エピローグ 五時の空
七月の火曜日、午後四時五十分。美優は画面の右下の時刻を見て、それから、手元の議事録に視線を戻した。誤字を二か所直す。日付の表記を揃える。保存。ファイル名の末尾に更新日を入れる癖は、入社して一か月目にできたものだった。
新しい会社のオフィスは八階にあった。窓は大きく、ブラインドは半分だけ下りている。会議前には誰かが資料を見直し、隣の席では電話の声が重なる。静かな日ばかりではないが、話しかける相手を探しても誰も目をそらさなかった。
「佐藤さん、お疲れさま」
背後から声がして、美優は椅子ごと振り返った。上司の森下さんが、ノートパソコンを小脇に抱えて立っていた。四十代の女性で、いつも手帳の間に細い黒のボールペンを挟んでいる。
「議事録、決定事項が先にあるので助かりました。これで共有してください」
「ありがとうございます。あの、あとは共有フォルダに上げるだけで」
「今日の分は終わっていますね」
確かめる口調だった。美優は机の上を見回した。付箋は一枚も残っていない。メールの未読は二件、どちらも急ぎではない。それでも、終わっていますと頷くまでに、一拍かかった。
「はい、終わっています」
「では、残りは明日にしましょう」
森下さんはそう言って、自席のほうへ戻っていった。足音が絨毯に吸われて、ほとんど聞こえない。
美優は共有フォルダにファイルを上げ、画面を閉じた。それから、鞄を膝の上に載せたまま、しばらく座っていた。スマートフォンのアラームが、約束どおり午後五時に鳴った。軽い電子音のメロディだった。隣の席の若林さんが、ちらりとこちらを見て笑った。
「それ、毎日鳴りますよね。もう時報みたいで」
「止めるのがなんとなく怖くて」
「怖い?」
「鳴ってるあいだは帰っていい理由になる気がして」
若林さんは少し考えるように首を傾げた。それから、自分のモニターの電源を落としながら言った。
「私は、お腹が空いたから帰ります」
冗談めかした口調だった。美優は声を出して笑ってしまい、その音に自分で驚いた。笑い声がフロアに響いたのに、誰も振り向かなかった。
アラームを止め、立ち上がる。机の上を拭いて、椅子を入れる。エレベーターの前で、先に降りていく同僚の背中を見送ってから、ボタンを押した。
一階のホールを抜けて、自動ドアの外に出る。
空は、青かった。
夕焼けではなかった。雲がところどころに浮いているだけの、昼間と変わらない青だ。ただ、光の角度だけが違っていた。向かいのビルの壁が白く照り返し、歩道の街路樹の影が長く伸びている。むっとする熱気が、アスファルトから立ちのぼっていた。蝉の声が、遠くの植え込みのほうから聞こえた。
美優は日傘を開きかけて、やめた。傘の影に入る前に、もう少し見ていたかった。
三か月前の入社初日、同じ時刻に外へ出たときは、桜の花びらが風に舞っていた。あのときは、帰っていいと言われたことそのものがまだ信じられなくて、空の色まで目を向ける余裕がなかった。七月の空は、あの春とも違っていた。
駅へ向かう歩道の途中で、スマートフォンが震えた。
〈今、会社出た。先に店行ってるね〉
梨沙からだった。朝、出勤前に〈今日、夜ごはんどう?〉と送ったのは美優のほうだ。返事は電車の中で来た。〈行く。駅前の、前に言ってたとこ〉。
〈五分で着く〉
そう返して、美優は歩く速度を上げた。
駅前の定食屋は、夕方の早い時間なのに、もう半分ほど席が埋まっていた。梨沙は奥のテーブルで、メニューを広げていた。美優が向かいに座ると、顔を上げて「おつかれ」と言った。
「早いね、ほんとに五時で出られるんだ」
「うん。五時に出られた」
「何食べる?」
「えっと……」
