第三章 罅(ひび)
土曜日。美優が目を覚ましたとき、枕元のスマートフォンは十四時十二分を示していた。
昨夜は零時過ぎに布団に入った。十四時間近く眠ったことになる。それなのに身体はマットレスに沈んだままで、金曜の夜よりもかえって重かった。
隣の部屋の子どもの声も、今日は聞こえなかった。みんな、土曜日の午後を、どこかで使っているのだろう。
上体を起こした。起こしただけで、息が上がった。足を床に下ろし、立ち上がる。
その瞬間、世界がぐらりと傾いた。
壁が斜めに迫ってきて、美優はとっさに手を伸ばした。掌が、冷たい壁紙に貼りつく。耳の奥で、水の中にいるような低い音が鳴っていた。心臓が、肋骨を内側から叩いている。
目を閉じて、数を数えた。一、二、三。四まで数えたところで、床がようやく水平に戻った。額に、冷たい汗が滲んでいる。壁から手を離すと、掌の形にうっすら湿った跡が残っていた。
起き上がるのが急すぎただけ。貧血かもしれない。理由を探しかけて、美優は途中でやめた。理由を探すことが、もう癖になっている。右のまぶたの痙攣も、指先の震えも探した理由で全部説明がついたことにして、ここまで来た。
洗面所で顔を洗った。鏡の中の顔は、眠ったはずなのに眠る前より削れて見えた。唇の色が薄い。
台所でやかんに火をかけたが、食べたいものが何も浮かばなかった。冷蔵庫には麦茶と卵が二個。卵を割る気力がどこにも見つからず、白湯を作ってベッドの縁に戻った。窓越しのパキラの葉先は、先週より茶色く広がっていた。水をやらなければ、と思っただけで、窓まで歩く距離が遠かった。
先週の土曜日は、誰にも言わずに会社へ出て、木村の案件のデータを整理し直した。その前の週は、昼過ぎまで眠って、起きてからまた仕事の続きをした。週末という言葉が指す時間は、いつのまにか、休むための時間ではなくなっていた。眠るか、仕事の残りを片づけるか。その二つのあいだを行き来するだけだった。
スマートフォンには、いくつか通知が溜まっていた。母から、〈寒くなってきたから、あったかくしてね〉。グループチャットの未読が十二件。それから、梨沙から、二日前のメッセージ。
〈映画、今週末はどう? 無理なら全然いいよ〉
美優はそれを、もう一度読んだ。二日間、開いては閉じていた。返信を打ちかけて、消す。〈ごめん、体調が悪くて〉。打ち込んでみて、その文字の並びが先月もその前の月も同じだったことに気づく。送信した。送ってしまってから、画面に表示された「既読」の二文字をしばらく見ていた。
夕方の五時が近づいていた。分かっていたが、カーテンを開けには立たなかった。
着信音が鳴ったのは、そのときだった。
画面に表示された名前は、梨沙だった。メッセージではなく、電話だった。出るかどうか迷った。三回鳴り、四回鳴り、美優は親指で緑のボタンをなぞった。
「もしもし。寝てた?」
「……ううん。起きてた」
「よかった。声だけでも聞きたくなって。ごめんね、急に」
梨沙の声はいつもと同じ、少し低くて、語尾が丸い声だった。電話口の向こうで、食器の触れ合う音がしている。台所にいるのかもしれない。大学の頃、梨沙の部屋で何度も一緒に夕飯を作った。カレーのルウを入れすぎて、二人で笑ったことがある。
「メッセージ、見たよ。体調、悪いの?」
「うん。ちょっと。ごめんね、また行けなくて」
「映画は逃げないからいいよ。それより」
梨沙は、そこで少し間を置いた。
「声、変だよ」
「そう? 風邪かも」
「風邪の声じゃないと思う」
美優は笑ってごまかそうとした。口の端を上げて、息を吐く。けれど、出てきたのは笑い声のかたちをしていない、乾いた音だった。笑い方を、いつの間にか忘れていた。
「仕事が落ち着いたら、また会えると思う」
「いつ落ち着くの」
答えられなかった。落ち着く日が、いつ来るのか。そもそも来るのか。美優の頭の中に、カレンダーの数字が浮かんだ。十一月、十二月、年度末。繁忙期の外側に、また別の繁忙期があるだけだった。
沈黙が続いた。梨沙は急かさなかった。電話の向こうで、蛇口が閉まる小さな音がした。
