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そして、五時の空を知る  作者: 久遠 睦


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第五章 キャリアの考古学

翌日の夜、美優は帰宅してから一時間、ノートパソコンの前に座っていた。白いワードの画面の左上で、カーソルが規則正しく点滅している。上着も脱がず、鞄も足元に置いたままだった。

冷蔵庫のモーターが低く唸り、止まり、また唸る。部屋の音といえば、それくらいだった。画面の一行目に、〈職務経歴書〉と打ってみる。その五文字を打つだけで、思ったより時間がかかった。

その下に、〈職務内容〉と書く。〈SNSアカウントの運用〉。〈クライアント向け企画書の作成〉。二行並べて、美優は手を止めた。どちらも間違ってはいない。けれど、読み返しても、自分の五年間のどこにも触れていない言葉に見えた。

二つの言葉の背後から立ち上がってくるのは、別のものばかりだった。深夜の会議室で差し戻された企画書。赤字だらけの修正履歴。クライアントの電話の向こうで、言葉を選びながら少しずつ低くなっていく声。そういうものを書く欄は、職務経歴書にはない。

美優は二行を消した。カーソルがまた、左上に戻った。

立ち上がって、台所の電気をつけた。シンクの隅に、先週から置きっぱなしのマグカップがある。洗おうとして、蛇口をひねったところで、やめた。

席に戻って、机の引き出しから手帳を出した。五年分の仕事の記録を、年ごとに書き出してみれば、何か出てくるかもしれない。そう思って、白いページに縦線を引き、一年目、と書いた。

一年目。新宿の雑居ビルの六階に初めて出社した日、鈴木部長に渡されたのは、商店街のパン屋の新商品の広告だった。右も左も分からないまま、店に通い、試作品の小さなクリームパンを焼きたてのまま持たされた。店主が笑いながら、「割ってみな」と言ってくれた。撮影の日、美優は何度も笑ってしまって、カメラマンに注意された。

手帳に、〈パン屋、新商品広告〉と書いた。その横に何を書けばいいのか分からず、ペン先でページを軽く叩いた。点が一つ、二つ、滲んだ。

二年目。夏に、先輩の宮下と二人で受け持った案件があった。クライアントは地方の食品会社で、通販サイトの文言が気に入られず、何度も書き直した。宮下は終電を過ぎてもパソコンを閉じず、「文章は寝かせると良くなるから、一回寝よう」と言って、会議室の床にブランケットを敷いた。結局二人とも眠れなかった。

そして雨の日の商店街のイベントがある。美優はそのページに、〈雨・告知〉とだけ書いた。ほかの記憶は、まだ、引き出しの奥にしまわれたままだった。

三年目。これといった出来事が思い出せない。案件が増え、人が減った。毎月の集計表を、手作業でつなぎ合わせる仕事を引き継いだ。関数を覚えたのはこの年だ。必要に迫られて、深夜のオフィスで検索を繰り返し、気づけば自分の席だけ、集計が一時間早く終わるようになっていた。誰にも褒められなかった。部長は、浮いた一時間に別の案件を載せた。

四年目。SNSの担当が三社から四社に増えた。人は、増えなかった。

五年目の春には、木村が入ってきた。教育係を命じられ、最初の一週間は名刺の渡し方から、電話の取り次ぎ、納品フォルダの命名ルールまで教えた。教えながら、自分がそれを誰にも教わらなかったことを思い出した。

手帳の縦線の下に、短い言葉が六つ並んだ。美優は四年目の行を指でなぞった。そこだけ、数字しか書かれていなかった。

時計は午前一時を回っていた。結局、ワードの白い画面には、〈職務経歴書〉の五文字以外は何も残らなかった。美優はパソコンを閉じ、洗っていないマグカップを置いたまま、電気を消した。