美優はメニューを見た。焼き魚、唐揚げ、生姜焼き。品書きの文字が、文として読める。そのことに、小さな安堵があった。
「鯖の塩焼き。それと、冷奴」
「じゃあ私は唐揚げにしよ。あ、ここ、味噌汁の具が選べるんだって」
「豆腐とわかめにする」
「豆腐、好きだよね」
「そうなのかな」
梨沙は笑って、店員を呼んだ。
運ばれてきた鯖は、皮が少し焦げていて、脂が光っていた。箸を入れると、身がほろりとほどける。口に入れると、塩気の奥に甘みがあった。美優は黙って二口食べ、三口目でようやく顔を上げた。
「おいしい」
「でしょ」
梨沙は味噌汁の椀を寄せながら、「顔、戻ってきたね」と笑った。
梨沙にそう言われて、美優は少し笑った。
二人は食べながら、互いの会社の何でもない話をした。新しい職場の、給湯室のコーヒーが意外とおいしいこと。若林さんが、毎日お昼に同じパンを食べること。話すことが、まだ少しぎこちなかった。それでも、誰も時計を見なかった。
店を出ると、外はまだ明るかった。夏の夕方の七時は、七時なのにまだ昼の名残がある。空の青は、深くなっていた。
新しい会社に入って一か月目の、金曜日のことは今でもよく覚えている。
朝一番の定例会議で、美優が更新を担当した共有資料に、前の週の数字が表示されていた。更新するのを忘れていたのだ。画面に映された表を見た瞬間、背中が冷えた。会議室の空気が、ほんの一拍、止まった気がした。
耳の奥で、声がした。
できない理由を並べる前に。
実際には、誰もそんなことは言わなかった。それなのに、鈴木部長の声は五年間かけて身体に染みついた通りに、はっきりと蘇った。
「申し訳ありません。すぐ修正します」
声が震えないように、一言ずつ区切って言った。ノートパソコンを開く指が、キーの上で少しすべった。
「分かりました。お願いします」
森下さんは画面を見たまま、静かに言った。美優が資料を直して送り直すあいだ、会議は別の議題へ進んでいた。誰かが「では次に」と言い、誰かが頷き、ペットボトルの水を飲む音が聞こえた。
会議の後、廊下で森下さんに呼び止められた。
「さっきの件ですが」
来る、と思った。美優は無意識に、両手を後ろで組んでいた。
「更新日を、表の右上に入れましょうか。次から、どの版かすぐ分かるように」
「……はい」
「次の会議までに、修正版を共有してください」
森下さんはボールペンを手帳に挟み直した。美優は頭を下げかけたまま立ち尽くし、廊下の窓に映った自分の姿を見た。
席に戻っても、会議室の古い数字が頭から離れなかった。美優は保存済みの表を何度も開いて、更新日を確かめた。
その夜、帰宅して靴を脱ぐと、美優は上がり框に座ったまま、梨沙に電話をかけた。
「今日、失敗した」
「うん」
梨沙は短く言っただけだった。促す声ではなく、待つ声だった。
「資料の更新、忘れてて。会議で、古い数字が出ちゃって」
「うん」
「怒られなかった。でも、それが信じられない」
電話の向こうでガスコンロの火を弱める音がした。梨沙が、夕飯の支度をしながら聞いているのだと分かった。
「怒られると思ってたんだ」
「うん。もっと言われるって、ずっと思ってた。何も言われないのが、逆に怖くて」
「そっか」
少し間があった。それから、梨沙が言った。
「長かったんだね」
美優は何も言えなかった。喉の奥で、何かが小さく鳴った。五年分の緊張が、電話の向こうの沈黙にほどけていくようだった。
「すぐに、慣れなくていいと思うよ」
梨沙の声はいつもより低かった。
「うん」
「今日は、ごはんちゃんと食べた?」
「食べた。冷凍のうどん」
「えらい。それで十分」
通話を切ったあと、美優は上がり框から立ち上がり、冷蔵庫の中を見た。昼に買った豆腐は、日付が三日先だった。まだ大丈夫だ。扉を閉めて、洗面所へ行き、顔を洗った。
