆるんだのを感じていた。
帰りの電車は、珍しく座れた。窓に頭を預けて、ガラスの向こうを流れていく夜景を見る。ビルの窓に、光が整列していた。その光の一つ一つの中に、誰かがまだ机に向かっているのだろう。その中の一つに、少し前の自分もいた。
電車の揺れの中で、進まない日があっても、転職活動が失敗になるわけではない、と思った。
駅前のスーパーは、閉店の三十分前だった。値引きのシールを貼られた総菜の棚の前に、仕事帰りの人たちが黙って並んでいる。美優は、野菜のコーナーで立ち止まった。半額のシールが貼られた、白菜と、にんじんと、ねぎ。それぞれを一つずつ、かごに入れた。
重さが、腕にかかった。
レジの女性が、シールのバーコードを、ぴ、ぴ、と読み取っていく。「三点で、二百十二円です」。数字を言う声が、思ったより優しかった。
アパートに着くと、コートを脱いで手を洗った。鍋に水を張って、火にかける。まな板の上で、にんじんを細く切る。白菜は手でちぎった。包丁を持つ手が、いつもより少し丁寧に動いた。
湯が沸く音がした。鍋の底から、小さな泡が立ちのぼって、湯気になった。味噌を溶く。菜箸で、鍋の底をかき混ぜる。出汁の匂いが、部屋に広がった。母の台所と、同じ匂いだった。
お椀によそって、テーブルに置く。立ったまま一口すすると、熱いものが喉から胸へ落ちていった。体の内側に、温度の通る道があることを、思い出した。
今日の自分が、できたことを、数えてみる。予定を一つ減らしたこと。延期の連絡をしてもらえるよう、頼めたこと。そして、半額の野菜を買って、味噌汁を作れたこと。
誰に見せるわけでもない、小さな三つだった。それでも、指を折って数えながら、美優は笑った。
湯気が、窓ガラスを曇らせていた。外の街の光が、そのせいでにじんで見えた。美優は椅子に座って、お椀を持ち上げた。




