第六章 新しい世界への地図
「職務経歴書、拝見しました。一行目がとてもいいですね」
月曜の昼休み、コワーキングスペースの個室で、美優はノートパソコンの画面越しに高橋と向き合っていた。一時間しかない昼の休みを十分前から、ここで待っていた。壁の薄い個室で、隣のブースのキーボードの音がかすかに聞こえている。
「ありがとうございます。まだ、直したいところがあるんですが」
「直しながら使う書類です。今の段階では、これで十分、人に見せられます」
高橋はそう言って、手元の資料をゆっくりめくった。美優は、これから求人の一覧が出てくるのだろうと思っていた。ところが高橋は画面に何も共有せず、顔を上げて言った。
「その前に、一つだけ、聞かせてください。次の会社に、佐藤さんは何を求めますか」
「何をですか」
「前に白紙の用紙に書いていただいた、〈次の職場で大切にしたいこと〉。あの三つを、覚えていますか」
覚えていた。前回、時間をかけて、ようやく三つだけ書けた言葉だ。美優は鞄から、折りたたんだ紙を取り出した。罫線の上に小さな字が並んでいる。〈怒鳴られない〉。〈人格を、否定されない〉。〈誰かの役に立ったと感じられる〉。その上に、最初の面談で書いた〈夜に眠れること〉が、少し震えた字で残っている。
読み上げると声が、細くなった。
「この四つを、求人票で確認できる質問にしましょう」と高橋が言った。
「会社の側から、ですか」
「残業時間は数字で確認できます。上司やチームのことは、面接で具体的な場面を尋ねるのがよさそうです」
美優は紙の余白に〈制度より、実際の運用〉と書いた。
「四つのうち、一番先に確かめたいのは何ですか」
「夜、眠れることです」美優は答えてから、求人票を受け取るためのメールを開いた。
「それと、お伝えしておきたいんですが」
高橋は姿勢を正した。
「紹介する立場として、先にお伝えしておきたいことがあります」
「はい」
「正直に言うと四枚目は他社さんの紹介も入りやすい求人です。決まるなら早いほうがいい、というのが私の立場からの本音です。……いまのは、聞かなかったことにしてください」
高橋は早口になって、咳払いをした。美優は思わず笑いそうになった。美優は「聞きました」と答えた。高橋は困ったように笑い、四枚の求人票の説明を始めた。
「そのうえで、今日、四つの会社をお送りします。有名な会社ではありません。中堅のテック企業や、事業会社が中心です。職種は佐藤さんの経歴が活かせる、広報、マーケティングのコーディネーターなどです」
話しているあいだにメールの通知が画面に出た。件名は、〈ご紹介企業の求人票(四社)〉。添付ファイルが四つ並んでいる。美優は、昼休みの残りが十五分になっているのを確かめて、パソコンを閉じた。
その夜は、会社から、いつもより一時間早く出ることができた。部長が外出していたからだ。一時間早い、といっても時刻はもう二十二時を過ぎている。それでも夜の空気は、いつもより、わずかに軽かった。
駅前のコンビニで四枚の求人票を印刷した。カラーコピー機の、緑色の光が紙の上を往復する。出てきた紙は、まだ温かかった。四枚を持つと思っていたよりもずしりと重かった。
アパートに戻って、ちゃぶ台の上に四枚を並べた。蛍光ペンと、付箋とほうじ茶。電気は、天井のものではなく、机のスタンドだけにした。そのほうが紙の字が、はっきり見えた。
一枚目は、広告のデジタル運用を請け負う、成長中の会社だった。給与欄の数字は今の自分の額よりもはるかに高い。ただ、その下に、小さな字で、〈基本給+成果報酬(月ごとの達成度に応じる)〉と書かれている。成果報酬の割合を電卓で計算してみた。給与の、三割以上を占めていた。
〈成果が出なければ、この数字には届かない〉
