第二部 最初の光 第四章 違う種類の話
転職サイトに登録してから十日ほど、何も起きなかった。登録確認のメールのあとに届いたのは、求人の自動配信ばかりだった。〈あなたにおすすめの求人〉という件名の下に、聞いたこともない社名が並ぶ。美優はそれを開かないまま、受信箱の下のほうへ押し流していた。
変わったのはクリニックに行った翌週の火曜日だった。通勤電車で何気なく受信箱を開くと、見慣れない差出人の名前があった。登録したサイトの、キャリアアドバイザーからのメールだった。
〈佐藤美優様 はじめまして。高橋健二と申します。ご登録ありがとうございます。まずは三十分ほど、お話を伺えればと思います。オンラインでの面談も可能です。平日の昼休みや、夜のお時間でも構いません。ご都合のよい日時をお知らせください。お返事は急ぎません〉
最後の一行を、美優は二度読んだ。急ぎません。会社から届くメールにはそんな言葉は一度も書かれていない。
電車が揺れて、吊り革に掴まった手に力が入った。返信を打つ指が、画面の上で何度も止まった。会社の中で、この面談を受けることはできない。自宅のワンルームは夜にはもう、返事をする気力が残っていない。結局、〈今週の木曜、十二時十五分から、一時間なら可能です〉と打った。送信した直後に、後悔が胸を刺した。けれど、〈承知しました。お待ちしております〉という返信が、すぐに届いた。
木曜日、美優は午前中の仕事をいつもより少し早く切り上げた。十一時五十分に、「外で昼を取ってきます」とだけ告げて席を立つ。部長はちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。鞄の中には、ノートパソコンと小さなメモ帳だけが入っている。
会社から歩いて八分のところに、コワーキングスペースがあった。ガラス張りの入口を入ると、受付の若い男性が、「ご予約の佐藤様ですね」と言って、三番の個室の鍵を渡してくれた。昼休みの一時間だけ、千円ほどで借りられる。先に自分で予約を入れておいた。
個室は四畳ほどの細長い部屋だった。小さな机と、椅子が二脚。壁際に、観葉植物の鉢が置いてある。ドアを閉めると廊下を行き交う人の声が、すっと遠くなった。
美優は、パソコンを机の上に開いた。開始まであと十分。鞄から水のペットボトルを出して、ひと口飲む。喉の渇きは、収まらなかった。ペットボトルの蓋を閉めたり開けたりして、時間を潰した。壁の時計の秒針の音が、やけに耳についた。会社へ戻る時刻を頭の中で何度も計算する。十三時十五分までに、席に着かなければならない。
画面に、通知が出た。〈高橋さんが入室しました〉。美優は背筋を伸ばした。
映ったのは、三十代後半くらいの男性だった。紺色のジャケットに、白いシャツ。眼鏡の奥の目が笑っている。背景には、白い壁と、小さな本棚が見えた。
「佐藤さん、はじめまして。高橋です。本日はお時間をいただいて、ありがとうございます」
声は低く、落ち着いていた。急いだところが、少しもない。
「よろしくお願いします。あの、昼休みなので、一時間しかなくて」
「承知しています。時間はきちんと守りますね。もし途中で戻る必要が出たら、そこで切り上げて構いません」
美優は頷いた。肩に入っていた力が、抜けた。
「最初に、いくつか、お伝えさせてください」
高橋は手元のメモを見ながら、ゆっくり話した。サービスは無料であること。登録して話を聞くだけで費用は一切かからないこと。ここで話した内容は、本人の同意なしに現在の勤務先を含め、誰にも伝わらないこと。
「ですので、佐藤さんが今、転職を考えていらっしゃることは会社の方には絶対に伝わりません。安心してください」
美優は画面の端に置いていた会社のチャットを閉じた。閉じてから、画面の中の高橋を見た。
「それから、もう一つ。正直にお話ししておきたいことがあります」
高橋は少し間を置いた。
「私たちは佐藤さんからは費用をいただきません。そのかわり、佐藤さんが採用された場合に、採用した企業から報酬をいただく仕組みになっています。ですから、私には、紹介を成立させたいという立場があります。それを先にお伝えしておきたいと思いました」
美優は思わず画面を見つめた。採用が決まれば、この人にも報酬が入る。美優はその言葉を、手元のメモに書いた。