日曜の夜九時に、高橋とのビデオ面談を入れていた。平日の昼休みでは足りないという美優の事情を汲んで、高橋のほうから提案してくれた時間だった。

自室の机にノートパソコンを置き、画面の中の高橋と向き合う。後ろの壁は、前回と同じ、白い無地のままだ。三十代後半の顔が、こちらを見て軽く頭を下げた。

「こんばんは。休日の夜にすみません。お疲れではないですか」

「大丈夫です。あの……」

美優は言葉を探した。何度か口の中で組み立ててきたはずの文が、画面を前にすると、どこかへ行ってしまう。

「すみません、書けることが何もありませんでした」

高橋は驚いた様子を見せなかった。ペンを持ち上げて、手元のノートに何かを書きつけ、それから顔を上げた。

「書けなかった、というのはいい情報です。経歴書は、いきなり書くものではないので。今日は、書く前の材料を探しましょう。手帳は、ありますか」

美優は手帳を開いて、カメラに向けた。縦線と、六つの短い言葉。高橋は目を細めて、読んだ。

「年ごとに整理できていますね。そこから始められます」

美優は手帳を持ち直した。そして、経歴書に書こうとして消した二行を高橋に伝えた。

「では、一つずつ見ていきましょう。先ほど話してくれた、書いて消した二行から。『SNSアカウントの運用』とありますね。何社のアカウントを担当していましたか」

「……四社です。今は三社で、一社は去年、契約が終わりました」

「それぞれ、運用の目的は何でしたか。フォロワーを増やすのか、店舗への来店か、通販の申し込みか」

美優は画面の端に記憶の中の管理画面を呼び出した。一社は地方の食品会社で、通販サイトへの誘導が目的だった。一社は不動産で、内覧の予約。一社は美容室のチェーンで、新規客の来店。もう一つは、商店街のイベント告知。

美優は四社の名前の下に、それぞれ違う目的を書き添えた。

「目的が、全部違いますね」

「目的ごとに書き分けましょう。数字は資料で確認できる範囲だけで」

美優は共有フォルダに入れてあった過去のレポートを、一つずつ開いた。開くたびに、赤字の修正履歴が目に飛び込んでくる。部長の指示で何度も作り直した日付と時刻が、ファイル名の末尾に並んでいる。

〈企画書_最終_修正7_部長確認後〉。その名前を見ただけで、胃のあたりが冷たくなった。

「このレポートの案件は、最終的にどうなったんですか」

画面を見つめたまま動かなくなった美優に、高橋が尋ねた。

「採用されました。配信のあと、申込数が目標を超えて……でも、ほとんど、チームの成果です」

「チームの成果でいいんです。そのなかで、ご自身が担当した部分を、はっきりさせましょう。作業表のようなものは、ありますか」

美優は案件の作業表を開いて、画面共有に切り替えた。担当者の欄に、〈佐藤〉と書かれた行が、いくつもある。高橋に勧められて、蛍光ペンの代わりにセルの色を三つに分けた。顧客への聞き取りは青。広告の文言の作成と修正は黄色。掲載後のレポート作成は緑。

色を塗るたびに、白だった表が少しずつ鮮やかになっていった。作業の半分近くが青と黄色だった。広告の文言を直し、顧客の言葉を聞き取り、数字を拾い、翌週の報告書に落とす。毎日繰り返した作業が、画面の上で色のある列になった。