美優は付箋にそう書いて、一枚目の端に貼った。成果を出すために、何時間働くのだろう。夜の会議室の蛍光灯が頭をよぎった。
二枚目は、仕事内容が魅力的だった。地域の飲食店や、小さな店舗の、広報を支援する事業。商店街のパン屋の笑い声がふいに思い出された。勤務時間の欄を探したが、〈フレックス制〉とだけ書かれ、実際の拘束時間や、残業の目安がどこにも見当たらなかった。
〈時間の説明が、ない〉
付箋の色は黄色から、桃色に変えた。気になる点は桃色にする、と決めた。
三枚目の求人票で、美優の手が止まった。
〈私たちは、家族のような職場です〉
大きな文字が上のほうにゴシック体で並んでいた。社員旅行の写真。笑顔でピースサインをした男女。一番下には、〈アットホームな雰囲気で困ったときは助け合います〉。
五年前、採用通知を待ちながら「家族のように」という募集文を見て安心したことがある。美優は、写真の下にある勤務時間の欄を探した。
今は少し違うものが見えた。家族なら、どこまで、我慢することになるのだろう。家族なら、辞めたいと言うのにどれほどの覚悟が要るのだろう。休むことを、「迷惑」ではなく、「裏切り」と呼ぶことはないだろうか。
桃色の付箋を、一枚、貼った。
〈家族、とは何を指すのか〉
最後の一枚は、地域の小売店向けに予約管理と販促支援のサービスを提供するライフクリエイトだった。中堅のテック企業で、募集職種はマーケティングコーディネーター。〈顧客の声を聞き取り、施策に反映する〉という仕事内容に、かつて商店街のパン屋で聞いた店主の話が重なった。
その下の、勤務条件の欄に美優は目を落とした。
〈所定労働時間 九時〜十七時〉
〈月平均残業時間 約十時間〉
十時間、という数字を、美優は指でなぞった。自分の月間残業の、十分の一だった。数字が、本当にそのとおりなら。
「本当、かな」
声に出して、呟いていた。独り言が、狭い部屋に響いた。
蛍光ペンは、その行に引かなかった。代わりに付箋を、一枚貼った。色は黄色でも桃色でもなく、手帳に挟んであった、白い無地のものにした。
〈確認する〉
水曜の夜、高橋との短い面談で美優は四枚の求人票を、画面に向けて掲げた。付箋だらけの紙が、カメラの前で少し揺れた。
「全部、読み込んでくださったんですね」
「はい。それであの、四枚目の、残業が月に十時間というところが……本当でしょうか」
自分でも失礼な質問だと思った。紹介してくれた人の前で、紹介された会社を疑っている。けれど高橋は、頷いて、すぐに、「いい質問です」と言った。
「平均値が部署や繁忙期と同じとは限りません。現場の実態を聞いてみましょう」
「確認って、どうやるんですか」
「面接で聞く方法があります。希望するなら、現場社員との面談も打診できます」
美優は手帳の新しいページを開いた。〈確認すること〉と、上に書く。
美優は〈繁忙期の残業〉〈欠員が出た日〉〈有給を取るとき〉と、質問を三つ書いた。
書きながら、美優は、ペン先が少しずつ重くなるのを感じていた。それは不安というより、慣れない動作に手首がついていかない感覚に近かった。
「あの」
「はい」
「私がこういうことを聞くと、わがままだと思われませんか」
画面の向こうで高橋は少し黙った。それから、言葉を一つずつ、置くように答えた。
「その質問への答え方も、ひとつの材料になります」
美優は〈その部署では、先月いちばん遅かった日は何時でしたか〉と書き足した。
「まず、これを聞きます」
「分かりました。では先方へ確認します」
通話を切ったあと美優は手帳のページに並んだ質問を、小さな声で読み上げてみた。声に出すと言いにくい質問がいくつかあった。〈繁忙期は、どのくらい、忙しくなりますか〉。〈有給休暇は実際に、どのくらい取られていますか〉。