「病院には行った?」
「そこまでじゃないよ」
「そこまでじゃない人が、土曜日に電話に出るだけで、そんなに疲れた声になる?」
責める声ではなかった。ただ、事実をテーブルの上に置くような言い方だった。美優は、スマートフォンを持つ手をゆっくり膝へ下ろした。画面の向こうで、梨沙がまだ待っている。
口を開いたとき、言おうとしていた言葉とは違うものが出てきた。
「……怖いんだ」
自分で言って、自分で驚いた。
「朝、目が覚めるでしょう。そのとき、会社に行くって考えただけで、息が浅くなる。スマホに部長の名前が出るのも怖い。メールの件名が赤く見える。誰かに助けてって言ったら、何かが壊れる気がして、それも怖くて」
言葉は一度出始めると止まらなかった。順番も、整理もなかった。さっきのめまいのこと。夜、眠れないのに朝は起きられないこと。食べ物の味が、よく分からないこと。五時のチャイムを、もう何も感じずに聞いている自分のこと。
梨沙は、相づちだけを打っていた。うん。うん。それは、怖いね。ときどき、紙をめくるような音がした。メモを取っているのかもしれない、と一瞬思ったが確かめはしなかった。
気づくと、頬が濡れていた。
「ごめん、まとまらなくて」
「まとまらなくていいよ。聞いてるから」
「……ありがとう」
「ねえ、美優。一つだけ言ってもいい?」
「うん」
「それ、一人で抱えられる大きさじゃないと思う。一度、見てもらったほうがいい。診てもらうのは、大げさなことじゃないよ」
美優は返事ができなかった。梨沙も、それ以上は押さなかった。「夜、また電話してもいい?」とだけ聞いて、美優が「うん」と言うと、「じゃあ、あったかくして、何か食べてね」と言って、電話を切った。
通話の終わった画面は、黒くなって、窓の薄明かりを映していた。
しばらく、そのまま座っていた。それから、美優は指を動かして、近くの医療機関を調べた。駅前の商店街の奥にある、小さなクリニックが出てきた。口コミは多くない。土曜の午前も診てくれるらしい。予約フォームを開く。氏名、生年月日、電話番号。そこまで入力して、手が止まった。
仕事を休むように言われたら、どうすればいいのだろう。
来週の月曜には、朝一の会議がある。そのあとにも、入稿が三件ある。部長に何と言えばいいのか。そもそも、休めると言われて、休めるのか。頭の中で、いくつもの「もしも」が、順番に起き上がった。
けれど、同じ画面を睨んだまま、もうひとつの「もしも」も浮かんだ。このまま、今まで通りに働き続けたら。今日のめまいが、来週は職場の階段の途中で起きたら。
美優は画面を閉じなかった。翌週の土曜の午前、十時四十分。空いていた枠は、そこだけだった。予約の確定ボタンを押すと、〈ご予約を承りました〉という短い文字が表示された。指先が冷たくなっていた。
その夜は、疲れているのに眠れなかった。
夜十一時を過ぎても、天井の隅の暗がりを見ていた。目を閉じると、瞼の裏に鈴木部長の声が浮かぶ。「スピード感のある人材が必要なんだ」。穏やかで、粘りつくような声。その声が、頭の中で、何度も同じ抑揚で繰り返される。
重い石が詰まったようだった。息を吸おうとすると、肺の途中で空気が止まる。美優は身体を起こし、枕元の水を一口飲んだ。手のひらを胸に当てた。鼓動が、速い。
このままでは、壊れてしまう。
それは、考えよりも先に、身体の底から、ひとりでに浮かんできた言葉だった。美優はその言葉を、暗い部屋の中でしばらく黙って見つめていた。
スマートフォンを手に取った。画面の明かりが、暗い部屋の中で顔だけを青白く浮かび上がらせる。検索窓に、指が勝手に文字を打ち込んだ。「転職サイト」。
大手のエージェントのサイトが、いくつも並んだ。どれを選べばいいのか分からず、一番上のものをひらく。トップページには、笑顔の男女の写真と、〈あなたの可能性を広げましょう〉という文字があった。可能性。その言葉が、今の自分の部屋とはあまりに遠い場所にあるものに思えた。
