第一部 灰色の日々 第一章 終わらない夜
蛍光灯の白い光が、じりじりと肌を焼く。佐藤美優のパソコン画面の右下に表示された時刻は、二十二時十七分。新宿の雑居ビルにある小さな広告代理店「アド・ヴァンスソリューションズ」のオフィスは、キーボードを叩く音だけが響く不自然な静寂に包まれていた。
フロアに残っているのは六人。誰も喋らない。誰かが咳をすれば全員がそちらに耳を向け、すぐに何事もなかったように画面へ戻る。そういう静けさだった。
会社といっても、社員は二十人ほどだ。雑居ビルの六階を借り切った細長いフロアに、島が四つ。壁にはホワイトボードが掛かっていて、月間の売上目標を示す棒グラフが赤いマーカーで描かれている。その上に、誰が書いたのか分からない標語が貼ってある。〈スピードは信頼〉。美優が入社したときからずっと、同じ位置に同じ紙が貼られていた。端が黄ばんで、少し反っている。
「……また霞んできた」
美優は呟き、瞬きを繰り返した。クライアントに提出する企画書が、ぼやけた文字の羅列となって目に映る。朝八時半にデスクについてから、一度も席を立っていないような錯覚に陥る。実際には、トイレに立った数回と、デスクで五分でかき込んだ昼食の時間があったはずだが、記憶は曖昧だった。
この会社の勤怠システムは、午後六時になると自動的に「退勤」の打刻が入る。打刻のあとも仕事は続く。給与明細の「固定残業代」の欄には四十五時間分の金額が印字されているが、実際の残業はとうに百時間を超えていた。健康障害のリスクが高まるとされる「過労死ライン」の月八十時間という数字を、美優は他人事のように思い出していた。他人事でいなければ、数字の意味を考えてしまう。
入社したての頃は、遅くまで残ることに、ある種の誇らしさすらあった。先輩たちと並んで終電近くまで働き、帰りに牛丼屋に寄る。「うちは修羅場をくぐった数が違うから」と笑う先輩の横顔が、かっこよく見えた。あの頃の先輩たちは、もう半分も残っていない。誇らしさがいつ消えたのか、美優には思い出せなかった。気がついたときには、誇らしさのあった場所に、ただ疲れだけが残っていた。
背後を、鈴木部長が音もなく通り過ぎた。怒鳴りはしない。そういう人ではなかった。その代わりに、粘着質な声が鼓膜を揺らす。
「佐藤さん、まだ終わらないのか。田中くんはとっくに提出してきたぞ。うちにはスピード感のある人材が必要なんだ」
怒鳴られたわけではない。だから抗議する言葉も見つからなかった。美優は「申し訳ありません」とだけ返し、再び画面に向き直った。部長は返事を待たずに、フロアの奥の自席へ戻っていった。
午後五時を告げるチャイムは、五時間以上前に鳴っていた。隣のビルの会社が退勤時刻に流しているらしく、薄い壁を通して、ひどく間延びした電子音が届く。この会社に入った年は、毎日それを聞いて「あと三時間は頑張らなきゃ」と思っていた。いつからか、聞こえても何も思わなくなった。窓に背を向けた席からは、向かいの壁と、蛍光灯に照らされた書類の山しか見えない。五時の空がどんな色をしているのか、美優はもう長いあいだ知らなかった。
母から着信があったのは、午後七時過ぎだった。画面に表示された「お母さん」の文字を、美優は電話が鳴りやむまで見ていた。三分後、短いメッセージが届いた。
〈寒くなったね。ご飯、ちゃんと食べてる?〉
返信欄を開いたものの、何を書けばいいのか分からなかった。〈食べてるよ〉と打って送信すると、嘘をつくのが以前より簡単になったことだけが手に残った。
「佐藤さん、クライアントが明日の朝までに数字を差し替えてほしいって」
声をかけてきたのは田中だった。入社三年目の、美優より二つ年下の男性社員だ。彼の手には、帰り支度の鞄がある。
「どこの数字?」
「直近半年。媒体別に、全部」
「分析レポートも?」