最後に、〈家族のような職場、とは具体的にどういう意味ですか〉と書き足した。
その質問は、次の面談で、高橋と一緒に直した。
「この聞き方だと、相手が構えてしまうかもしれません。何を知りたくて書いたのか、言い直してみてください」
美優は手帳の質問を眺めて、しばらく考えた。〈家族のような職場〉。自分は、何を知りたかったのだろう。
「……家族のようかどうかじゃなくて、困ったとき、実際に誰かが助けてくれるのかを、知りたいんだと思います」
「その聞き方なら、具体的な経験を聞けますね」
美優は鉛筆で質問を書き直した。〈家族のような職場〉の項目の横には、〈社員同士の関係で困ったとき、どう助け合っていますか。実際の例を〉と書いた。
書き終えたとき、肩がゆるんだ。質問を書くことは、答えを待つことだ。待つ間は少なくとも、誰かに命令されて動くのではない。
翌朝の会社は冷え込んでいた。十二月に入って、フロアの空調が効きすぎるほど効いているのに、窓際だけがひやりとしている。
美優は、朝一番の会議資料を、プリンターから取ってきて、席に戻る途中だった。窓際で木村が、立ち止まっていた。両手で紙コップを包んでいる。
「佐藤さん」
「うん」
「外、きれいですよ」
言われて、美優は足を止めた。窓の外の、ビルとビルの隙間に細い空が見えた。夜のあいだに雨が降ったのか、空気が洗われたように透明で、薄い水色の底に一筋の雲が白く伸びている。
木村のポスターの、水平線の光に似ていた。
「ほんとだ」
「最近、毎朝、見てるんです。ここから見ると五分くらい、きれいなんですよ。そのあと、向かいのビルの影になって、見えなくなって」
「毎朝、五分」
「はい。それだけで今日、もう少しやれるかなって、思えるんです」
木村はそう言って、笑った。紙コップの湯気が、頬のあたりで揺れている。美優は何か言おうとして、言葉が出てこなかった。五分間のきれいな空を、毎朝、自分で見つけて、ここに立つ後輩。
「佐藤さん、今、いい?」
背後から、声がかかった。柔らかい、粘着質の声だった。鈴木部長が、書類を片手に立っていた。笑っていない目で窓の外を、一瞬だけ、見たように思えた。
「はい、すぐに」
「午前中に先週の件の、修正をね。スピード感を持って、頼むよ」
席へ戻る足がいつもより少し、重かった。窓に背を向けて、椅子に座る。背中のほうにさっきの空がまだ、あるはずだった。振り返れば、見える。
自分が、本当に望んでいるのは報酬の額でも仕事の肩書きでもないのかもしれない。誰の許可もなく、窓の外の空を、眺められること。
修正の指示をメモに取る。ボールペンの先が、紙の上で細かく震えていた。
その週の木曜、日付が変わる前に帰宅できた美優は母に電話をかけた。コートも脱がないまま、玄関の床に座り込んで、通話ボタンを押した。
呼び出し音が三回鳴って、「はい」という、聞き慣れた声が出た。台所の水の音が、背後でかすかにしている。
「ごめん、遅くに。洗い物の途中だった?」
「いいのよ。もう、終わるところ。どうしたの、こんな時間に」
「あのね。まだ、決めたわけじゃないんだけど、会社を探してて」
言ってから、口をつぐんだ。母が、どんな反応をするのか、分からなかった。水の音が止まった。
「そう」
短い言葉だった。責める調子も、驚く調子もなかった。美優は靴を履いたままの足先を、じっと見つめた。
「いろいろ、求人を見てるの。給料とか、場所とか、仕事の内容とか。でも何を基準に選んだらいいのか、分からなくなってきて。お母さんは、どんな会社がいいと思う」
母はすぐには答えなかった。電話口で椅子を引く音がした。座ったのだろう。
「そうねえ。お給料も、必要だけど」
「うん」
「たまには夕飯を、ゆっくり、一緒に食べられる会社がいいわね」
