第十章 退職
二月二十四日の朝、美優は退職届を三通のコピーと一緒に鞄へ入れた。白い封筒の表に〈退職届〉と書き、裏に自分の名前を書いた。ペンの先が紙の上で何度か止まった。前の晩に書き損じた二枚はゴミ袋の底に畳んで捨ててある。
文面は短かった。一身上の都合により、三月三十一日をもって退職いたします。高橋が言っていた通り、理由の欄は広げなかった。広げれば広げるほど、そこに部長の言葉が入り込む隙ができる。
家を出る前に、ベランダのパキラに水をやった。先のほうの葉は、まだ茶色い。美優は鉢の下に受け皿を戻し、鍵を閉めた。
電車は、いつもの混み方をしていた。ドアの横に立ち、窓に映る自分の顔を見た。化粧は、コンシーラーを少し多めに重ねてきた。目の下の影はそれでも薄く透けている。隠しきれないものは、無理に隠さないことにした。
会社に着いてから午後三時まで、美優は普段通りに働いた。メールの返信、見積もりの修正、媒体との電話。鞄の内側の封筒は、仕事のあいだずっと、背中の皮膚に触れているように感じられた。
月次の数字が出る日は、部長の機嫌が読みにくい。昼過ぎに部長は自席で電卓を叩き、プリントアウトした表に赤ペンで何かを書き込んでいた。三時を少し過ぎて、その手が止まった。いまだ、と美優は思った。ここを逃せば、また別の日に延びる。
席を立ち、鞄から封筒を取り出す。足が、思ったより軽く動いた。
「部長、少しお時間をいただけますか」
部長は顔を上げた。美優の手の中の白い封筒に、視線が落ちた。ほんの一瞬、その目が止まった。それから、いつもの穏やかな表情が、戻ってきた。
「会議室か」
「はい」
小さな会議室の窓は隣のビルの壁に向いていて、昼でも薄暗い。ホワイトボードには、先週の誰かの書いた日付が消え残っている。部長は椅子を引いて座ったが、紙コップには手を伸ばさなかった。美優は、立ったまま封筒を机の上に置いた。
「一身上の都合により、三月末で退職させていただきたく存じます。こちらが退職届です」
封筒は机の上で白く光っていた。部長はそれを見つめたまま、動かなかった。秒針の音が、天井の隅から聞こえる。
「……疲れてるんだろう」
最初に出てきたのは笑いを含んだ声だった。
「ここ数か月、無理をさせたからな。分かっているよ。来週にでも休暇を取りなさい。三日でも、四日でもいい。休めば考えも変わる」
「考えは変わりません」
「まあ聞きなさい。今日は月次で、私も頭が回っていない。君も同じだ。こういうときに出した結論は、あとで悔やむことが多い」
穏やかな声だった。怒鳴り声よりも、ずっと逃げにくい声だった。美優は封筒のそばに立ったまま、手のひらを机の端に当てた。木の冷たさが、指の腹に伝わる。
「先週お返事を待っていただいた、商店街の案件のことも、考えました。お話を、本当にありがたいと思っています。だけど、お受けできません」
部長の表情がそこで初めて、変わった。口角が、ほんの少し下がった。
「裏切るのか」
部長は封筒から手を離した。声の高さは変わらなかった。ただ、言葉の温度だけがすっと落ちた。
「五年だ。五年間、うちがどれだけ君に投資してきたと思っている。研修も、現場も、全部だ。チームのみんなが君を頼りにしている。全員をがっかりさせるつもりか」
胸が縮んだ。この言葉を、美優は何度も頭の中で聞いていた。聞くたびに、自分の中の何かが先に折れた。今も、膝が少し笑っている。それでも、足は床を離れなかった。
「お世話になったことは、本当に感謝しています」
「感謝と言うなら、残るのが筋だろう」
部長は椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
「金か。給料なら、相談に乗る。役職だって、考えてやらないこともない。課長の話は昨日今日の思いつきじゃない」
「お金や役職の問題ではないんです」
「じゃあ何だ」
問われて、美優は言葉に詰まった。何だ、と聞かれて、一言で答えられる理由は、たぶんなかった。夜の十時に数字を差し替えたこと。午後五時の空の色を、五年間知らなかったこと。母の電話に、嘘をつくのが上手になったこと。田中が分けてくれた卵焼きの味に、泣きそうになったこと。どれも、部長にとっては理由にならない気がした。