「たぶん。部長が、佐藤さんならできるって」
田中は困ったような顔をした。田中も伝言を預かっただけだ。それでも「分かった」と答えてしまった自分に腹が立った。
「すみません、僕、手伝えなくて。明日の朝イチで別件が」
「大丈夫。帰って」
田中はもう一度頭を下げ、エレベーターのほうへ小走りに消えた。
データを開き直す。媒体別、月別、案件別。数字を一つ差し替えれば、それに連動する表とグラフと、グラフの下に添える二行のコメントが全部ずれる。修正は終わりのない間違い探しに似ていた。
美優の隣の席は春から空いたままだった。そこにいた宮下という先輩は、半年前に辞めた。送別会はなかった。最終出勤日に宮下は、美優のデスクに小さなメモを置いていった。〈真面目な人から先に壊れるから、気をつけて〉。美優はそれを持ち帰り、家の引き出しの奥にしまった。読み返せば、何かが変わってしまう気がして、読み返したことは一度もない。空いた席には今、段ボール箱と古いモニターが積まれている。誰も片づけようとしない。途中で、隣の島で作業していた後輩の木村が、ちらりとこちらを見た。目が合うと、彼女は何か言いかけて、やめた。美優は笑顔を作ろうとしたが、頬の筋肉がうまく動かなかった。
午後十一時を回ったころ、資料を出力しようとして、印刷機の前で用紙が詰まった。表示されたエラーを読んでも、意味が頭に入ってこない。文字は読めるのに、文として繋がらない。トレイを開け、閉め、また開ける。
背後で、清掃員の女性がモップを止めた。
「大丈夫ですか」
「はい、すみません」
「謝らなくていいですよ。紙、ここを開けると取れます」
女性は機械の側面の、小さなレバーを示した。美優がそれを引くと、紙がするりと外れた。そんなことで、美優は泣きそうになった。名前も知らない人が、手を貸してくれた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。遅くまで大変ですね。体に気をつけて」
女性はそう言って、またモップを動かし始めた。ゴムの靴が床を擦る湿った音が、遠ざかっていく。〈体に気をつけて〉という、挨拶のような言葉が、美優の胸の底にいつまでも沈んでいた。
作業が一段落したのは日付が変わる直前だった。残りは家で仕上げることにして、ノートパソコンを鞄に入れた。部長の席にはもう誰もいなかった。机の上に、飲みかけのペットボトルが一本置いてあった。
帰宅ラッシュを過ぎた電車は空席が目立った。向かいの座席の前では、酔ったサラリーマンが吊り革につかまったまま船を漕いでいる。その隣で、若い男女が一つのイヤホンを分け合って、笑っていた。何がおかしいのかは分からない。ただ、あの笑い声を最後に自分が出したのがいつだったのか、考えようとして、やめた。美優は端の席に座り、窓にもたれた。練馬区のアパートまで、乗り換えを入れて一時間足らず。それなのに、疲弊しきった心身には永遠にも感じられた。窓に映る自分の顔は、二十七歳という年齢よりもずっと老けて見えた。目の下の影、乾いた唇、ほつれた髪。
母への返信を、もう一度開いた。〈食べてるよ〉。送ったばかりの嘘が、そこに並んでいる。本当のことを書き足そうとして、指が止まる。〈実は〉と打つと、その先に続く言葉がひとつも浮かばなかった。美優は〈おやすみ〉とだけ送った。すぐに〈おやすみ。無理しないでね〉と返ってきた。
アパートのドアを開けると、冷えた空気がまとわりついた。夕食は、駅前のコンビニで買ったおにぎりが一つ。それを咀嚼しながら、無意識にスマートフォンの画面をなぞる。友人たちのSNSには、旅行の写真が並んでいた。指を動かしても、画面の中の景色だけが変わった。
おにぎりを半分食べたところで、手が止まった。味がしない。美優は残りをラップに包み、冷蔵庫に入れようとして、やめた。明日の朝に食べるつもりがないことを、自分が一番よく知っていた。