美優は思わず、笑ってしまった。玄関の暗がりで肩が、小さく揺れた。
「東京と実家じゃ、平日は無理だよ」
「それはそうね」母もくすりと笑った。「でも電話で、今日あったことを話せる時間くらいは、あってほしいわ。あなた、このごろ、電話するといつも疲れた声でしょう。話す元気が、残ってないんじゃないかって、思うの」
痛いところを押された感じがした。母の言うことは、ほんとうだった。ここしばらく、電話をするときはいつも壁にもたれて、息を整えてから、通話ボタンを押していた。
母の願いは拍子抜けするほど小さい。広い家も、高い給料も、肩書きもない。ただ、夕飯の時間に一日のことを話せるくらいの余裕があること。けれど、その小さなことさえ、今の美優は満たせていなかった。
「今日ね、パン屋さんの、夢を見たの。昔、広告をつくった、あのパン屋さん」
「ああ、あなたが初めて、担当したお店ね」
「うん。店主さんが、焼きたてのクリームパンを割ってくれて」
「いいお店だったのね」
「うん。撮影の日、何度も、笑っちゃった」
話しているうちに美優は立ち上がることを忘れていた。コートの肩が玄関の冷気で冷たくなっていた。けれど、電話の向こうの台所の気配のほうが、ずっと暖かかった。
「ちゃんと食べることだけは、忘れないでね」
「うん。分かってる」
通話を切ったとき、床の冷たさをようやく、お尻に感じた。美優は靴を脱いで、部屋に上がり、電気をつけた。冷蔵庫には、卵が二つ入っているだけだった。コンビニで買った、小さなおにぎりを立ったまま、半分だけ食べた。
十二月の第二週に、ライフクリエイトから、返事が来た。
高橋が会社に、カジュアル面談の可否を尋ねてくれていたのだった。選考とは、別枠で現場の社員と、三十分ほど話す機会。会社側はあっさり、応じてくれたという。
「応じていただけたこと自体は、良い印象を、持っていいと思います」
高橋はそう言ったあとすぐに付け加えた。
「ただ、それだけで、判断しないでください。お会いして、ご自身の感覚で確かめてください」
日時は水曜日の昼十二時半。美優はその日の昼休みを、いつもより早く始める許可を取らなければならなかった。「歯医者の予約です」と、午前中に部長に伝えた。嘘をつくのは、簡単だった。簡単だということが少し悲しかった。
コワーキングの個室で、ノートパソコンを開く。画面に会議室の背景が映り、その前に一人の女性が現れた。
「はじめまして、若林と申します。マーケティングコーディネーターを、四年やっています。今日は、肩の力を抜いて、いろいろ聞いてください」
三十代前半だろうか。ベージュのカーディガンに短めの髪。机の上に、マグカップと小さな観葉植物の鉢が置かれている。美優は、緊張した手で手帳を開いた。
最初のほうは、仕事の内容の話だった。若林は普段、どんなお客様と、どんな連絡をしているのか、実際の画面を見せながら、説明してくれた。顧客の声をまとめた資料。それを元にした、施策の提案書。社内の別部署に声を届ける役割。
「お客様の声を、拾って、社内に持ち帰る。それが、いちばん大事な仕事なんです」
美優は思わず、頷いていた。それは自分が五年間やってきた仕事と、とても近かった。
話が一段落したところで手帳のページを見た。〈制度と運用を分けて聞く〉。深呼吸をして、顔を上げた。
「あの、一つ、聞いてもよろしいでしょうか。繁忙期は、どのくらい、忙しくなりますか」
若林は少し、目を丸くした。それから、うれしそうに笑った。
「お、それ聞いちゃいます? いいですね。聞いてくれる人のほうが入ってから楽ですよ。で、正直に言うと、忙しい時期はあります」
「あるんですね」
「あります。年度末と大きなキャンペーンの前は、特に。先月もリリースの前の週は二十時を過ぎた日が三回ありました」