〈無料会員登録〉のボタンを押す。氏名。生年月日。年齢の欄には「27歳」と入れた。現在の勤務先、「株式会社アド・ヴァンスソリューションズ」。一文字ずつ打つたびに、指が重くなった。会社を裏切っているような気がした。誰に見られているわけでもないのに、画面の端を、手のひらで隠していた。
職歴の欄に、一社しかなかった。新卒で入って、五年。年数を選択する欄で「5年」を選んだとき、指が一度、画面の上で止まった。五年間、何もしてこなかったわけではない。そう思えたのは、ほんの一瞬だった。けれど、その一瞬は確かにあった。
〈登録を完了する〉。
押した。画面が切り替わって、〈ご登録ありがとうございました〉と表示された。スマートフォンを胸に伏せると、心臓がまだ速く打っているのが、掌に伝わってきた。
けれど、その鼓動は、さっきまでのものとは少し違っていた。恐怖だけではなかった。何か月も忘れていた、小さな、けれど確かな熱のようなものが、その底に混じっている。
登録確認のメールが、すぐに届いた。件名を読もうとしたところで、画面の上に別の通知が滑り込んできた。会社のチャットだった。
〈月曜朝一の会議資料、念のため確認しておいて〉
送信者は鈴木部長だった。時刻は、二十三時四十八分。土曜日の夜だった。
美優は、通知を見つめた。指先が、反射的に動いた。開いて、返信して、確認を始めようとする、身体に染みついた動き。親指が画面の上で、ほんの数ミリ、浮いた。
開かなかった。
理由は、はっきりしなかった。決意と呼べるほど立派なものでもない。ただ、今夜はもう、開く力が残っていなかっただけかもしれない。美優はスマートフォンを伏せて、枕の脇に置いた。伏せた画面の下で、通知の光が布団の隙間からかすかに漏れていた。やがて、それも消えた。
窓のほうを見た。カーテンの端の隙間に、夜の空が見えた。向かいの建物の灯りが低い雲をぼんやり照らしている。日暮れを見損ねたのではない。見る余裕がなかったのだ。美優は暗い窓の向こうに目を向けたまま、しばらく動かなかった。
その色を、眠りに落ちるまでずっと見ていた。
日曜日は、昼まで寝て、夕方に会議資料を開いた。チャットの返信は、短く〈確認しました〉とだけ送った。嘘ではなかった。送ったあと、鼓動は案外静かだった。
月曜日の朝、美優は始業の二十分前にオフィスに着いた。エレベーターを降りて、フロアの扉の前に立つ。取っ手に手をかけたところで、動悸が始まった。
ドクン、ドクン、ドクン。胸骨の裏側から、規則正しく、しかし速すぎる拍で血が押し出されていく。耳の後ろが熱い。掌が、じっとりと汗ばんでいる。扉の向こうに何があるのか、頭では分かっているのに、身体のほうが先に中に入ることを拒んでいた。
廊下の隅の、消火器のそばで美優は壁に背をつけた。深く息を吸う。吐く。それを三回繰り返した。動悸は、完全には静まらなかった。けれど、手の震えは収まった。
「おはようございます」
後ろから声がして、振り向くと、木村が立っていた。コートの襟元に、小さなマフラーが覗いている。
「あ、おはよう」
「佐藤さん、顔色が」
「大丈夫。ちょっと走ってきたから」
木村は何か言いたそうな顔をした。けれど、「そうですか」とだけ言って、先に扉を開けた。その背中についていくようにして、美優も中に入った。
始業前のフロアには、すでに鈴木部長がいた。自席で、PCの画面を見ながら、コーヒーを飲んでいる。美優の姿に気づくと、顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「おはよう、佐藤さん。資料は見てくれたか」
「はい。確認しました」
「うん。君は、頼りになるな」
その一言で肩の力が少し抜けそうになるのが、自分でも嫌だった。身体は、まだ、この人の声に反応する。五年前、「期待してるぞ」と言ってもらった日のことを、身体が覚えていた。
朝一の会議は、四十分に及んだ。部長が資料の数字を指して、「ここはもう少しスピード感を持って詰められたはずだね」と言った。美優は「はい」と答えた。ホワイトボードの前に立っている部長の背中の向こうで、窓の外の空が薄い灰色に曇っていた。