結局その夜は、ダイニングテーブルにノートパソコンを広げ、午前二時過ぎまで数字を直した。
金曜の朝にデータを提出した。クライアントからは、礼の一言もないまま、さらに修正が三点届いた。
提出が午前九時を四分過ぎていたことを、鈴木部長は見逃さなかった。「四分遅れたな」。それだけだった。徹夜同然で仕上げた数字には、一言も触れなかった。美優は「すみません」と言い、四分という数字を、その後も何度も思い出した。
土曜は正午に目が覚めた。隣の部屋から子どもの声が聞こえる。誰かの誕生日なのか、大人たちの笑い声に混じって、短い歌のようなものが繰り返されていた。美優は天井を見たまま、洗濯をしなければと思った。洗濯機は三日前から、蓋を開けたまま乾いている。立ち上がる前に、もう一度眠ってしまった。次に目が覚めたとき、部屋はすでに薄暗かった。カーテンの隙間から細い光が一本だけ、床に伸びていた。それが夕方の光なのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
日曜の午後、気まぐれに靴を履いて、近所のスーパーまで出た。野菜を買おうと決めていた。入り口で買い物かごを取り、青果売り場の前に立つ。キャベツ、にんじん、ほうれん草。家族連れが、特売の卵を前に楽しそうに相談している。美優は何も選べなかった。一つ取るたびに、これを使い切れるだろうかと考えてしまう。腐らせる未来のほうが、先に見える。結局、かごを元の場所に戻し、何も買わずに店を出た。帰り道、空っぽの手がやけに重かった。
枕元のスマートフォンに、梨沙からの通知があった。〈今月こそ映画行こう。観たいのあるんだ〉。美優は返信欄に指を置いたまま、動けなくなった。行きたい。会いたい。けれど約束をすれば、守れなかったときに、また謝らなければならない。謝ることにも、もう疲れていた。〈行けると思う〉と打って送った。「思う」の二文字に、逃げ道を一つ残した自分が、ずるく思えた。
月曜日の朝、美優は冷蔵庫を開けたまま立っていた。棚には賞味期限が二日前の豆腐と、飲みかけの麦茶しかない。買い物に行くつもりは何度もあった。金曜の夜に野菜を切り、土曜に洗濯をして、日曜に作り置きをする。そんな予定をスマートフォンに入れたのは、いつだっただろう。
豆腐を手に取り、匂いを確かめずに捨てた。食品を無駄にすることに、胸が痛んだ。それ以上に、母が作ってくれた食事を思い出した。社会人になるとき、実家の台所で母は味噌汁をよそいながら、「ちゃんと食べることだけは忘れないで」と言った。何か大きなことを言われたわけではない。それなのに、自分は何かを頑張るたびに、そのいちばん簡単な約束を後回しにしている。
ベランダの窓際では、一年前に買ったパキラの鉢が、葉の先を茶色くしていた。最後に水をやったのがいつか、思い出せない。美優は麦茶のグラスに水道水を足して、土の上にかけた。土は水を吸わず、鉢の縁から細く流れ落ちた。「ごめんね」と声に出してから、植物に謝っている自分がおかしくて、口の端が動いた。笑ったのは、たぶん二週間ぶりだった。
「佐藤さんって、いつも早いですよね」
会社の入り口で、田中が言った。
「電車が遅れると困るから」
「僕は今日、ぎりぎりでした。昨日も寝落ちして」
フロアに入ると、木村がすでに席についていた。入社二年目の彼女は、美優が教育係を務めてきた後輩だ。まだ学生のような幼さが顔に残っている。
「おはようございます、佐藤さん」
「おはよう。今日は早いね」
「眠れなくて。結局、来ちゃいました」
木村はそう言って笑った。笑い方が、無理をしていた。美優はそれに気づいたが、気づいたことを口にする代わりに、「無理しないでね」と、自分が先週の夜に母から言われたのと同じ言葉を返した。木村は画面に目を戻した。