「ですので、もし、私が急かしていると感じたり、ご自分に合わないと思ったりすることがあれば、遠慮なくおっしゃってください。それから」
高橋は、さらに続けた。
「私は転職の支援の専門家です。健康状態について判断する専門家ではありません。お体やお心の状態については、お医者さんの意見のほうが、ずっと確かです。今の状態で転職活動を進めてよいのかどうかも含めて、佐藤さんご自身が決められるようにしたいと思っています」
美優は、ひざの上で握っていた両手をゆっくりほどいた。
「あの、実は先週、病院に行きました」
自分でも驚くほど、すっと口から出た。
「診断名は言われませんでしたが、無理に働き続けないほうがいい、と」
「そうでしたか。話してくださって、ありがとうございます。そのことは、今後の進め方を考えるうえでとても大事な情報です。お医者さんの判断を、いちばん優先してください。その上で、急がない進め方もいくつかありますから」
高橋は責めも驚きもしなかった。ただ、受け止めた。画面の向こうでペンを走らせる音がかすかに聞こえた。
「では、少しずつ、お話を聞かせてください。今回、転職をお考えになった理由を、教えていただけますか」
美優は息を吸った。用意してきた言葉があった。通勤電車の中で何度も頭の中でなぞった、角の立たない言い方。
「えっと……新しいことに、挑戦してみたいと思って。新たな挑戦、というか」
「新たな挑戦」
「はい」
高橋はその言葉を、遮らなかった。ゆっくり頷いて、メモに何かを書きとめた。それから、少し間をおいて、静かに言った。
「ありがとうございます。そうですよね。あと差し支えなければ、お仕事の様子も聞かせてもらえますか。登録のときに、残業が長い、という項目にチェックがありました。佐藤さんの一日が、どんなふうに流れているのか、教えてもらえたら」
その問いかけはあくまで穏やかだった。けれど、そこで何かの栓が抜けた。
「朝は、八時半に着きます。始業は八時半で、終業は十七時ということになっています。でも五時には、誰も帰りません。六時になると、勤怠が勝手に退勤になるんです。そのあとが、本番で」
言葉が勝手に出てきた。順番もなく、喉の奥から、押し出されるように。
「残業は、月に百時間を超えます。給与明細には、四十五時間分の固定残業代と書いてあります。それ以上は、出ません。夜はだいたい、十一時くらいまで。終電に乗れない日もあります。部長は、怒鳴りません。『君ならできるだろう』って、言います。できないって言うと、『できない理由を並べる前に』って。それで、私はできないって、もう、言えなくなって」
視界が滲んだ。画面の中の高橋の顔が、ぼんやり揺れて見える。
「後輩が、泣いていたんです。限界かもしれないって。それなのに私、『もう少し頑張ろう』って、言ってしまって。本当は私が、いちばん、辞めたいのに」
気づいたら、頬を、涙が伝っていた。ぽた、と机の上に落ちて、小さな丸い跡を作った。
「すみません……」
美優は袖で目元を押さえた。鼻をすする音が狭い個室にやけに大きく響いた。昼休みの、たった一時間を、泣くために使っている。みっともない。そう思った。
高橋は、何も言わなかった。急かすことも慰めの言葉で埋めることもせず、ただ、画面の向こうで待っていた。ティッシュの箱が置かれた机の隅を、美優はぼんやりと見た。
「正直にお話しいただいて、ありがとうございます」
しばらくして、高橋は静かに言った。
「謝らなくて、大丈夫ですよ。佐藤さんは、ずっととても大変な環境で頑張ってこられたんですね。五年間。それ自体が、とても強いことだと、私は思います」
強い。美優は、その言葉を頭の中で転がした。自分が強いだなんて、考えたこともなかった。むしろ、弱いから、こんなふうになったのだと、思っていた。
「慰めで言っているわけではありません。何年も、あれだけの負荷の中で毎日、仕事を続けてきた。簡単なことではないです」
「……はい」
「今日はそのことだけ、持ち帰っていただければ」
美優はティッシュを一枚取って、鼻に当てた。涙は止まらなかったがさっきよりも息が楽になっていた。
「それでは、少し、違う方向から、お聞きしてもいいですか」
高橋は手元のメモを、一枚めくった。
「今の会社で良かったことはありますか。どんな小さなことでも」