「……自分の生活が、仕事の余りになっているんです。それを、変えたいんです」
自分でも驚くほど静かな声が出た。部長は一瞬、虚を突かれたように目を瞬かせた。それから、鼻で笑った。
「生活か。ずいぶん甘いことを言うようになったな。外の世界がそんなに優しいと思うなよ。うちでやっていけない人間が、よそで通用するわけがない。どうせすぐに泣きついて、戻ってくることになる」
その言葉は刃というより、重たい布のように降りてきた。うちでやっていけない人間。五年間、毎晩のように、自分に向けて言ってきた言葉だった。部長の口から聞こえると、それはいっそう本当らしく響いた。
美優は、息を吸った。鼻の奥に、会議室の埃っぽい空気が入ってきた。それをゆっくり吐き出した。
「戻ってこられる場所があるのは、ありがたいことだと思います。でも、戻らないつもりで辞めます」
部長の目が細くなった。しばらく、二人とも何も言わなかった。窓の向こうの壁を、小さな鳥の影が横切っていった。
「木村はどうする」
低い声だった。
「お前が面倒を見ていたんだろう。あの子は、お前を慕っている。お前が辞めたら、あの子がどうなるか、考えたのか」
今度の言葉は本当に痛かった。美優は目を伏せた。木村の、赤く腫れた目。海辺の朝のポスター。慣れたくないです、と言った声。考えなかった日は、一日もなかった。
「考えています。毎日、考えていました」
声がかすかに震えた。美優は、一度唇を結んでそれから続けた。
「木村さんを含め、引き継ぎが滞らないように資料を整理します。最後の日まで、責任を持って。ただ、一人がいなくなると回らなくなる状態は、私が残ってもいつか誰かが壊れるだけです。それは、会社として、変えていただきたいと思っています」
言い終えたとき、部長の眉がわずかに動いた。視線が、机の上に置かれた紙の束へ、ちらりと逸れる。さきほどまで赤ペンで書き込んでいた、月次資料だった。美優の位置からは、数字の羅列と、その右端に並んだ赤い負の記号が見えた。部長の指の爪の横に赤いインクが滲んでいる。
部長は、月次報告書を裏返した。「来期の数字、見ただろう」
「上からは人数を増やすなと言われている。それで売上だけは上げろと。誰かを育てて、辞められたら、また最初からだ」
「だから、木村さんが休めなくても仕方ないんですか」
部長の手が止まった。「そういう言い方をするな。俺だって、好きでこんなやり方をしているわけじゃない」
美優は裏返された報告書に目を落とした。木村が給湯室で握りしめていた紙コップが、ふいに浮かんだ。
「事情があるのは分かります。でも、その事情のために私がここに残ることはできません」
部長は裏返した報告書の角をそろえた。折れ曲がった紙は、押さえても元に戻らなかった。
美優は封筒を、机の中央へ静かに戻した。
「きれいごとを言うようになったな」
部長は吐き捨てるように言った。
「そうかもしれません」
美優はそのまま頷いた。
「でも、退職するという結論は、変わりません」
部長は長い息を吐いた。椅子が軋んだ。視線は、もう美優を見ていなかった。机の上の封筒に向けられたまま、指の先が紙の端に触れかけて、止まる。
「……受け取るとは、言っていない」
「はい。お預かりいただければ、それで構いません。就業規則に従って、一か月以上前の今日、書面でお出ししたことは人事の控えにも残します。受領のご確認は、あとでメールでお送りします」
控えという言葉を使ったとき、部長の肩が揺れた。高橋の助言が、美優の口から、そのまま出ていた。感情の応酬に流されないための、道具だった。
「失礼します」
美優は一礼した。頭を下げたとき、視界の端で自分の手がまだ震えているのが見えた。震えているからといって、決意が揺らいでいるわけではない。
会議室を出て、扉を閉める。廊下の空気が、いつもより冷たく、澄んでいた。美優はそのまま、非常階段の扉を開けて、踊り場へ出た。