鏡の中の自分は、もうコンシーラーで影を隠していなかった。
木村から連絡が来たのは、七月の終わりの夜だった。
〈お久しぶりです。今、電話してもいいですか〉
シャワーを浴びたあとだった。髪をタオルで巻いたまま、美優は〈いいよ〉と返した。すぐに着信が鳴った。
「佐藤さん、すみません、急に」
「ううん。元気だった?」
「元気、ではないです。でも、前よりはまし、かもしれません」
木村の声は少しかすれていた。それでも、会社にいた最後の頃の、息だけで喋るような声ではなかった。
「あの……今日、駅で足が止まらなかったんです」
「止まらなかった?」
「いつもは改札の前で動けなくなって、一本見送るんですけど。今日は、そのまま乗れました。それだけなんですけど」
「それだけじゃないよ」
美優は思わずそう言った。言ってから、自分の声が強すぎたかと思い、少し間を置いた。
「それ、大きいと思う」
「……ありがとうございます」
電話の向こうで紙をめくる音がした。何かを探しているような音だった。
「私、転職のこと、調べ始めました。まだ、本気で辞めるって決めたわけじゃなくて。でも、どんな会社があるのか、見てるだけで息ができる気がして」
「うん」
「佐藤さんは、どう思いますか。辞めたほうがいいと思いますか」
訊かれて、美優は少し黙った。壁の時計の秒針の音が、部屋に響いた。
美優は答えを急がず、木村の次の言葉を待った。
「私には、分からない」
正直にそう答えた。
「木村さんが、どうしたいかだと思う。ただ、調べるのは、いいと思う。調べるだけなら、誰にも怒られないし」
「……はい」
「もし、何か話したくなったら、また電話して。何も決まってなくても」
「ありがとうございます」
木村は息を吸って、それから、少し笑った。
「最近、絵を描いたんです。昼休みに、コンビニの前の花壇を。下手でしたけど」
「見せて」
「えっ」
「下手でもいいから、いつか見せて」
「……はい。いつか、見せます」
電話を切ったあと、美優は髪のタオルを外し、窓際に行った。カーテンの隙間から、夜の風が入ってきた。街灯の光が、アパートの前の電線を細く照らしている。
美優は窓を開け、入り込んだ夜風に濡れた髪を乾かした。
四月に入れた予約は、いつのまにか月に一度の通院になっていた。診察室で「どうですか」と訊かれて、「食べています」と最初に答えた自分に、美優は少し笑った。眠れない夜は、七月に入ってから週に一度まで減っていた。
八月の第一週、美優はベランダのパキラの鉢の前にしゃがんでいた。
鉢の葉は、前の冬に半分以上が茶色く縮れていた。
四月、美優は枯れた葉を摘み、土を替えた。幹は細いままだったが、捨てなかった。
それから、朝の水やりが日課になった。出勤前に、ペットボトルの水を鉢の縁へ注ぐ。土が黒く湿っていくのを見てから、鍵をかける。
「あ」
声が出た。幹の先端に、淡い緑が覗いていた。親指の爪ほどの大きさだった。折りたたまれた葉が、巻いた紙のように先を空へ向けている。
美優は、顔を近づけた。昨日の朝は、なかった。いや、あったのかもしれない。気づかなかっただけで。
指の先で触れると、葉はまだやわらかく、うっすら湿っていた。色は、黄緑というより、明け方の空に近い、透き通った緑だった。
朝日が、美優の膝に落ちていた。
何かを言いたかった。誰かに知らせたかった。美優はスマートフォンを取り出して、新芽の写真を撮り、少し考えてから、梨沙に送った。
〈パキラ、芽が出た〉
通勤前の時間だったのに、すぐに返事が来た。
〈えっ、あの瀕死の子?〉
〈瀕死じゃない。休んでただけ〉
〈ごめんごめん。おめでとう〉