「こうして見ると、聞き取りと文言の仕事が、多いですね」

「その三つなら、他社にも伝えられます。まず作業内容を書いてみてください」

「でも、聞き取りや文言の修正なんて、誰でもやっている普通の仕事じゃないですか」


「普通かどうかは、採用する側が判断します。五年分の実務を、具体的に書きましょう」

美優は作業表の青いセルを数え、職務経歴書の空欄に〈顧客への聞き取り〉と打った。

高橋は「社内だけで通じる呼び方は、採用担当者に分かる言葉へ直しましょう」と言った。美優は〈緊急差し替え対応〉という見出しを選択した。

「その案件では、実際に何を調整しましたか」と高橋が尋ねた。

「締め切りと、確認工程の調整です。三件が同時に進んでいて」

美優は考えながら続けた。「……〈複数案件の進行管理〉なら、事実と違いません」

美優は見出しを打ち直した。前の文字列は消えたが、案件そのものは消えなかった。


「それなら、具体例も話せます」と美優は言った。


その日の面談で、一つだけ、高橋が少し間を置いた箇所があった。美優が前日に書き上げた、自己紹介欄の下書きを共有したときだ。

〈厳しい環境で培った忍耐力と、組織への責任感があります〉

高橋はその一文を声に出さずに目で追ってから、言った。

「この経験を、面接で説明できますか」

「忍耐力、ですか」

「はい。たとえば、面接官に『どういう環境で、何に耐えたのですか』と聞かれたとき、佐藤さんはどう答えたいですか」

美優は答えようとして、口を開いたまま、動けなくなった。夜の会議室。終電を過ぎた廊下。鈴木部長の「そのためのチームだろう」。思い浮かぶことを、そのまま面接の場で話す自分を想像した。話しているうちに、声が詰まる予感があった。


「では、『忍耐力』以外の言葉を探しましょう。今日、決めなくて大丈夫です。さっきの表の色を見ながら、佐藤さんが実際にしてきたことを、持ち帰って考えてみてください」

美優は〈厳しい環境で培った忍耐力〉の一文にカーソルを置いたまま、消すとは言えなかった。五年間、誇りにしてきた言葉だった。

「……はい。考えてみます」

面談の最後に高橋は、記録の出所が確認できる数字だけを使うよう伝えた。


「盛らなくて、いいんですか」

「盛らなくていいです。盛った分だけ、新しい職場でその数字に追われますから」

美優はレポートをもう一度開き、確認できた数字だけに印をつけた。

時計を見ると、十時半だった。いつもなら、まだ会社で画面と向き合っている時間だ。机の上には、手帳と、色の塗られた表と、飲みかけのお茶がある。そんなことが、今夜は少し不思議に思えた。

翌日の会社は、いつもと同じだった。午前八時半、窓に背を向けた席。隣のビルから、午後五時の間延びしたチャイムが聞こえてきたときも、美優の手は止まらなかった。

ただ、一つだけ違うことがあった。企画書の修正指示を受けるたび、画面の端に色分けした表が浮かぶのだ。この修正は、青。この指示は、黄色。部長の「もう少しスピード感を出して」は、どの色にも入らない。入らないものを、一つずつ、頭の中で脇に寄せていく。そうすると、手元に残るものがいつもより小さく、扱いやすく見えた。

昼休みに、木村がコピー機の前で声をかけてきた。

「佐藤さん、最近、ちょっと顔が違います」

「そう? 寝てないだけだよ」

「いえ、なんていうか……いつもは、息を止めてるみたいな顔なんですけど、今日は息してる感じ」

美優はどう返せばいいのか分からず、「そっか」とだけ言って、コピーの束を受け取った。紙は温かく、少し湿っていた。木村はそれ以上聞かずに、自分の席へ戻っていった。

夜、帰宅してからは、ワードを開く前に台所で湯を沸かした。インスタントの味噌汁に湯を注いで、立ったまま飲む。味はしなかったが、湯気が顔にあたって、温かかった。

席に戻り、自己紹介欄の下書きを呼び出した。〈厳しい環境で培った忍耐力と、組織への責任感があります〉。カーソルを、文の頭に置く。

消す、と決めて、そのまま、手が動かなかった。五年間、毎朝、同じ時間に出社した。休まなかった。遅刻もしなかった。それを、自分は、確かに誇りにしていたのだ。誇りだったものを、今夜、一行の文として削除する。その重さは、思っていたよりもずっと、手のひらに残った。

文末にカーソルを移し、ゆっくりとバックスペースを押した。文字が右から順に消えていく。〈厳しい環境で培った忍耐力〉。ここまでは、すぐだった。〈と、組織への責任感があります〉が、いちばん、残った。けれど、「組織への」の前に置く言葉が見つからない。