冬の風が、頬に当たった。手すりの鉄の冷たさが、掌にしみる。ビルの隙間から、雲の多い午後の空が見えた。白に近い灰色の向こうに薄い青がにじんでいる。膝から力が抜けて、美優は手すりに額を預けた。
言えた。
声に出さずに、その言葉を、口の形だけでなぞった。涙は、出なかった。かわりに、肩の奥から、長い間居座っていた何かが、わずかに、ずれていく感覚があった。完全になくなったわけではない。ただ、ずれた分だけ、空気が入った。
夕方、定時の時刻を告げるチャイムが隣のビルから、ひどく間延びして聞こえた。美優は、その音が鳴っていることに、いつもより少し長く気づいていた。
フロアの人が、少なくなった頃だった。木村が、コピー機のそばで資料を揃えていた。美優は、自分の席から、その背中を見ていた。何度も立ち上がろうとして、やめた。
「木村さん、少し、いい?」
結局、声をかけたのは美優のほうだった。木村は、振り向いて、手に持っていた紙束を胸の前に抱えた。
「はい」
二人は、ビルの裏手の公園まで、黙って歩いた。ベンチの上に、枯れた銀杏の葉が一枚だけ残っていた。美優はそれを指ではらって、木村に座るよう促した。
「相談があるって、言ってくれたよね。先に、私から話してもいい?」
木村は頷いた。何かを予感しているような、硬い顔だった。
「三月の終わりで、会社を辞めることにしたの。今日、部長に退職届を出した」
木村はしばらく何も言わなかった。紙束を抱えた腕に力が入ったのが分かった。風が、二人の足元の落ち葉を、かさかさと転がしていく。
「……寂しいです」
ようやく出てきた声は、小さかった。
「ごめんね」
「謝らないでください」
木村は首を振った。それから、顔を上げて美優を見た。目が、少し潤んでいる。けれど、涙は落ちていなかった。
「私、佐藤さんが辞められるって聞いて、ちょっと、安心したんです」
美優は思わず木村の顔を見返した。
「すみません、変な言い方で。でも本当なんです。実は私が相談したかったのも、辞めていいのかなってことで。誰にも言えなくて。辞めたいって思うのは、私が弱いからなのかなって」
木村は膝の上で指を組み合わせた。
「でも、佐藤さんが、辞めるって決められた。五年いて、一番頼りにされてて、それでも。だったら、辞めてもいいんだって、思えたんです」
風の音が大きくなった。美優の中で、何かが動いた。自分が辞めることを、裏切りだと思っていた。置いていくことだと思っていた。そうではない形で、受け取ってくれた人がいる。
「私、先輩らしいこと、何もしてあげられなかったよ」
「そんなこと、ないです」
「ほんとに。給湯室で、頑張ろうって言っちゃったし」
木村は笑った。笑うと、目尻に細い皺が寄った。
「あれ、ちょっと、傷つきましたけど。でも、そのあと、佐藤さん、公園に誘ってくれたじゃないですか。外の空気、久しぶりでした」
そう言われて、美優はあの昼の銀杏のことを思い出した。木村が、スマートフォンのケースから、折りたたんだ海辺のポスターを取り出した。水平線に一本、細い光が走っていた。
「木村さんは、どうしたい?」
聞いてから、自分が答えのない問いを渡していることに、気づいた。それでも、聞かずにはいられなかった。
「……まだ、分からないです。でも考える時間が、ほしいです。ここにいるのか、別の道を探すのか。絵のことも、ちょっとだけ」
「それでいいと思う。急がなくていい」
言いながら、それは高橋が自分にくれた言葉だったと気づいた。急いで決めることが最優先ではない。美優は、受け取った言葉を、そのまま手渡している自分を、不思議な気持ちで眺めた。
「引き継ぎ、やるから。木村さんが困らないように」
「はい。お願いします」
「その代わり、一つだけ約束してほしい。つらいときはつらいって、ちゃんと言って。私にじゃなくても、誰かに」
木村は少し考えてから、頷いた。
「はい。……あ、でも、佐藤さんにも言っていいですか。辞めたあとも」
「もちろん」
即答した自分の声が思ったより強く出た。木村は目を丸くして、それから、笑った。
二人でビルへ戻る途中、美優は空を見上げた。夕方の、まだ明るい灰色の空。