問いは思いがけないものだった。良かったこと。この五年間を、全部、辛いものとして数えてきた美優には、すぐには答えが出てこなかった。画面の端で観葉植物の葉が空調の風にかすかに揺れている。
思い出したのは、入社して間もない頃のことだった。初めて、自分一人に任された案件。商店街の小さなパン屋の、新商品の広告だった。
店主は、六十代の男性だった。白い帽子を被って、粉のついたエプロンの紐をきつく締めていた。撮影の日、「まだ試作なんだけど」と言って、焼きたての、小さなクリームパンを出してくれた。割ると、中から、湯気とバニラの匂いが立ちのぼった。撮影の途中、何度も、笑った。パンが割れて、クリームがこぼれて、店主が「あ、もったいない」と叫んでみんなで笑った。
チラシが出たあとの週末、店の前に行列ができた。店主は、美優の手を、粉だらけの両手で握って、「ありがとう、ありがとう」と、何度も言った。あの日の帰り道、美優は自分の仕事が誰かの一日を明るくしたことがうれしくてたまらなかった。
「……地元のパン屋さんの、新商品の広告を、作りました。初めての、案件でした」
「ええ」
「店主さんが試作品を出してくださって。撮影中に、何回も笑ったんです。広告を見て、お客さんが増えたって、聞いたとき、すごく、うれしかった。あれは、本当に」
「そのお仕事はお好きだったんですね」
「……好きでした」
言ってから、自分ではっとした。「好きだった」と、過去形にした言葉の中に、まだ、何かが残っているのに気づいた。
「仕事そのものが嫌いになったわけではない、ということですね」
美優はゆっくり頷いた。今まで、全部が嫌いだと思っていた。会社も、広告も自分の五年間も。けれど、好きだったものと、自分を苦しめる環境は、同じものではなかった。その二つを一緒くたにして、全部捨てようとしていた。
壁の時計を見ると、十二時五十分だった。残りは、二十五分。
「少し、手を動かしてみましょうか」
高橋は画面の向こうで一枚の紙を持ち上げた。カメラに向けて、ゆっくり見せる。A4の白い紙に横線が一本引かれていた。その上の半分に〈今、続けられないこと〉、下の半分に〈次の職場で大切にしたいこと〉と、細いペンで書いてある。それ以外は、何も書かれていない。
「求人票を探す前に、まず、これを埋めてみませんか。仕事選びの前に佐藤さんが何を守りたいのかを、先に言葉にしておきたいんです」
「求人票より、先に」
「はい。条件の数字は、あとからいくらでも探せます。でも自分の基準が決まっていないと、どの求人を見ても全部良く見えたり、全部悪く見えたりしますから」
美優は鞄から、メモ帳を取り出した。白紙ではないが、挟んであった一枚を外して、机の上に置く。ボールペンを握った。ペン先を紙に近づけて、そこで止まる。
続けられないこと。それはたくさんありすぎた。怒鳴られなくても、人を削る言い方。終わらない夜。休日の呼び出し。けれど、一つずつ、紙に落とそうとすると、どの言葉も大きすぎて、重すぎて、書けなかった。
「全部、書かなくていいですよ。今日、浮かんだものを一つだけ」
高橋の声に背中を押された。美優は、迷いながら、下の欄にペンを下ろした。「次の職場で大切にしたいこと」。仕事の内容でもなく、給料でも肩書きでもなく、最初に書いた言葉はこれだった。
〈夜に眠れること〉
文字は少し震えていた。書いたあと、ペンを置いて、その一行を見た。
「ありがとうございます。いい、一行ですね」
高橋はそれ以上は何も足さなかった。
「同じものを、あとでメールでお送りしますね。でも今書いたその紙のほうを、持っていてください。次回までに、少しずつ、増やしてみてください。無理に埋めなくていいです。浮かばなければ、空白のままでも」
「はい」
「次回は来週の同じ時間でどうでしょう」
「……はい、お願いします」
通話を切る前に美優は思わず口にした。
「あの、高橋さん」
「はい」
「今日、昼休みを泣くだけで終わらせてしまって」
「そんなことはありませんでしたよ」
高橋は少し笑った。「いい時間でした。また来週、お会いしましょう」
画面が暗くなると、個室に静けさが戻った。壁の時計は、十三時二分を指している。美優は手帳を閉じ、紙を四つ折りにして、鞄の内ポケットに仕舞った。紙の角が、指先に触れて、乾いた音を立てた。