聞き取り、という語が昼間の表から、浮かんできた。顧客の話を聞いて、言葉に直して、広告にする。その仕事を、自分の言葉で言い直すとしたら。

指を動かし、打っては消し、打っては消した。〈顧客の話を聞いて整える力〉は、ぼんやりしている。〈お客様の要望をヒアリングし、提案資料に落とし込む力〉は、会社の言葉そのままだ。

〈顧客の課題を聞き取り、伝わる言葉へ整理する力〉。

打ち終えて、美優は文を声に出して読んだ。耳に入った音が、自分の声ではなく、どこか知らない人の声のように聞こえた。けれど、読み終えたあと、その文は画面の上でしっかりと立っていた。

一行を直すのに、三十分かかった。いつもなら、三十分で、五つは修正を終えている。けれど、この三十分は、誰かの指示で動いた時間ではなかった。自分は何をしてきたのか。その問いを、自分の言葉で確かめるための三十分だった。

スマートフォンが震えた。梨沙からの通話だった。

「ごめん、今、大丈夫? 映画の件、改めて誘おうと思って……って、そんなかしこまった話じゃなくて、声が聞きたかっただけ」

「大丈夫。ちょうど、聞いてほしいものがあって」

美優は自分でも思いがけない言葉を口にしていた。梨沙は一瞬、間を置いて、「え、なに」と返した。

「職務経歴書。今、書いてて。自己紹介の欄だけ、書き直したの。読むから、聞いてて」

「うん」

梨沙は余計な相槌をはさまず、聞く体勢になった。美優は、息を一つ吸って、読み上げた。

〈顧客の課題を聞き取り、伝わる言葉へ整理する力があります。四社のSNS運用と、企画書の作成を通じて、目的の違う広報施策を、それぞれの顧客に合わせて形にしてきました〉

読み終えても梨沙は何も言わなかった。電話の向こうで、お茶を啜る音がした。

「……どう? 変かな」

「変じゃないよ。っていうか、ちょっと待って」梨沙は笑った。「知らない人の経歴書みたい。美優、こんなことしてたの?」

「してたんだよ。ずっと」

「うん、知ってる。でも、そんなふうに言えるって、知らなかった。昔、学園祭のポスター作ってたとき、『これで人が来てくれるといいな』って言ってたよね。あれと同じ顔の文章だよ」

学園祭のポスター、という言葉が美優の胸に落ちた。二十歳のとき、梨沙と二人で夜通しカラーコピーをした。広告の仕事を選んだとき、頭にあったのはああいう夜のことだったのかもしれない。

「ねえ、美優」

「うん」

「今日、何食べた?」

「……味噌汁。インスタントの」

「それはそれでありだけど。次は、まともなもの、食べようね。映画の前に、ご飯行こう。私が決めるから」

「うん」

通話が切れたあと、美優はしばらく画面を見つめていた。梨沙の笑い声が、まだ耳の奥に残っている。自分の書いた文を、他人の声で受け止めてもらえた。

週末の土曜日、美優は昼まで眠ってから、クローゼットの奥の箱を引っ張り出した。入社二年目の頃まで使っていた古いスマートフォンが、充電ケーブルと一緒にしまってある。

ケーブルは、絡まっていた。指でほどくのに五分かかった。電源を入れても、画面は暗いままだった。コンセントにつないだまま、美優は台所で湯を沸かし、紅茶を淹れた。戻ってくると、画面に、緑色の電池の印が点滅していた。

暗証番号を、指が覚えていた。起動した画面の背景には、入社したての頃に撮った、新宿の夜景が映っている。まだ、窓に背を向けた席ではなかったのだ。美優は、手のひらで画面を覆うようにして、写真のフォルダを開いた。

商店街のイベントの写真は、日付を遡ると、すぐに見つかった。

一枚目は、灰色の空の下、シャッターの降りた店の前に張られた、テントの写真だった。二枚目には、水たまりの映り込む路面と、濡れて光る赤い提灯。三枚目で、傘の列が現れる。ビニールの透明な傘、紺色の傘、子どもの黄色い傘。傘の下で、誰もが少しずつ、笑っていた。