退職届を出したあとも、朝は来た。いつもと同じ電車に乗り、いつもと同じ席に座る。窓に背を向けた椅子の硬さも、蛍光灯の唸りも変わらなかった。変わったのは、部長が美優に直接仕事を頼まなくなったことだった。指示は田中を通して届く。付箋に走り書きされた伝言が、田中の手でデスクの端に置かれる。
受領確認のメールは翌朝のうちに送った。返信は来なかった。代わりに、昼過ぎに人事を兼ねている総務の女性が席に来て、小声で言った。
「部長から、預かったと聞きました。手続きの書類、あとで渡しますね」
受け取らないと言った封筒が、いつの間にか、受け取られていた。美優はその事実に、拍子抜けするような、少し寂しいような気持ちを覚えた。
二月の最後の土曜、美優は商店街の奥のクリニックの階段を上がった。退職の日付を伝えると、医師はカルテに目を落としたまま、ペンを少しだけ止めた。「診断書をお出しして、休む道もありました。でも、決めたのは佐藤さんですね」。美優は頷いた。眠れない夜は、まだ週に三日はあった。「新しい職場が始まったら、一度いらしてください。始まってからのほうが、出てくるものもありますから」。次の予約は、四月の第二土曜に入った。予約票の日付を手帳に写す字は、震えていなかった。
翌週の月曜日、朝礼で部長は手帳も見ずに言った。
「四月からの体制を伝える。佐藤の担当十二社は、木村に一本化する。田中は、これまで通り、自分の案件を。以上」
島が、静まった。誰かのキーボードを打つ音が、途中で止まった。木村の顔から、血の気が引くのが見えた。それなのに、木村の口は動いた。
「……はい。やります」
美優は、反射的に返事をした木村の横顔を見た。
「待ってください」
思ったより、大きな声が出た。島の全員が顔を上げた。美優は、自分の声が震えていないことに、遅れて気づいた。
「十二社は、私が毎晩残って、ようやく回していた量です。入社二年目の人に、一人で渡す数ではありません」
「引き継ぎ表があるだろう。君が作っている」
「表があれば回るなら、私は五年間、残業していません」
言ってしまってから、自分で驚いた。田中が、息を呑む音がした。部長の目が初めて、まっすぐ美優に向いた。
「辞める人間が、体制に口を出すのか」
「辞めるからです。残る人が壊れるのを、黙って見ていくために、辞めるんじゃありません」
指の先が冷たかった。怒りは、金属のように指の先に集まっていた。美優は握っていた手をゆっくり開いた。
長い沈黙のあと、部長は書類を閉じた。
「……田中が、四社持て。残りは木村。以上だ」
朝礼は、それで解散になった。誰も、美優を見なかった。席に戻る途中、田中が、すれ違いざまに「ありがとうございます」と言った。木村は、うつむいたまま、しばらく動かなかった。
午後、有給休暇の申請書が戻された。
昼前に部長の机へ置いた書類には、赤ペンの一行があった。〈引き継ぎ期間中の取得は認めない。時季変更〉。残りは十七日あった。三月に十日、使うつもりでいた。入社の前に何もしない日を、作るつもりだった。
夜、高橋に電話で相談した。高橋は、いつもの、事務的な声のまま答えた。
「有給の取得は、原則として、会社が拒める権利ではありません。時季変更権も、退職日を超えて、時期を移すことはできませんから、会社の言い分がそのまま通るとは限りません。具体的な取得日を記録し、必要なら労働相談窓口にも確認しましょう」
「……でもそうしたら、引き継ぎが」
「木村さんのことが心配なのですね。ただ、誰が何件受け持つかを決めるのは会社の仕事です。引き継げる範囲と、休む日を分けて考えましょう」
高橋は一拍置いて続けた。「今日は結論を出さなくていいです。まず、希望した日数と会社の回答を残してください」美優は礼を言って電話を切った。
通話を終え、美優はカレンダーの三月の欄を見つめた。十日分の空白を、指でなぞった。