コワーキングスペースを出ると、冷たい風が頬を撫でた。目元の腫れが風に当たって、少しひりついた。十三時の街は、昼休みを終えたサラリーマンが、足早にビルへ戻っていく時間だった。美優もその流れに混じって歩き出した。
横断歩道の手前で、信号が赤に変わった。立ち止まって、何気なく、空を見上げた。薄い雲の向こうに、冬の始まりの、白っぽい青空が広がっている。ビルの屋上のアンテナが細い影を、空に引いていた。
空を見たのは、いつ以来だろう。昨日も一昨日も、空はそこにあったはずなのに。美優は、あわてて、歩き出した。
会社に戻ったのは十三時十二分だった。三分、余裕があった。席に着くと、背後から、粘り気のある声がした。
「昼は、どこで食べていたんだ」
部長だった。振り向かなくても分かる。
「近くで、済ませていました」
「そうか。顔が、少し腫れているようだが」
「花粉……じゃなくて、乾燥で目が」
「そうか。体調管理も仕事のうちだからね」
部長はそう言って、自席へ戻っていった。美優の手は、キーボードの上で固まっていた。鞄の内ポケットの、四つ折りの紙の存在が、急に重くなった。見られたら、どうなるのだろう。会社の人に見つかったら。その問いを、午後じゅう、頭の隅で繰り返していた。
その週、美優は、紙を毎日持ち歩いた。
折り目のついたその紙は、通勤電車の中で何度も開かれた。ドアの横に立って、人の背中のすき間から、書いた一行を、こっそり読む。〈夜に眠れること〉。その下は白いままだった。
会社のトイレの個室で、紙を広げたこともある。蓋を閉めた便座に腰を下ろして、膝の上に紙を置く。上の欄の、〈今、続けられないこと〉は、頭の中にはいくらでも浮かぶのに、手が動かなかった。書いてしまえば、それが本当に自分の気持ちになってしまう。
ドアの外で誰かの足音がして、美優はあわてて紙を畳んだ。手洗い場の水の音。ハンドドライヤーの、うなるような音。やがて、足音は遠ざかっていった。心臓が、また、速く打っていた。逃げ込む場所が、トイレの個室しかない。それが悲しいというより、ただ、滑稽に思えた。
金曜日の午後、給湯室で木村と二人になった。木村は、紙コップにティーバッグを入れながら、美優の顔を、ちらりと見た。
「佐藤さん、最近、お昼に外へ出てますよね」
「え。うん、ちょっとね。気分転換」
「いいなって、思ってました。この前のベンチ、また行きたいんですけど、昼に席を空けると部長に何か言われそうで」
美優は唇を結んだ。嘘ではないが、本当でもない。コワーキングスペースの、三番の個室。画面の向こうの、落ち着いた声。それを、木村に言うことはできなかった。
「そのうち、また行こう。公園の、ベンチ」
「本当ですか。約束ですよ」
木村はうれしそうに笑った。電気ポットが、かちんと音を立てて、湯が沸いたことを知らせる。木村の差し出した紙コップを受け取りながら、美優は小さな棘が刺さるのを感じた。後ろめたさだった。自分だけが、出口の方向を見ている。
その痛みは、その夜になっても消えなかった。けれど、消さなくていいのだと、思おうとした。痛むのは、木村のことを見ているからだ。
日曜日の朝、梨沙から、メッセージが来た。〈おはよう。散歩、どう? 無理なら無理で〉。美優は、布団の中で、天井を見た。身体は重かったがめまいは来ない。少し考えて、〈行く〉とだけ返した。
待ち合わせは、川沿いの遊歩道だった。冬の入口の光が、水面に細かく散っている。梨沙は二人分の紙コップを持って、手を振っていた。コーヒーと、ミルクティー。「どっちがいい?」と聞かれて、美優はミルクティーを選んだ。
一時間、ほとんど喋らなかった。ときどき、川の鴨を指さして、梨沙が「あれ、太ってない?」と言い、美優が少し笑う。帰りぎわ、鞄の中の紙のことを、話そうかと思った。けれど、やめた。まだ、自分の中で形になっていなかった。
その夜、美優は、紙を机の上に広げた。部屋の照明を落として、卓上のライトだけを点ける。白い光の円の中に、一行だけ書かれた紙が浮かぶ。ペンを持って、しばらくの間、考えた。
続けられないことではなく、大切にしたいこと。そう頭を切り替えると、不思議に言葉が出てきた。
〈怒鳴られない〉
