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そして、五時の空を知る  作者: 久遠 睦


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第二章 責任という名の鎖

翌日の午前、給湯室で後輩の木村と二人きりになった。電気ポットのスイッチを入れたところで、木村が壁にもたれたまま、ぽつりと言った。目は少し赤く腫れている。

「佐藤さん……私、もう限界かもしれません」

絞り出すような声だった。紙コップを持つ木村の指先が、白くなっている。

美優は、共感の痛みを覚えた。それは確かに痛みだった。けれど口から出たのは、何年もかけて身体に染みついた、会社の言葉だった。

「大変だけど……チームのためにもう少し頑張ろう。鈴木部長も、熱意があるだけだから」

言い終えた瞬間に、自分の声が他人のもののように聞こえた。それは木村に向けた言葉であると同時に、毎朝自分に言い聞かせている言葉でもあった。辞めたい、でも辞められない。その理由は、恐怖だけではない。「チームを裏切れない」「自分がいなくなったら迷惑がかかる」。

電気ポットの湯が沸く前に、木村の目から涙が落ちた。小さな電子音に驚いたように、彼女は袖で目元を拭った。

「昨日、提出した原稿、最初の指示と違うって言われて。直していたら、また違うって」

「私もそういうこと、あるよ」

美優はそう答えてから、慰めになっていないと気づいた。同じ目に遭っていることは、相手の痛みを軽くはしない。

「佐藤さんは、どうやって耐えてるんですか」

すぐには答えられなかった。耐えているのだろうか。ただ、今日まで辞めずにいただけではないのか。

「慣れる、かな」

木村は頷かなかった。うつむいたまま、「慣れたくないです」と言った。その声が、美優の胸に長く残った。湯が沸いた。二人とも、お茶を淹れないまま、給湯室を出た。

その日の昼、美優は珍しくデスクを離れた。給湯室を出たあとも肩を落としたままの木村に、美優のほうから「お昼、外で食べない?」と声をかけたからだ。ビルの裏手に、ベンチが二つだけ置かれた小さな公園がある。銀杏の葉が、足元に黄色く積もっていた。

二人は並んで座り、コンビニのサンドイッチを開けた。木村は一口食べて、「外の空気、久しぶりです」と言った。それから、スマートフォンのケースの内側から、折りたたんだ小さな紙を取り出した。

「大学のとき、デザイナーになりたかったんです。ポスターとか、パッケージとか。卒業制作で作ったやつ、これ」

紙には、手描きのイラストが印刷されていた。海辺の街の朝を描いた、淡い水彩のポスターだった。水平線のあたりに、細い光が一本、走っている。

「きれいだね」

「ありがとうございます。広告の会社なら、近い仕事ができるって思ったんですけど。……最近、絵、全然描いてなくて」

木村は笑って、サンドイッチの包み紙をたたんだ。笑っているのに、声の端がかすれている。

美優は、自分が何か答えようとしているのに、口が動かないことに気づいた。かつて自分にも、描きたいものがあった。広告の仕事を選んだのは、商店街の小さな店が、元気になる手伝いをしたかったからだ。いつから、そんなことを思い出さなくなったのだろう。

「また、描けるよ」

言った途端、それが無責任な言葉に聞こえた。何を根拠に。この会社にいて、いつ、どうやって。けれど木村は、頷いた。「描けるといいなって、思います」。二人の昼休みは、そこで終わった。

会社のビルへ戻る途中、木村が、空を見上げて立ち止まった。

「今日、天気いいですね」

美優もつられて空を見た。ビルとビルの隙間に、細い青がのぞいている。それはポスターの水平線の光に、似ていた。

午後のチームミーティングで、鈴木部長はまたしても非現実的な納期を提示した。三件の案件を、明後日の夕方までに全て入稿する。人員は変わらない。会議室のホワイトボードに、赤い字で日付だけが大きく書かれた。

「あの、部長」

手を挙げたのは田中だった。声が少し裏返っている。

「現状のスケジュールだと、制作の確認工程が全部飛ぶことになると思うんですが……」

一瞬で、部屋の温度が下がった。部長は田中の顔をまっすぐ見たまま、しばらく黙っていた。それから、言った。

「できないとでも言うのか。このチームはプロ集団だと思っていたがな。やる気がないなら、ここにいる意味はないんじゃないか」

怒鳴ってはいない。机も叩かない。だからこそ、その言葉は逃げ場なく全員の胸に届いた。田中は「いえ、あの」と言ったきり、口を閉じた。誰も助け舟を出さなかった。美優も出せなかった。ペンを持つ手が、膝の上で固く握られていた。