その会議の途中で、またそれが来た。
視界の端が、白くちらつく。数字が、ゆっくり揺れ始める。資料の紙を持つ手が、わずかに震えていた。美優はペンを握りしめて、机の下で自分の膝を強くつねった。痛みで、現実に意識を引き戻す。
「佐藤さん、聞いてる?」
「はい、すみません。聞いています」
「じゃあ、この媒体の件、どう思う」
「……再度、数字を確認します」
部長は少し目を細めて、美優の顔を見た。それから、何も言わずに次の資料へ移った。その視線が、ほんの数秒、自分の顔に留まったことが、会議が終わったあとも、美優の背中に残っていた。
昼休み、美優は誰にも言わずに、ビルの非常階段へ出た。踊り場の鉄の手すりが、冷たい。下を覗くと、六階分の階段が暗い口を開けている。ここで立ち止まっている自分の姿を、誰にも見られたくなかった。
スマートフォンを取り出して、予約確認のメールを開いた。〈土曜日 十時四十分〉。その文字を、何度も読んだ。土曜日まで、あと五日ある。それまで、毎日この職場に来なければならない。けれど、その先に、行く場所が一つだけあるのだと思うと、胸の重さがやわらいだ。
ちょうど、階段の下から、足音が近づいてきた。清掃員の女性だった。ゴムの靴が、鉄の段を擦る。美優と目が合うと、彼女は軽く会釈して、「冷えますよ、そこ」と言った。
「あ、はい。ありがとうございます」
「風邪ひくから、中で休まないとね」
そう言い残して、彼女はまた階段を降りていった。名前も知らない人の、ほんの短い言葉。美優はもう一度、手すりを握った。冷たさが、掌の汗を、冷やしていった。
その週は、毎日、同じことが起きた。朝、扉の前で動悸がする。午前中は、数字の列が揺れる。午後三時を過ぎると、ひどい眠気に襲われる。夜、帰宅すると、食べ物を前にしても箸が進まない。
それでも、なんとか金曜日までもたせた。木曜の夜には、〈来週の会議の日程を前倒ししたい〉という部長のメッセージにも、〈承知しました〉と返事をした。ただ、その返事を打つとき、指の動きが前より遅かった。遅くなった自分の指を、美優は他人のもののように眺めていた。
土曜日の朝は、アラームが鳴る前に目が覚めた。
珍しく、六時台だった。窓の外はまだ薄暗く、冷え込んでいた。身体を起こすと、めまいは来なかった。代わりに、胃のあたりが縮こまっていた。クリニックへ行く。その一歩が、まるで遠い見知らぬ町へ旅立つような気持ちにさせる。
洗面所で顔を洗い、コンシーラーを手に取ろうとして、やめた。今日は、隠さなくていい。そう思って、素顔のまま、薄いグレーのコートを羽織った。
駅前の商店街は、土曜の午前の、ゆったりとした人通りだった。パン屋の前を通ると、焼きたての匂いが冷たい空気の中に流れてきた。八百屋の店先に、柿が積まれている。魚屋の水槽では、小さな鯛がゆらゆらと泳いでいた。ほんの少し前まで、こんなものが目に入らなかった。商店街の奥、古いタイル張りのビルの二階に、クリニックの小さな看板が出ていた。
待合室には、美優のほかに二人しかいなかった。壁際の観葉植物の葉が、艶やかに光っている。受付で保険証を出すと、事務の女性が問診票を挟んだボードを渡してくれた。
問診票には、質問が並んでいた。眠れていますか。食欲はありますか。仕事を休めていますか。気分の落ち込みはありますか。美優はペンを握り、「ときどき」に丸をつけた。本当は、毎日だった。けれど、紙の上の「毎日」という字はあまりにも重く見えた。軽いほうの言葉を選んでしまう自分の癖が、ここでも出ていた。
名前を呼ばれた。診察室に入ると、白衣の医師が静かにこちらを向いた。四十代くらいの、やわらかい目をした男性だった。
「佐藤さん、こんにちは。今日は、どんなことで来られましたか」
美優は少し迷ってから、めまいと、動悸と、眠れないことを話した。医師は、遮らずに聞いた。ときどき、頷きながら、手元のカルテに何かを書き込んでいる。