書いてから、苦笑した。部長は怒鳴らない。けれど、怒鳴られなくても人は削られる。だから、これでは足りない気がして、横に書き足した。〈人格を、否定されない〉。それから、ペンを止めた。
一番下にもう一つだけ、書いた。それを書くのに、いちばん長く、かかった。
〈誰かの役に立ったと、感じられる〉
書き終えたとき、じんわりと熱くなった。パン屋の店主の、粉だらけの手。「ありがとう」と、何度も繰り返した声。自分の中に仕事を好きでいたい気持ちが、まだ、残っている。それを見つけたことが、ひどく意外でうれしかった。
三つだけだった。けれど、三つとも自分の言葉で書けた。美優は、紙をそっと撫でた。ライトの熱が、紙をほんのりあたためていた。
水曜日の朝は、駅へ向かう途中でパン屋の前に立ち止まった。焼きたての匂いは、いつもと同じだった。ガラス越しにトレイの上の小さなクリームパンが見えた。気づけば、扉を押していた。
「いらっしゃいませ」
店員の女性がトングを構えて笑った。美優は、クリームパンをひとつ頼んだ。紙袋の底が、手のひらにほんのり温かい。会社の自席で昼まで手をつけられなかったが、午後の三時に半分だけ割って食べた。クリームは、少し甘すぎた。それでも最後のひと口まできちんと味がした。
次の木曜日、同じ個室で同じ画面の前に座った。高橋は、前回と同じ紺のジャケットで、同じように笑っていた。
「先週より、顔色が少し、いいように見えます」
「そうですか」
「ええ。眠れていますか」
「……まだ、あまり。でも先週よりは」
美優は鞄から、四つ折りの紙を取り出した。折り目が、すっかり柔らかくなっている。それを、カメラに向けて、広げて見せた。
「三つだけ、書けました」
高橋は画面を少し覗き込んでゆっくり読み上げた。
「怒鳴られない。人格を、否定されない。誰かの役に立ったと、感じられる」
そう言って、少し黙った。それから、頷いた。
「大事な基準ですね」
「これでいいんでしょうか。こんな、当たり前のことばかり、わがままじゃないかって」
「わがままかどうかより、面接で何を確かめたいかですね」高橋は紙を指した。「例えば、残業の実態を尋ねる質問にできます」
「そう、ですよね」
美優は思わず、小さく笑った。笑った自分に驚いた。
少し、沈黙があった。美優は、膝の上で、指を組んだ。
「でも会社って、入ってみないと、分からないですよね」
「ええ、そうです。私も、保証はできません」
高橋は即答した。その率直さに、美優は顔を上げた。
「求人票と実際が違う会社もあります」
「……」
「現場の人に聞ける機会があると、判断材料は増えます」
美優はメモ帳に急いで書き留めた。〈残業の理由を聞く〉〈複数の人の話〉。ペンを走らせながら、ふと顔を上げた。
「聞いても、いいんですか。面接で。失礼じゃないでしょうか」
「聞きましょう。どんな答えが返るかも、佐藤さんが確かめられます」
美優はメモに〈残業の理由〉と書き、その下に〈誰に聞く?〉と付け足した。
「次の面接では、ひとつ聞いてみます」
「では、その質問を残しておきましょう」
面談の終わりに近づいたとき、高橋は少し改まった調子で付け加えた。
「今の体調のことも考えながら、予定を組みましょう。活動を休む選択肢も残しておいてください」
美優はうつむいた。膝の上で、折り目のついた紙を握りしめていた。
逃げたい。でも次も同じだったら。美優は紙の端を指で押さえた。
「……早く逃げたいのに怖いんです。どっちも、本当で」
「両方あるんですね」と高橋が言った。
「今日は、ここまでにしましょう」
画面の隅の時計が十三時を回りかけていた。美優は、紙をもう一度、四つに折った。今度は折り目が、さっきよりもきれいに合った。
ノートパソコンを閉じて、個室を出た。ドアを閉めるとき、廊下の窓から、午後の光が斜めに差し込んでいた。冬のはじまりの、まだ薄い光だった。美優は、その光の中をゆっくり歩いて、会社へ戻った。
その夜、美優は、帰りに文房具店へ寄った。閉店間際の店内は、蛍光灯が白く、通路の奥の棚にクリアファイルが並んでいた。無地の、薄い水色のものを一枚だけ、手に取る。ひとつ、百円もしなかった。
家に帰って、折り目だらけの紙をそのファイルに挟んだ。そうしただけで、紙の三行が少し、書類らしく見えた。机の引き出しに入れようとして、思い直して、枕元の本の間に差し込んだ。