その夜のうちに、美優は固定残業代を超えた分のことも、メッセージで一度だけ尋ねた。返信は翌朝届いた。請求できる可能性はあること。ただ、勤怠が六時で自動的に打刻される以上、証拠を揃えるには時間がかかること。〈今すぐでなくても、動ける期間はあります。ただ、いまの佐藤さんの優先順位は、別のところにあると思います〉。美優は手帳の端に〈あとで〉と書いた。今は、辞めることだけで手一杯だった。
翌朝、美優は申請書を前にして長く迷った。十日の希望を四日に書き直そうとして、いったんペンを置いた。木村の青ざめた顔が浮かぶ。仕事の配分は会社の責任だと分かっていても、退職前に自分が不在になる光景を思い浮かべると、十日のまま提出できなかった。残る十三日は、取得できないまま退職日を迎えるかもしれなかった。
「いいんですか」
書類を受け取った総務の女性が小声で聞いた。
「……まだ、十日休むと言い切れなくて」
書き直した日数をもう一度確かめ、美優は四日と書いた申請書を、総務の女性に渡した。
引き継ぎ表は、白紙のスプレッドシートから始めた。担当している十二のクライアントを、縦に並べる。横には、窓口の名前、締め切り、請求の締め日、先方の癖。癖の欄がいちばん長くなった。
〈社長が電話に出ないときは、奥様に〉〈見積もりは必ず税込で書く〉〈午前中の連絡は嫌がられる〉〈納品後に必ず「少し違った」と言うが、実際には気に入っている〉。五年間、美優の頭の中にだけあった情報が、一行ずつ、画面に現れていく。書き出してみると、それは思っていたよりも膨大だった。
三月の第一週、木村と並んで引き継ぎの一覧を広げた。美優は、色の違う付箋を三色用意していた。黄色は、すぐに引き継げるもの。青は一緒に先方へ挨拶に行くもの。赤は、後任が決まらないと動けないもの。
「赤、多くないですか」
木村が付箋の束を指でめくった。
「うん。これは、私が決められることじゃない。部長に、案件ごとの責任者と確認体制を決めてもらわないと」
「また、私が全部やりますって、言ったほうがいいですか」
「言わなくていい」
自分でも驚くほど、きっぱりした声が出た。木村が顔を上げる。
「この量を一人で全部こなすのは無理だって、私が一番知ってる。無理なものを、できるって言わないでほしい。それは全部、会社が決めること」
木村はしばらく黙って付箋を見つめていた。赤い付箋の端が、指の先で小さく丸まった。
「朝礼のとき、止めてもらえなかったら、私、十二社、そのまま持ってました。断り方が、分からなくて」
「うん」
「……はい。次は、言えるようにします」
「すぐに引き継げるものだけ、この黄色にしよう。それ以外は、私から部長に書面で出す」
木村は付箋の束を持ち直した。
赤い付箋を二枚抜き取り、木村は案件名を書き足した。
美優は付箋を指で押さえた。
「この二件は、確認する相手も書きましょう」
木村が頷くのを見て、美優は黄色の付箋を木村に渡し、赤い付箋は責任者の確認が必要なものとして別にまとめた。田中が受け持つ四社と木村の八社は決まっている。ただし最終確認者や繁忙期の応援体制までは決まっていなかった。
美優は、赤い付箋のまとまりを、一枚の紙にまとめた。〈責任者・確認体制が未決定の案件〉と題して、日付と数字を添えた。それを、月曜の朝、部長の机の上に静かに置いた。部長は、何も言わなかった。ただ、その紙を、一番上の引き出しに入れるところを美優は遠くから見た。
その週の金曜日、美優は隣のビルから届くチャイムを席で聞いた。間延びした電子音が、午後五時を告げていた。会社の勤怠は、六時に自動で退勤の打刻を入れる。けれど、その日は、五時四十分にパソコンを閉じた。
「お先に失礼します」
立ち上がった美優に島の人たちが一斉に顔を上げた。誰かが、「お疲れさまです」と言った。田中が、手を振りかけて、やめた。部長は、書類に目を落としたまま、動かなかった。
エレベーターの中で、美優は自分の心臓が速く打っているのに気づいた。悪いことをしているような気持ち。けれど、扉が開いて、ビルの外へ出ると空気が昼の名残の温かさを含んでいた。
西の空が、淡い黄色に染まり始めていた。ビルの隙間に、薄い雲が桃色に縁取られている。美優は、足を止めて、その空を見上げた。五時の空は、こんな色だったのか。いや、五時四十分の空だ。それでも、どこか、遠い昔に見たことのあるような、懐かしい色だった。