美優はペンを止めた。三回。それを多いと感じるか、少ないと感じるか。自分の基準が、まるで、壊れていることを実感した。
「そういうとき、翌日はどうなりますか」
「遅く出社するか、早く上がるか、自分で調整します。上司の森下さんが、『昨日、遅かったから、今日は午後から来て』って、先に言ってくれるんです」
「先に言ってくれる」
「はい。こちらから、お願いする前に。最初は、びっくりしました。前の会社では言われたことがなかったので」
若林は少し、遠くを見るような目をした。
「前の会社も、広告の会社でした。そこで疲れてしまって。ここに来て、三か月くらいは定時で帰ることに慣れなくて。五時になると、落ち着かなかったんです。何か、悪いことをしている気がして」
美優は唇を結んだ。その感覚を自分は、知っていた。知っているどころか、毎日、それを恐れていた。
「今は、どうですか」
「今は慣れました。時間はかかりましたけど」
美優は手帳の欄外に小さく書き留めた。〈三か月〉。それから、次の質問を読み上げた。
「直近で、誰かが有給休暇を取った例を教えていただけますか」
「ああ、それなら、私の隣の席の人が先週、取りました。お子さんの熱で、前の日の夜に連絡して、翌朝はお休みでした」
「前の日の夜、ですか」
「はい。連絡を受けて、森下さんは、『了解です、お大事に』って、それだけ。その人の担当の案件は私が代わりに見ました。あとで、お礼のお菓子をもらいましたけど」
若林はそれが当然のことのように、話した。美優はその当然さのほうにむしろ、驚いていた。前の日の夜に、休みを連絡する。それに、「お大事に」と返す。この二つの動作が、自分の職場では一つも存在しない。
「急に誰かが休むと、残った人は大変じゃないですか」
「大変なときは大変です。その分を無理に一人で抱えこまないようにしています。難しいときは、森下さんに正直に言います。『今週はこれ以上、受けられません』って」
「言って、いいんですか」
「言わないと、困るので。そう言って嫌な顔をされたことは、まだないです」
まだ、という言葉が美優にはかえって、信じられるものに聞こえた。絶対にと言い切られるより、まだ、というほうが実際にそこで人が働いているのだと思えた。
「それと、『家族のような職場』って、書いている会社もありますよね」
美優は手帳の別のページを、思い出した。若林は、少し考えてから、首を傾げた。
「うちはそういう言い方はしてないです。社員同士は、仲はいいですけど、家族ではないので。仕事は仕事。でも、困ったときは、実際に助けてくれる。そのくらいの距離が私はちょうどいいと思っています」
それも美優の中の、何かにぴたりとはまった。
三十分は、あっという間だった。画面の端の、時計の数字が十三時を回ろうとしている。若林は最後に、こう言った。
「佐藤さんの、お仕事のこと、少し聞いてもいいですか。高橋さんから、広告の会社で五年やってこられたと」
「はい。SNSの運用と企画書の作成を」
「どんな案件が一番、思い出に残っていますか」
美優は思わず、口の端を、持ち上げていた。
「商店街の、イベントです。雨の日でお客さんが、来なくて。告知文をその場で変えて、屋台の方にお願いして」
話しはじめると、止まらなかった。傘の列のこと、焼き芋と甘酒のこと、主催者の人の、青ざめた顔と夕方の、ほっとした笑顔。若林は、相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれた。
「素敵ですね。そういう仕事を、したかったんですね」
「そう、なんだと思います。ずっと、忘れていたんですけど」
それは面談の場で初めて、口にした言葉だった。若林は静かに頷いた。