異を唱える者を、やる気がないと呼ぶ。従順な者だけが残っていく。この会社では、過去一年で三人が辞めていた。宮下を含めて三人。社内では「根性のない奴が淘汰されただけ」と語られていたが、それが一年に三人、小さな会社で起きているということの異常さを、誰も数字にして口にしなかった。数えれば、数えたことが罪になるような空気があった。

会議が終わるまでの二時間、美優の心の中では、留まる理由と去るべき理由が静かにせめぎ合っていた。転職活動をする時間も気力もない。次の職場がもっとひどかったらどうしよう。そして何より、鈴木部長を裏切ることへの、歪んだ恩義が重くのしかかっていた。

五年前の面接を、今でもはっきり覚えている。就職活動は思うようにいかず、受けた会社からは立て続けに不採用の通知が届いていた。九社目か十社目に、この会社の面接を受けた。小さなビルの小さな会議室で、鈴木部長は履歴書を読み、それから言った。「君の志望動機は、よく分からないな」。美優は凍りついた。ところが部長は、笑ってこう続けたのだった。「でも、嘘がつけない人間だということは分かった。うちは若い人に、どんどん仕事を任せる。やる気があるなら、来なさい」。

あのとき、世界が少し明るくなった気がした。美優は今でも、あの会議室の机の傷や、窓から入っていた夕方の光まで、思い出せる。感謝は本物だった。だからこそ、その感謝が今、自分を縛る鎖の一部になっていることが、どうしようもなく苦しかった。

その日の会議の終盤、美優はメモの端に、実際に必要な作業時間を書き出していた。素材確認に二時間。コピー案の修正に三時間。デザイン確認と入稿準備に四時間。一案件で九時間。三案件で二十七時間。部長の示した納期は、翌々日の夕方だ。物理的に、足りない。

木村が入社したばかりの春のことを、美優は思い出していた。教育係を任されて、最初の一週間、美優は自分が新人だったときのメモを、A4三枚にまとめて渡した。電話の取り方。議事録の書き方。部長の機嫌が悪いときの見分け方。〈分からないことは、分からないうちに聞く〉と、最後に赤ペンで書き添えた。木村は、それを大事そうにファイルに挟んだ。

あの頃は、自分が頼られていることが、素直にうれしかった。終電まで一緒に残って、木村の原稿に赤を入れた。「先輩がいてくれるから、頑張れます」。そう言われるたびに、胸が温かくなった。けれど今にして思えば、あれは、遅くまで残ることを美徳として教えていたのと同じだった。木村に、自分と同じ働き方を、手取り足取り教えていたのだ。

その責任の重さに気づいたのは、つい最近のことだった。

「部長、品質を保つには、どれか一件の納期を調整する必要があります」

美優が口にすると、部屋の空気が変わった。木村が、身を固くしたのが分かった。

「できない理由を並べる前に、できる方法を考えて」

「方法を考えるために、優先順位を確認したいんです」

自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。部長は返事をしなかった。美優の顔を見ようともせず、田中に別の案件の進捗を尋ねた。話題は、何事もなかったように流れていった。

会議後、廊下で田中が追いかけてきた。

「さっきの、正しいと思います」

「じゃあ、会議で言ってほしかった」

言った途端、田中の顔がこわばった。取り消そうとしたが、口の中で形にならなかった。田中は「すみません」と小さく言って、目をそらした。

田中だって、さっき一度は声を上げたのだ。喉を絞るようにして。その勇気を、美優は労うべきだった。部長に向かえなかった苛立ちを、より近くて弱い相手にぶつけただけだった。

翌日の昼、美優は給湯室で田中に缶コーヒーを差し出した。「昨日はごめん。あなたは悪くない」。田中は驚いた顔をして、それから、ぎこちなく笑った。「僕のほうこそ。……佐藤さんが言ってくれて、助かりました」。二人は並んで缶を開けた。ほんの数分の沈黙が、昨日の棘を溶かした。

その夜、残業をしていた美優は、部長に呼ばれた。会議室に二人きり。蛍光灯の一部だけが点いていて、机の上に、折りたたまれた資料がひとつ置かれていた。

「そこに座って」

言われるまま腰を下ろすと、部長は穏やかな声で話し始めた。

「君にはずっと期待している。実は、来期から課長職を新設する話がある。君は、その最有力だと思っている」

予想していなかった言葉に、美優は瞬きをした。課長。責任ある役職。給与も上がるだろう。五年間、誰にも言われたことのなかった評価が、今になって差し出されている。

「ただね、課長になるなら、チーム全体の底上げも君の仕事になる。たとえば木村くん。最近、少したるんでいるようだな。君から、もう少し引き締めてやってくれないか」

何かが、かすかに軋んだ。「たるんでいる」。給湯室で泣いていた木村の顔が浮かぶ。先日の別の案件でも、部長からの伝達が抜け、木村が責められたことがあった。それでも部長は、あくまで穏やかに、それが木村の問題であるかのように話している。