始業の十分前には、毎週月曜恒例の朝礼があった。フロア中央に全員が立ち、鈴木部長がホワイトボードの前で、先週の数字を読み上げる。売上、粗利、案件数。どの数字も目標に届いていなかった。
「厳しい状況だということは、みんな分かっているな。だからこそ、一人ひとりが自分の仕事にプロ意識を持ってほしい。できない理由を探している時間は、うちにはない」
部長は穏やかな口調のまま、全員の顔を順番に見た。視線が美優のところで一瞬止まり、そのまま通り過ぎた。責められたわけではない。それなのに、見られたという感触だけが首筋に残った。朝礼は十分で終わり、全員が席へ戻った。
十時過ぎ、クライアントから届いた修正依頼には、前回の会議で合意した内容とは逆の指示が並んでいた。美優は議事録を添えて確認に行ったが、鈴木部長は画面を一瞥しただけで言った。
「先方の気分もあるだろう。臨機応変に」
「ですが、先週の会議でこの方針に決まったと……」
「決まったかどうかじゃない。相手がどうしてほしいかだ」
「納期はそのままですか」
「そのためのチームだろう」
美優は返事をしなかった。議事録を持つ指に力が入った。言い返したいことはあったが、部長はすでに別の画面を見ていた。
席に戻ると、木村がそっと付箋を置いていった。〈修正、手伝えることがあれば言ってください〉。丸い字だった。美優は付箋を剥がして、デスクの端に貼り、一度、木村のほうを見た。声をかける前に、新しい修正通知が画面に重なった。付箋は貼ったまま、一日中そこにあった。
昼になっても、美優は席を立たなかった。給湯室へ行ったのは、十二時四十分を過ぎてからだった。麦茶のペットボトルに水を足すつもりで、シンクの前に立つ。
先客がいた。田中が、流し台の縁に弁当箱を載せて、立ったまま箸を動かしている。休憩室と呼べる場所は、この会社にはない。
「あ、佐藤さん。お疲れさまです」
「お疲れ。ここで食べてるの?」
「席だと、部長の目があるので。ここがいちばん、落ち着きます」
田中は苦笑して、弁当箱の蓋を押さえた。実家暮らしの彼は、毎日、母親の作った弁当を持ってくる。美優は、手にしたペットボトルに視線を落とした。昼食は、まだ何も食べていない。
「佐藤さん、昼、食べました?」
「これから」
田中は少し迷ってから、弁当の隅の卵焼きを一切れ、蓋の上に載せて差し出した。
「うちの母の、甘いやつなんですけど。よかったら」
「いいよ、悪いし」
「僕、毎日食べてるんで。飽きました」
嘘だと分かった。分かっていて、美優は蓋の上の黄色い一切れを、指でつまんだ。冷めていて、砂糖の甘さが先に来て、あとから出汁の味がした。味がした、と思った途端、目の奥が熱くなって、美優はペットボトルの水を慌てて口へ流し込んだ。
「……おいしい」
「でしょう。母に、言っておきます」
田中は照れたように笑って、箸を持ち直した。あの夜、先に帰ったことを、彼は何も言わない。言わないまま、卵焼きを分けてくれた。
席へ戻る途中、木村の席の前を通った。昼休みだというのに、彼女はスマートフォンの画面を伏せたまま、動かずにいた。机の上の弁当は、蓋も開いていない。美優は足を止めた。「大丈夫?」と声をかけようとして、飲みかけのペットボトルを持ち直した。
結局、何も言わずに、自分の席に戻った。口の中に、卵焼きの甘さがまだ残っていた。美優は振り返ったが、木村は顔を上げなかった。
午後、部長が珍しく美優の席まで来て、肩のあたりに軽く手を置いた。
「佐藤さんがいてくれて助かってるよ。君は、うちの背骨だからな」