あの日の朝のことを、美優は思い出した。雨予報だったのに、告知は晴れを前提に作られていて、主催者の男性が商店街の入口で青ざめた顔をしていた。「これじゃ、誰も来ないですよ」と、肩を落としていた。

美優はその場で、スマートフォンから、SNSの告知文を書き換えた。〈雨でも、あたたかい甘酒と、傘の下の焼き芋を用意して待っています〉。もともとの文面に、焼き芋と甘酒は書かれていなかった。屋台の人に頼んで、その場で用意してもらえることになった。午前中は、誰も来なかった。昼を過ぎて、一人、二人と傘が増え、午後にはアーケードの下まで人の列ができた。

思い出すほどに、胸がじんわりと熱くなった。同時に、あの日の夜、帰社してから部長に言われたことも、思い出した。「勝手に告知を変えるのは、やり方として雑だな。今回は結果が出たからいいが」。褒められたわけではなかった。それでも、あのときの自分は確かに楽しかった。

紅茶は、すっかり冷めていた。美優は写真を一枚選んで、自分のパソコンに送った。

翌日曜日の夜、また高橋との面談があった。画面共有で、昨日の写真を開く。高橋は、しばらく無言で傘の列を眺めていた。

「これは、いい写真ですね。何をされた日ですか」

美優は朝のことを、順を追って話した。告知を書き換えたこと。屋台に甘酒と焼き芋を頼んだこと。午後から、人が集まりはじめたこと。

「小さいことなんです。私がやったことなんて」

「小さくても事実なら、書いていいんです」

高橋は静かにけれど、はっきりと言った。

「何を考えて、どう動いたか。それは、数字よりも、面接で伝わることがあります。状況が変わったとき、どう判断して、誰と調整して、何を変えたのか。佐藤さんは、雨の朝に、全部やっています」

「でも数字がはっきりしなくて。来場者が何人だったのか、反応が何パーセント増えたのか、覚えていないんです」

「確認できない数字は書かなくていいです。今から、いい数字を作ろうとしないでください。代わりに、状況と、行動と、結果を、そのまま、短く書きましょう」

美優は頷いた。そのまま、メモ帳を開いた。〈雨天で来場者が少なかったイベントで、当日の判断で告知内容を変更し、屋台と調整した。午後から来場者が増加〉。数字のない、短い一文だった。

「古い記録は、他にありませんか。当時のメールとか、報告書とか」

「探してみます」

その夜、美優は会社の共有フォルダではなく、自分のメールの古い受信箱を開いた。入社二年目の秋。〈商店街〉と検索をかけると、百件近くのメールが並ぶ。画面をスクロールするうちに、手が止まった。

件名は、〈本日はありがとうございました〉。差出人は、イベントを主催していた商店会の担当者だった。

〈雨の中、最後まで対応してくださって助かりました。あの告知を見て来たという方が、何人もいました。また来年も、お願いできればと思っています〉

たった三行。自分は、この三行を、保存フォルダに分けて、大事にとっておいたのだ。消さずに、四年も、残してあったのだ。

メールを読み終えて、美優はしばらく動けなかった。思っていたより、目の奥が熱かった。涙が出るのだろうか、と思ったが出なかった。代わりに、窓の外で、どこかの家の洗濯機が、低く回る音がした。

その音が止むまで、美優は画面の前に座っていた。

翌日、高橋から短い確認の電話があった。通話の終わりぎわ、高橋が尋ねた。

「手帳に、五年目、木村さんの教育係とありましたね。それは、書けますか」

「名刺の渡し方から、電話の取り次ぎまで一週間かけて教えました。マニュアルは、なかったので自分でメモを作って」

「そのメモは今もありますか」

美優は会社のフォルダを思い浮かべた。〈木村さん用_最初の一週間.docx〉。A4で三枚。電話に出たら社名を先に言う、納品フォルダの名前は日付から始める、分からないときは三十分悩まずに聞く。最後の一行は、自分が入社したとき、誰かに言ってほしかったことだった。