「木村さんは、真面目に頑張っていると思います。ただ、少し疲れているようで」

「疲れる? 若いうちは疲れるくらい働いて、ちょうどいいんだ。君だって、そうして育ってきただろう」

反論の言葉は、頭の中にいくつも浮かんだ。ひとつも声にならなかった。部長が見せたのは、怒りではなく、期待だった。期待というやり方で、美優の背中は少しずつ押されていく。押された先に、崖があるのか、階段があるのか、分からないまま。

「少し、考えさせてください」

「考える必要はないだろう。君ならできる」

部長は笑って席を立った。扉が閉まる音のあと、会議室には美優だけが残った。机の資料を開くと、課長職の人事案ではなく、来期の売上計画だった。右肩上がりの太い矢印が、一枚目にでかでかと描かれていた。人数の欄は、現状のままだった。

美優は資料を閉じ、天井の蛍光灯を見上げた。課長になれば木村を守れるだろうか。それとも、部長と同じ言葉を木村に言う日が来るのだろうか。帰りの電車で、美優はつり革を握ったまま答えを出せなかった。

その晩、木村からメッセージが届いた。

〈私、明日、休んでもいいでしょうか〉

美優は〈もちろん〉と打ち、そこで指を止めて、消した。自分は許可する立場ではない。許可というやり方で話すこと自体が、会社のやり方の延長にあるような気がした。〈体調が悪いなら休んで。必要なら私から業務の状況を説明する〉と送り直した。しばらくして、〈ありがとうございます〉の文字が届いた。短い返事だったのに、美優はスマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。

ところが、その夜遅く、木村のアカウントに、部長から連絡が入った。

〈明日の朝イチで、修正版を。休むなら、調整しておくこと〉

〈調整〉という二文字を見たまま、美優は画面を伏せた。五分後、また開いた。美優はチャットを閉じ、自分で修正版の下書きを作り始めた。木村の名前で出すか、自分の名前で出すかは、まだ決めなかった。ただ、明日の朝に木村が目を覚ましたとき、すべてが片づいているわけではないが、少なくとも、最悪の山は低くなっているようにしたかった。

作業を終えたのは午前一時を回っていた。木村の仕事を肩代わりすることに、わずかな満足を覚えていた。誰かを守っているという実感は、疲れの底に、甘い痛みのように沈んでいた。

翌朝、エレベーターで部長と一緒になった。二人きりの狭い箱の中で、部長は階数表示を見たまま、何気なく言った。

「木村くん、今日は休みだそうだな。体調管理も仕事のうちだぞ」

「はい。すみません。私のほうで、お客様への連絡は済ませてあります」

「そうか。それなら、いい」

部長は、それで満足したようだった。扉が開き、先に降りていく。その背中に向かって、美優はもう一度「すみません」と言いかけ、唇を閉じた。木村が休んだことについて、謝る理由はなかった。

フロアのドアを開けると、窓から晩秋の朝の光が差し込んでいた。美優の席の背中側の窓。いつもその光は、背中に当たるだけで、見えない。振り返れば、光の源が見える。けれど今日も、美優は椅子に腰を下ろして、画面のほうを向いた。

木村の席にはまだ、誰もいなかった。美優は鞄を置き、冷めたままの水をひと口飲んだ。

木村は、その日と翌日の二日休んで出社した。美優が「具合はどう」と尋ねると、木村は「もう大丈夫です」と答えた。その返し方が、自分とそっくりで、胸がつまった。美優は「そう」とだけ返した。木村も、それ以上は言わなかった。

火曜の朝のことを、美優はまだ誰にも話していない。

いつもの時刻に最寄り駅へ着き、改札にICカードをかざそうとした。その手が、動かなかった。ホームの電光掲示板には、次の電車の到着を知らせる表示が出ていた。人の流れが、美優の左右を川のように通り過ぎていく。誰かの鞄が肘に当たった。「すみません」という声が、遠くで聞こえた。足は床に貼りついたままだった。

理由は、なかった。ただ、この改札を通れば、電車に乗れば、新宿に着いてしまう。そう考えるだけで、身体が石になった。時計の針は、一分、二分と進んでいく。遅刻の二文字が、頭の中で赤く点滅した。それでも、足は動かない。