通話が終わったあと、美優はしばらく、動かなかった。個室の外で誰かが、コピー機を使う音がしている。壁の時計は十三時五分を指していた。普段の昼休みなら五分過ぎている時刻だった。今日は休憩の開始をずらし、十三時十五分までに戻る約束をしている。
荷物をまとめて、コワーキングのビルを出た。十二月の昼の風は思いのほか、冷たかった。マフラーを巻き直して、会社の方向へ、歩きはじめる。
信号待ちの交差点で、ふと、空を見上げた。ビルに囲まれた、四角い空に薄い雲が流れている。午後の光は白く、やわらかかった。
〈今日は、いい日だった〉
そう思いかけて、美優は少し、立ち止まった。いい日、というのは何を指すのだろう。若林さんの部屋は、静かだった。机の上の、小さな観葉植物。マグカップ。「前の日の夜に連絡して、翌朝はお休み」。それを羨ましいと思う自分と、まだ信じきれない自分が同じ歩幅で歩いていた。
会社のエレベーターが、六階に着いた。扉が開くといつもの、紙とコーヒーの匂いが流れ込んできた。壁の〈スピードは信頼〉の紙が、端を反らして、そこにあった。
「佐藤さん、歯医者、どうだった」
席に戻ると、背後で部長の声がした。美優は鞄を置く手を、止めた。
「あ、はい。定期の検診で問題なかったです」
「そうか。戻りが遅かったね」
部長は笑ってはいなかった。ただ、穏やかに、事実を並べただけだった。それが、いちばん、答えにくかった。
「申し訳ありません」
「いいよ、いいよ。臨機応変に取り戻してくれれば」
部長は背中を向けた。美優は、席に座って、パソコンを開いた。メールが三十通近く、溜まっている。いつもの午後が、始まった。
その夜、美優は、また、高橋に報告をした。画面の中で高橋は、ノートを広げ、話を聞いてくれた。
「若林さんは誠実に答えてくださったと思います。忙しい時期がある、とはっきり言ってくださったのは、むしろ、信用できる点です。逆に何もかも、理想的な話ばかりだったら、私なら、少し、慎重になります」
「私もそう思いました。完璧な会社ではないんだと、思えて」
「完璧な会社はないです。ただ、佐藤さんが大切にしたいことと会社の実際の動き方が、重なる会社はあります。四社を比べて、どう感じましたか」
美優はちゃぶ台の上の、四枚の求人票を見た。付箋の色が、それぞれ違っている。一枚目は成果報酬の割合を示す、黄色。二枚目は、時間の説明が曖昧な、桃色。三枚目の桃色は〈家族〉の一語に貼られている。四枚目だけが、白い付箋に〈確認する〉と書かれたまま、今日、その下に新しい文が増えていた。
〈忙しい時期はある。でも、先に言ってくれる〉
「二枚目の会社には勤務時間の件を質問のメールで確かめてみたいです。三枚目は、今回は見送ります。一枚目も、私には、少し、合わないと思います」
「そうですか。では四枚目の、ライフクリエイトさんには」
「応募したい、です」
口にしたあと、心臓が速く打った。たった一言なのに背中のあたりがじわりと熱くなる。高橋は、頷いた。
「承知しました。書類の準備を一緒に、進めましょう。急がなくていいです。ただ、応募するからには佐藤さんが確かめたいことは面接でも確かめましょうね」
通話を切ると部屋に静けさが戻った。美優は、四枚の求人票をクリアファイルに重ねて入れた。いちばん上に、ライフクリエイトの一枚を、置いた。
立ち上がって、窓のカーテンを少し、開けた。向かいのアパートの、いくつかの窓に灯りがついている。どの窓の中でも、誰かが夕飯を食べ終えた頃だろう。
美優は、冷蔵庫から、卵を取り出した。割って、フライパンに落とすと油の跳ねる音が部屋に響いた。焼いた卵を、冷凍しておいたご飯の上にのせる。醤油を、少し、垂らした。
ひとくち、食べた。味が、した。