スマートフォンが震えた。梨沙からだった。
〈今日、早いの?〉
〈五時四十分に出た〉
〈えらい。何食べたい?〉
〈パン〉
自分で打って、少し驚いた。パン。商店街の、あの小さなパン屋のことが頭に浮かんでいた。一度は行こうと思いながら、五年が過ぎていた。夕方にはまだ店が開いていることすら、もう忘れていた。
新宿から、少し遠回りをして、美優は五年前の初案件の商店街へ向かった。商店街のアーケードの下は、夕方の買い物客で賑わっていた。その並びの端に、焼きたてのパンの匂いが漂う店があった。
店の看板は、五年前と同じ手描きの文字だった。美優が、広告の写真を撮るために、何度も通った場所だ。ドアを押すと、小さなベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきたのはあの店主だった。白い帽子、粉のついたエプロン。少し白髪が増えている。美優は棚に並んだ丸いパンを見つめながら、何と声をかけたらいいのか分からなかった。
「……あれ。もしかして、広告の」
先に声をかけてくれたのは、店主のほうだった。
「覚えて、いらっしゃるんですか」
「覚えてるよ。あの、試作品の食べ比べ、何度も笑ってたお嬢さんでしょう。今日は、ずいぶん、疲れた顔してるね」
店主はそう言って笑った。責める響きは、少しもなかった。美優は、何かがこみ上げてくるのを、必死にこらえた。
「ごめんなさい。ずっと来られなくて」
「いいのいいの。うちも、あの広告のあと、ずいぶん助かったんだから。ほら、これ、新しいやつ。味見していきな」
店主は小さく切ったパンを、紙ナプキンに載せて差し出した。胡桃入りの、ずっしりしたパンだった。噛むと、香ばしい皮の下から、小麦の甘みが滲み出した。美優は、口の中のものを飲み込んでから、ゆっくりと言った。
「おいしいです」
「そうでしょう。じゃ、一本持ってって」
差し出された紙袋はまだ温かかった。両手で受け取ると、手のひらにぽかぽかとした熱が染みた。
最終出勤日は、三月三十一日だった。朝、いつもの電車に乗った。ドアの横に立ち、窓に映る自分の顔を見た。化粧は、特別なことをせず、いつも通りにした。最後の日だから、と気負わないことにした。
フロアに入ると、デスクの上に小さな花束が置かれていた。白い花と、薄い黄色の花が紙で簡単に包まれている。カードは付いていなかった。誰が置いたのかは、聞かないことにした。
午後三時を回った頃、部長が美優の席の横に立った。いつもと同じ、音のない足取りだった。美優は手を止めて、椅子から立ち上がった。
「今日で、最後だな」
「はい」
「引き継ぎの資料は見た。よくできている」
それは評価ではなく、事実の確認のようだった。部長は、美優の顔を見なかった。窓のほうを見ていた。美優の席からは、見えない窓だった。
「向こうでも、スピード感を持って、やれよ」
「はい」
言葉はいつもの口癖だった。けれど、その声の底に、わずかな疲れが混じっているのを、美優は聞き逃さなかった。
「部長。五年前、私を採っていただいたことは本当に感謝しています。あの日のことは、忘れません」
嘘ではなかった。感謝と、不信と、疲れと、いくつもの気持ちが重なり合っていたけれど、その一つは確かに本当だった。部長は、返事をしなかった。ただ、頷いたように見えた。それから、何も言わずに自席へ戻っていった。
その背中が思っていたより、小さく見えた。
午後四時を過ぎて、フロアに傾いた光が差し込んできた。美優の席は、窓に背を向けている。けれど、その日は、椅子ごと、体を窓のほうへ向けてみた。西向きの窓に、薄く曇ったガラスがある。その向こうに、隣のビルの壁と、そのさらに上の、空の端が見えた。
荷物は段ボール箱一つに収まった。付箋の束と、コーヒーのカップ。宮下のメモは、前の晩に家から持ってきて、鞄に入れてあった。取り出して、もう一度、読んだ。
〈真面目な人から先に壊れるから、気をつけて〉
〈ほんとは、一緒に辞めようって言いたかった。ごめん〉