やがて、背後から「あの、通れますか」と、年配の男性に声をかけられた。美優は我に返り、慌てて脇に寄った。男性は軽く会釈して、改札を抜けていった。五分遅れの電車に乗って、結局始業には間に合った。その間、一度も、誰にも気づかれなかった。気づかれなかったことが、何よりも恐ろしかった。

その週末、美優は土曜日に会社へ出た。木村の担当案件のデータを、誰にも言わずに整理し直すためだった。フロアは静まり返っていて、誰もいないオフィスに、エアコンの音だけがぼんやりと響いている。

作業を始めて一時間ほどで、背後から足音がした。木村だった。休日の私服姿だった。

「佐藤さん、どうして」

「ちょっと、気になって。木村さんこそ」

「私も……家にいると、考えちゃって。来たら、少し落ち着くかなって」

二人は顔を見合わせて、同時に笑った。笑い声は、誰もいないフロアですぐに消えた。

「帰りましょうか」

「うん」

結局、二人は一時間足らずで会社を出た。駅へ向かう途中、並んで歩きながら、木村が言った。

「佐藤さんがいなかったら、私、先月に辞めてたと思います」

「それ、あんまり言わないで」

「どうしてですか」

「私がいなくなったら、木村さんも辞めちゃうみたいに聞こえるから」

美優は冗談のつもりで言った。木村は真顔で、「そうかもしれません」と答えた。その返事が、冗談として受け止められなかった。自分自身が、いつ崩れてもおかしくない杭なのに。

週明けの午後、木村の担当案件で誤植が見つかった。クライアントの社名の表記が、一文字、違っていた。原因は、部長が口頭で伝えた変更点が、チームに共有されていなかったことだった。誰かが悪意を持ってやったわけではない。口頭で、廊下で、立ち話で、決まっては変わっていく指示。それが誰の手にも渡らないまま、現場に取り残されたのだ。

木村は顔を青くし、画面に頭を近づけた。

「私が気づいていればよかったんです」

「変更を知らなかったんでしょう」

「でも、確認しなかったのは私です」

美優はそれ以上、言えなくなった。自分も何度、同じ言葉を使っただろう。知らされなかったことまで、自分の責任に変えてきた。責任感と呼べば聞こえはいい。けれど実際には、他人の失敗を自分の中に溜めこむ癖が、五年かけて美優の身体を作り替えていた。

翌朝、美優が木村の作業フォルダを開くと、ファイル名の末尾に見慣れない文字があった。〈木村確認前〉。前夜、美優が直しておいた原稿だった。木村は画面を見たまま、「これ、佐藤さんが修正したんですか」と尋ねた。

「うん。社名のところだけ。確認の負担を減らせると思って」

「私、お願いしましたっけ」

思いがけない声の硬さに、美優は手を止めた。木村は怒鳴らなかった。ただ、普段なら何度も繰り返す「ありがとうございます」を口にしなかった。

「助かったんです。でも、私が間違えたまま出すと思われたのかなって。私にも、直す時間をください」

「そんなつもりじゃ……」

「分かっています。佐藤さんはいつも助けてくれます。でも、私の仕事だったってことまで、なくならないようにしたいんです」

美優は保存履歴を開いた。昨夜の時刻の横に、自分の名前が並んでいる。木村が仕事を覚えるための機会まで、先回りして消してしまったのかもしれない。

「ごめん。次からは、手を入れる前に聞く」

木村は頷いた。それから椅子を寄せ、「どこを直したか、一緒に見てもらえますか」と言った。二人で修正箇所を追いかけるうち、美優は初めて、木村が自分とは違う判断をしていたことを知った。木村の案にも、理由があった。

部長に経緯を説明すると、「誰のせいかじゃない。今どう収めるかだ」と返ってきた。正しいことを言われた気がして、余計に苦しかった。では、経緯を確かめる時間を与えないのはなぜだろう。何度も同じ失敗が起きる仕組みを変えないのはなぜだろう。問いは喉元まで来ていたが、部長はすでに電話を取り、別の誰かに笑顔の声で話しかけていた。

その日の夕方、総務から回覧が回ってきた。忘年会の幹事を、美優に任せる、という部長の指示だった。

〈全員参加。会費は一律五千円。団結を深める場として、積極的な参加を期待する〉。紙の最後には、部長の手書きの字で、「佐藤さんなら、すぐ手配できるな」と添えてあった。

店は、新宿の居酒屋に決めた。人数分の席と、予算の範囲のコース。電話で予約を済ませてから、出欠の表を作って社内に回した。返事は一時間で十七件、揃った。全員、〈出席〉に丸がついている。木村の欄にだけ、丸がなかった。〈検討中〉と書き込まれている。美優は、その字を見つめた。