一瞬、胸が温かくなった。五年前、右も左も分からない新卒の自分に最初の案件を任せ、「期待してるぞ」と言ってくれたのは、この人だった。最初に任されたのは、商店街のパン屋の新商品の広告だった。あの案件のことは、今でも細部まで覚えている。あの言葉を、美優はお守りのように抱えて生きてきた。部長の手が離れたあと、肩に残った重みが、褒め言葉の重さなのか、鎖の重さなのか、見分けがつかなかった。背骨は、折れたら誰かが代わりに入れ替えられるものなのだろうか。そんな考えが、ふっと浮かんで、打ち消した。
午後の電話会議を控え、財布から千円札を出そうとして、カード入れに挟んだ映画の半券を見つけた。梨沙と最後に映画を見たときのものだ。終映後、ふたりは近くの居酒屋で仕事の愚痴も将来の話もした。梨沙は食品メーカーで総務をしていて、「毎日同じ人にハンコをもらいに行くだけ」と笑っていた。あのとき美優は、今の生活が一時的な忙しさだと思っていた。ここを乗り切れば落ち着く。繁忙期が過ぎれば、普通に暮らせる。そう言い続けて、一年が過ぎた。
その後、クライアントとの電話会議が二本続いた。受話器の向こうで、先方の担当者は声を荒らげなかった。ただ、「前回と話が違いますよね」と、礼儀正しく言った。違うのは、先方が言い直したからだ。そう言いたかったが、美優は「申し訳ございません」と頭を下げた。電話なのに、頭を下げていた。
電話を切ったあと、美優は席を立ち、フロアの奥のトイレに入った。個室の奥の壁に、すりガラスの小さな窓がある。普段は誰も見ないその窓を、その日、なぜか見上げた。ガラスの向こうが、白くまぶしかった。空だった。四角く切り取られた、ほんの一枚ぶんの白い空。雲がかかっているのか、晴れているのか、すりガラスでは分からない。ただ、光があることだけが分かった。
美優は洗面台に両手をついて、数秒、そのままでいた。長居はできない。戻れば、まだ仕事が待っている。それでも、水を出して手を洗いながら、窓のほうをもう一度振り返った。白い四角は、まだそこにあった。
午後五時。隣のビルから、あの間延びしたチャイムが聞こえた。会議室の中にいても、それは壁を通り抜けて届く。美優は資料を持ったまま、ほんの一瞬だけ顔を上げた。けれど、会議が始まった。誰かが「では、はじめます」と言い、チャイムの余韻は、そこで途切れた。
退社できたのは二十二時前だった。エレベーターの前で、木村と一緒になった。ボタンを押す指が、お互いに同じタイミングで止まる。
「佐藤さんは、お休みの日って、何してますか」
「寝てる」
「ふふ。私もです」
会話は、そこで途切れた。エレベーターの階数表示が、ゆっくり下がっていく。一階に着くと、木村は「お疲れさまでした」と頭を下げ、反対方向の改札へ歩いていった。街灯の下を遠ざかる背中が、ひどく細く見えた。美優は呼び止めかけて、声にならないまま、その背中が角を曲がるまで見送った。
帰りがけに寄ったコンビニの冷蔵ケースの前で、美優は立ち止まった。豆腐のパックが並んでいる。三個入りで百円もしない、いつもの棚だった。朝、捨てたばかりの豆腐のことを思い出す。買えば、また腐らせるかもしれない。結局、その夜は手を伸ばさず、おにぎりを一つ取った。レジの前の列で、明日こそは、と思った。思ったことだけが、袋の中で温かかった。
その夜、母に〈今日は野菜を食べたよ〉と送った。すぐに〈よかった。無理しないで〉と返ってきた。今夜食べたのは、カップのスープだけだった。嘘をついたことよりも、母が安心してくれたことにほっとする自分が嫌だった。
寝室に戻り、カーテンの端に手をかけた。開ければ、夜の街が見えるはずだった。向かいのマンションの窓の明かり。遠くを走る電車の光。そういうものが、一週間ぶりにそこにあるはずだった。美優はしばらく布を握ったまま立っていた。結局、手を離した。開けなかったのではない。開けるだけの力が、今日の分はもう残っていなかった。
布団に入ると、枕元の時計が、一秒ずつ小さく音を立てた。明日の始業までは、あと九時間と少し。数えるのはやめようと思ったのに、数えてしまった。