「お仕事は、どのくらいの時間、されていますか」
「だいたい、朝八時半から、夜の十一時くらいまでです」
「休みは」
「土日が休みです」
医師はペンを止めた。
「土日に、休めた実感はありますか」
美優は答えようとして、言葉が出なかった。診察室の壁の時計が、カチ、カチ、と音を刻んでいる。
眠っている。確かに、たくさん眠っている。けれど、回復した気は、一度もしていなかった。日曜日の夕方になると、胸が重くなる。サザエさんのテーマ曲を聞くわけでもないのに、月曜日の始業時刻を、頭の中で数えている。
「……ないです」
やっと出てきた声はかすれていた。医師は、ゆっくり頷いた。
「そうですか。話してくださって、ありがとうございます」
それから、体の症状について、いくつかの確認があった。脈を取り、血圧を測り、眠りの様子や食事のことを尋ねた。診断名は、口にされなかった。医師は、「今の状態では無理に働き続けないほうがいい」と、はっきり言った。
「今後の働き方については、休養のことも職場への相談も含めて、一度、考えてみてください。必要なら、診断書を書くこともできます。急いで答えを出さなくて大丈夫です」
美優は小さく頷いた。頷きながら、頭の隅では週明けの会議のことを考えていた。診察室の中で、そんなことを考えている自分が、可笑しいくらいに悲しかった。
会計を済ませて、外に出た。商店街の空気は、さっきより少し暖かくなっていた。診察券を財布に入れる手が、まだ少し震えていた。
駅前の喫茶店は、診察のあとに行くと決めていた。梨沙が、昨夜の電話で「終わったら、そこで待ってる」と言ったからだ。昭和の頃から続いているような店で、入口の木の扉に真鍮のベルがついている。扉を押すと、乾いた音が鳴った。
窓際の四人掛けの席に、梨沙が座っていた。紺色のカーディガンの袖を、少したくし上げて、文庫本を読んでいる。美優に気づくと、栞を挟んで本を閉じ、「おつかれ」と笑った。その顔を見ただけで、美優の目から、涙がこぼれた。
「え、ちょっと」
「ごめん。ごめん、なんでもない」
「なんでもなくないでしょう。座って」
梨沙は紙ナプキンを二、三枚取って、テーブルの上を滑らせた。美優は椅子に腰を下ろし、ナプキンで目を押さえた。店内には、低くジャズが流れている。カウンターの奥で、サイフォンの湯がこぽこぽと上がっていく音がした。
「ごめん、こんな話ばっかりで」
「こっちは会えてうれしいけど」
梨沙は運ばれてきたコーヒーに、角砂糖をひとつ落とした。スプーンで混ぜながら、さらりと言う。
「美優が楽しい話しかしちゃいけないなら、友達じゃないよ」
その言葉に美優はうまく笑えなかった。笑おうとして、口の端が震えた。
友達の前では、明るい自分でいなければいけないと思っていた。しんどいと言えば、相手を困らせる。迷惑をかける。そう信じて、梨沙の誘いを何度も断ってきた。断るたびに、「また今度ね」と書いた指先が、少しずつ冷たくなっていった。
「診察は、どうだった」
「診断名とかは言われなかった。でも、今のまま働き続けないほうがいいって」
「そっか」
梨沙はそれ以上、何も足さなかった。「やっぱりね」とも、「大変だったね」とも言わなかった。コーヒーをひと口飲んで、カップを皿に戻した。陶器の触れ合う、小さな音がした。
「お腹、空いてる?」
「……あんまり」
「じゃあ、何か頼もう。卵サンドとか、どう。ここの、ふわふわなんだ」
美優が答える前に梨沙は手を挙げて、店員を呼んでいた。「卵サンドと、ホットミルクをひとつ。あと、取り皿をください」。慣れた口調だった。昔から、梨沙は、そうやって、誰かの空腹に先回りする人だった。
サンドイッチは、思ったより小さかった。薄く切った白いパンの間に、黄色い卵がとろりと挟まっている。梨沙が一切れを取り皿に載せて、美優の前に置いた。
「食べられる分だけでいいから」
美優はそれを両手で持った。指先に、パンの温かさが伝わってきた。ひと口かじる。卵の甘さと、バターの塩気が舌の上に広がった。ずいぶん久しぶりに、食べ物の味がした、と思った。