欠席にもできたはずなのに、検討中。その曖昧さの奥に、木村の逃げ場のなさが透けていた。美優は表の〈検討中〉の横に、鉛筆で小さな点を一つだけ打った。点には何の意味もなかった。ただ、見ていますという印のつもりだった。

忘年会の幹事も、結局は自分の仕事になっていく。休日に動き、夜に店と調整し、当日は誰よりも早く行って席を確かめる。誰も頼んでいないのに、気づけば全部が「佐藤さんなら」の一言で、自分の側に積み上がっていた。

その夜の残業中、木村が席のそばに来た。コピー機の音に紛れるような小声だった。

「佐藤さん、私、辞めたほうがいいんでしょうか」

美優は椅子を引いて、体ごと木村のほうを向いた。「そう思う理由、聞いてもいい?」

「朝、駅で足が止まるんです。電車が来ると、乗ったら会社に着いちゃうって」

木村はそこまで言って、口をつぐんだ。美優は息を吸った。それは他人の話ではなかった。先週の火曜日、美優自身も改札の前で立ち尽くした。五分ほどだったと思う。年配の男性に声をかけられて、ようやく歩き出した。あのとき自分は、「少し眠かっただけ」と心の中でごまかしたのだった。

腕を組みかけて、やめた。会社の先輩として励ます言葉なら、いくらでも思いつく。でも彼女が必要としているのは、明日も働かせるための言葉ではない。

「私は、決めてあげられない。でも、休みたいとか、別の仕事を探したいとか、そう思うことを責めなくていいと思う」

木村は泣かなかった。ただ何度も頷いた。目の縁が赤くなり、それでも唇を噛んで、涙をこぼさないようにしていた。

「ありがとうございます。……私、佐藤さんに、そう言ってほしかったのかもしれません」

美優は言葉を返せなかった。自分が先日、給湯室で彼女に何と言ったかを思い出していたからだった。もう少し頑張ろう。あの一言が、まだここに残っている。取り消せないものが、確かにある。

その帰り道、美優は母に電話をした。夜風が冷たかった。コートのポケットに手を入れて、スマートフォンを耳に当てる。呼び出し音が三回鳴ったところで、母が出た。

「どうしたの、こんな時間に」

用件を聞かれる前に、美優は思わず口にしていた。

「最近、職場でうまくいってない」

母はしばらく沈黙した。電話の向こうで、何かを置く小さな音がした。台所にいたのだろう。蛇口の水が、止められた。

「あなたが悪いの?」

「分からない。私にも足りないところはあると思う」

「ちゃんと食べてるの? この前も声が変だった。休める日、ないの?」

母は昔から、心配になると食事の話をした。学生時代、試験に失敗して泣いて帰った日も、詳しい事情を尋ねるより先に、温かいうどんを作ってくれた。美優は電話を耳に当てたまま、実家の台所の湯気を思い出した。

「会社に迷惑をかけたくないんだよ」

「今すぐ帰ってこいとは言わないけど、せめて温かいものを食べなさい」

美優は返事を探した。生活という言葉の中身が、いつの間にか仕事だけになっている。朝起きること、食べること、眠ること、友達に会うこと。そういうものが、全部、仕事の余りになっていた。

「ごめんね、こんな夜に」

「謝らなくていいの。母親なんだから」

母は笑った。そして、「ご飯だけは、本当に、ちゃんと食べなさい」と言って、電話を切った。通話の終わった画面に、自分の顔がうっすらと映っていた。

アパートに帰って、美優はデスクの引き出しを開けた。奥のほうに、折りたたんだメモ用紙が一枚入っている。宮下が最後の日に置いていったものだ。美優は、それを持ち帰ってから初めて広げた。

〈真面目な人から先に壊れるから、気をつけて。美優ちゃんは、自分のこと、後回しにしすぎ〉

下に、小さな字で一行だけ添えてあった。

〈ほんとは、一緒に辞めようって言いたかった。ごめん〉

読み終えたとき、涙は出なかった。ただ、紙の端を指でなぞり続けていた。宮下は、ずっと見ていたのだ。見ていて、何も言えなかったのだ。その気持ちが、今なら少し分かる。美優は木村の顔を思い浮かべた。

メモを元の場所に戻さず、机の上に置いた。母の言葉と、宮下の字と、木村の「慣れたくないです」。三つが、頭の中で並んでいた。

スマートフォンが震えた。木村からだった。〈明日の資料、先に見ておきます。佐藤さんは、先に帰ってください〉。美優は〈ありがとう〉と打って、消した。〈一緒に見よう。八時に〉と打ち直して、送信した。


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