「あります。ただ、会社のものなので持ち出せません」

「持ち出さなくて大丈夫です。作ったという事実と、中身を覚えていることが大事です。新人の指導と、手順書の作成。どちらも、立派な経験です」

メモを取りながら、美優は少し驚いていた。三枚のメモは、誰にも読まれず、誰にも褒められなかった。それが、経歴書の一行になる。

その週の水曜は、面談の日だった。昼休みに合わせて、コワーキングスペースの個室も押さえてあった。十一時五十分、鈴木部長が島の中央で手を叩いた。

「急で悪いが、十二時半から先方との打ち合わせが入った。佐藤さん、同席してくれ。資料は、さっきの修正版でいい」

「……はい」

返事をしてから、手帳を開いた。十二時半。昼休みは、なくなった。美優は席でスマートフォンを握り、高橋に短いメッセージを打った。〈申し訳ありません。急な打ち合わせで、今日の面談に出られなくなりました。直前になってしまい、本当にすみません〉。送信してから、すみません、という言葉を二度も使ったことに気づいて、画面から目を逸らした。

返信は、打ち合わせの前に届いた。

〈承知しました。お気になさらず。次は金曜の夜でも、翌週でも構いません。職務経歴書は、書けたところまでで大丈夫です〉

短い文面だった。励ましも、助言もない。突き放されたような、少し軽くなったような、どちらともつかない気持ちで、美優は打ち合わせの席についた。

打ち合わせは二時間に及んだ。昼を食べそびれた胃が、重く痛んだ。いつもなら、この痛みは疲れとして、そのまま夜に持ち越していた。けれどその夜、美優は帰宅すると、コートも脱がずにパソコンを開いた。誰にも見てもらえない。誰にも、うまく書けましたね、とは言ってもらえない。それでも、手帳の六つの言葉は、そこにあった。

その週の面談は、結局、流れた。次の約束は、金曜の夜から、翌週に回った。

翌週の夜、美優はワードを開いた。自己紹介欄の下に、職務内容の欄が広がっている。色分けした作業表と、手帳の六つの言葉と、写真と、メールがある。

一行目には、何を書くか。いくつも、頭に浮かんだ。〈広告運用〉。〈SNS運用・企画〉。〈クライアント対応〉。どれも、間違いではない。ただ、どれも、昨夜までの自分が無意識に薄めてしまっていた言葉のように思えた。

雨の商店街の傘の列を思い浮かべた。あの傘の下にいた人たちは、〈SNS運用〉に来たのではない。〈甘酒と焼き芋〉に来たのだ。それを書いた自分は、顧客の状況を見て、広報の言葉を変えた。

美優は、キーを叩いた。

〈顧客の状況に応じた広報施策の提案〉

打ち終えた一行を、美優はしばらく見つめた。以前の自分なら、きっと、難しい言葉を使っていると、笑っただろう。会社で配られる資料の言い回しを真似ているだけだ、と。

けれど、今夜は笑わなかった。この行の裏側には、濡れた傘の列と、三行のメールが確かにあった。

二行目に、〈四社のSNSアカウントの運用(目的別に運用方針を設計)〉と打った。三行目に、〈商店街イベントの告知改善(当日対応)〉。保存の操作をして、画面に〈上書き保存しました〉の文字が出る。

コーヒーを淹れ直そうとして、台所に立った。蛇口の脇に置きっぱなしだったマグカップを、ようやく手に取った。スポンジに洗剤をつけ、縁を、ゆっくりと擦る。水を出した。冷たかったが、不快ではなかった。

洗い終えたカップに、ほうじ茶のティーバッグを入れる。湯を注ぐと、茶色い色が広がっていく。

窓の外は、夜の十一時だった。五時の空は、もう、とっくに終わっている。それでも、美優は、明日の午後五時にあのチャイムを聞きながら、少しだけ窓の方を振り返ってみようかと、思った。


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