「……おいしい」
「でしょ」
梨沙は得意げでもなく、ただ、うれしそうに笑った。
半分ほど食べたところで、美優はぽつりと言った。
「先週の土曜の夜ね、転職サイトに登録したんだ」
「うん」
「勢いで。眠れなくて。……でも、まだ何もしてないの。辞めても、次がなかったらどうしようって」
「それは怖いよね。まあ、貯金はあるでしょ。使う暇、なかったんだから」
「ひどい」
「事実じゃん」
梨沙は悪びれずに笑った。慰めにも励ましにもなっていないのに、なぜか、肩が軽くなった。
「大学まで出たのに、私、何もできない人間みたいで。五年もいて、この会社でしか通用しない人間なんじゃないかって」
「美優が何もできないなら、毎晩遅くまで何をしてるの」
梨沙の声は責めてもいないし、励ましてもいなかった。本当に不思議に思っている、という聞き方だった。美優は言葉に詰まった。
毎晩、遅くまでしていること。企画書を書く。クライアントの電話に対応する。数字を直す。後輩の資料に目を通して、赤を入れる。木村の原稿を、誰にも頼まれないのに、夜中に直したこともある。
そのどれもが、実際にあった仕事だった。けれど、部長に一度叱られると、全部が価値のないもののように思えてしまう。積み上げたはずの五年が、一言でばらばらの紙くずに戻る。
「……何かは、してる、と思う」
「でしょ。それを、全部なかったことにしちゃうのは、ちょっと違うんじゃない」
梨沙はホットミルクのカップを、美優のほうへ寄せた。表面に、うすい膜が張りかけている。
「ねえ。私、総務でしょう。いろんな人の退職の手続きを見てきたけどね。辞めた人が、全員、何もできない人だったかっていうと、ぜんぜん違うよ。むしろ、頑張りすぎて、気づいたら動けなくなってた人のほうが、多い」
美優は宮下のことを思い出した。真面目な人から先に壊れるから、気をつけて。引き出しの中の、折りたたまれた紙。
「……うん」
梨沙はそれきり何も足さず、自分のコーヒーに口をつけた。
美優はホットミルクを、口に運んだ。熱さが、喉をゆっくり降りていった。
窓の外を、買い物袋を提げた親子が、通り過ぎていく。子どもが、手に持った風船を離しそうになって、母親が笑いながら、紐を握り直した。ベルの音が鳴って、新しい客が入ってきた。冷たい空気が、店の中に流れ込んで、また静かになった。
会計は、梨沙が出してくれた。「今日は、私が誘ったから」と言って、財布を出す美優の手を、軽く押し戻した。
店を出ると、空は、薄い水色をしていた。午後の光が、商店街のアーケードの隙間から、斜めに差している。
「来週さ、散歩でもしない?」
駅の改札の手前で梨沙が言った。
「散歩」
「うん。公園とか、川沿いとか。何も観なくていいし、何も食べなくていい。ただ、歩くだけ」
美優は答えに迷った。来週の自分が、どんな状態なのか、分からなかった。約束をして、守れなかったら。そう考えただけで、胃のあたりがまた硬くなった。
「……行けるか、分からない」
「じゃあ、当日の朝に決めよう。その日の朝、起きて、行けそうなら行く。無理なら、無理でいい」
予定を守れなくても責めない、と言ってくれる人がいる。美優は、梨沙の顔を見た。梨沙は、ごく普通の顔で改札のほうを指さしている。
「じゃあ、そうする」
「うん。連絡は、朝でいいからね」
梨沙は手を振って、反対側のホームへ歩いていった。紺色のカーディガンが、人の流れの中にすぐ紛れた。
電車に乗ると、座席の窓に自分の顔が映った。目の下の影は、まだ消えていない。頬も、少し痩せたように見える。けれど、さっきまでの顔と、ほんのわずかに何かが違っていた。
座席に座って、膝の上の鞄を抱え直した。診察券と、予約確認のメールと、転職サイトのログイン画面と、梨沙の言葉。それらが、頭の中で、ばらばらに並んでいる。まだ、何ひとつ、決まっていない。
それでも、喫茶店から駅までの短い道を、美優は急がずに歩けた。それを、電車の揺れの中でもう一度、思い出していた。