美優は、メモを四つに折って、手帳の間に挟んだ。宮下の席には、段ボール箱と古いモニターが、まだ積まれていた。美優は、その上に手を置いた。
十六時三十分。印刷室で、最後の書類を出していると、背後でモップのバケツが床を擦る音がした。振り返ると、あの清掃員の女性がいつもの灰色のエプロンで立っていた。
「あら、今日は、早い時間なんですね」
「はい。今日で、最後で。辞めるんです」
「そう」
女性はモップを止めた。少し驚いた顔のあと、目尻に皺を寄せて笑った。
「それはそれは。お疲れさまでした」
「あの、前に印刷機の紙が詰まったとき、教えてくださいましたよね。ここを開けると取れますって」
「そうだったかしらね」
「私、あのとき、泣きそうになったんです。体に気をつけてって、言ってくださって。あの言葉にずいぶん、助けられました」
女性はバケツの把手を握ったまま、少し考えるような顔をした。そして、首を傾げた。
「覚えてないけどねえ、そう言ってもらえると、嬉しいわ。ほんとに、体に気をつけてね。あなた、ずっと、遅くまで残ってたでしょう。見てましたよ」
見ていた人がいた。その事実が、美優の胸の奥に落ちた。
「ありがとうございました」
美優は深く頭を下げた。女性は、「いえいえ」と言って、また、モップを動かし始めた。ゴムの靴が床を擦る湿った音が、遠ざかっていく。
フロアに戻ると木村が席で待っていた。手に、小さな白い封筒を持っている。美優と目が合うと、木村は立ち上がって、封筒を差し出した。
「これ。読むのは、帰ってからのほうがいいかもしれません」
「今、読んでもいい?」
「……はい」
封筒の中には手書きのカードが一枚入っていた。海辺の朝の水彩画が、隅に小さく描かれている。あの水平線の光だった。その下に、丸い字で、短い文章が書かれていた。
〈佐藤さんが「休んでいい」と言ってくれたこと忘れません〉
読み終えて、美優は顔を上げられなかった。〈体調が悪いなら休んで〉。あの夜、迷って打ち直した一文を、木村はずっと持っていてくれたのだ。短い言葉が、思いがけない長さで、相手の中に残ることがある。
「絵、描いたの?」
「少しだけ。昨日の夜、久しぶりに」
「きれい」
木村は照れたように目を伏せた。
「私、立派な先輩じゃなかったよ」
美優はカードを胸の前で持ったまま、言った。
「立派じゃなくていいです」
木村は顔を上げて、まっすぐに美優を見た。
「一緒にしんどいって、言ってくれたら、それで」
二人は同時に笑った。笑った拍子に、美優の目から涙が一滴、こぼれた。木村の目からも、静かに落ちた。
十六時五十分。美優は、段ボール箱を抱えて、フロアの出口に立った。島の人たちに一人ずつ、「お世話になりました」と頭を下げた。田中が、立ち上がって、手を振った。「また、ご飯、行きましょう」と言った。美優は頷いた。
部長は、顔を上げなかった。けれど、美優が扉に手をかけたとき、低い声が聞こえた。
「元気でな」
美優は振り返った。部長は、書類に目を落としたままだった。ホワイトボードの上の〈スピードは信頼〉の紙が、窓の光を受けて、黄色く光っていた。
「はい。お世話になりました」
扉が閉まる音は思ったより、軽かった。
エレベーターで一階へ降りた。ビルの自動扉が開いたとき、外の空気が頬にふわりと当たった。三月の終わりの、湿り気のある、柔らかい風だった。
そのとき、隣のビルから、チャイムが鳴った。午後五時。ひどく間延びした、電子音。五年間、何度も、背中で聞き流してきた音だった。美優は、立ち止まって、その音が鳴り終わるまで、聞いていた。
顔を上げるとビルとビルのあいだの空に、まだ、明るさが残っていた。淡い水色の端が、ほんのりと金色を帯びている。夕焼けには、まだ早い。それでも、空は、確かにそこにあった。
不安も疲れも、まだ身体の奥に残っている。それでも、美優は、駅までの道を歩きながら思った。もう、この道を、同じ気持ちで通らなくていい。
春の手前の風が、頬をなでていった。美優は、段ボール箱を抱え直して、駅のほうへ歩いていった。