美優は笑って、画面を伏せた。それから、ペットボトルを持ち上げ、新芽を避けて土の端にゆっくり水を注いだ。
九月は忙しかった。地域の小さなパン屋から、オンライン予約画面を見た人が来店まで進めないという相談が入った。美優は店主に電話をかけ、客がどの画面で迷うのかを聞いた。若林と試験用の画面を開き、案内文を一行ずつ直す。翌週、予約が入るまでの問い合わせが減ったと店主から連絡があった。一方、同じ週に別案件の入稿も重なり、進行表には赤い印が増えていた。
金曜の午後、美優は進行表に赤い印をつけ、森下さんに見せた。「これ以上受けると、確認の時間が取れません。先に納期を相談してもいいですか」。森下さんは表を見て、「先方への連絡は私がします」と答えた。美優は依頼を増やす代わりに、進行表を共有フォルダへ置いた。
その週の土曜、木村からメッセージが届いた。写真が一枚、添えてあった。
〈約束の絵です。下手ですけど〉
夕方の空の絵だった。ビルの輪郭の上に、水彩の橙と薄い紫が、にじんで重なっている。隅に、小さく、〈五時〉と鉛筆で書き添えてあった。
美優は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。巧いかどうかは、分からなかった。ただ、描いた人がこの色を確かに見ていたことだけは、分かった。
〈好き。額に入れたい〉
〈やめてください、恥ずかしい〉
〈本気だよ〉
少し間があって、返事が来た。
〈私、まだ辞めてません。でも、辞めてもいいんだって思えたら、少し楽になりました〉
美優は返信欄に指を置いた。何と返すべきかは分からなかった。
〈話したくなったら、また連絡して〉
送信して、画面を伏せる。窓の外では、日が傾き始めていた。
十月の最初の水曜日、美優は定時に会社を出た。
空は、夕焼けだった。
自動ドアを出た途端、目に入った。ビルとビルのあいだの、細い空の隙間が橙から薄紅へ、薄紅から薄紫へ、溶け合っている。向かいのビルの窓ガラスは、全部が同じ色を映して、まるで一枚の板のようだった。風は涼しく、袖口から腕へ入り込んで、肌をやさしく冷やした。
美優は、歩道の端に立ち止まった。
去年の十月、同じ時刻の空を見た記憶はなかった。窓に背を向けた席で、チャイムを聞きながら画面を見つめていた。
七月とは違う橙色だった。美優は鞄を持ち直す前に、もう一度顔を上げた。
通りすがりの会社員が、スマートフォンを空へ向けて、一枚撮って、歩いていった。美優も、同じようにしようかと思って、やめた。画面に収めるより、そのまま見ていたかった。
〈寒くなったね〉
ふいに去年の母のメッセージが、頭の中に浮かんだ。あの夜は、〈食べてるよ〉と返信した。
空の色が、少しずつ濃くなっていく。美優は、鞄を持ち直して、歩き出した。
駅前のスーパーは、夕方の買い物客で混んでいた。カゴを持った人が、野菜の売り場を、のろのろと進んでいく。美優は、豆腐の棚の前で足を止めた。
絹ごしと、木綿。どちらにしようか、少し迷った。味噌汁なら、絹ごしだ。母の味噌汁は、いつも絹ごしだった。手のひらに載せて、包丁で賽の目に切る、あの音を思い出す。
パックを一つ、カゴに入れた。それから、ねぎと、わかめを足した。
レジの順番が来て、店員が「いらっしゃいませ」と言った。バーコードを読み取る電子音が、規則正しく鳴る。袋に入れてもらった豆腐は、まだ冷たかった。
店を出ると、道の向こうの空はもう藍色に変わり始めていた。
アパートに着くと、まず、ベランダのパキラに水をやった。新芽は、いつのまにか二枚に増えている。台所から漏れる灯りが、その葉の縁をうすく照らしていた。
台所に立つ。冷蔵庫の扉には、梨沙と映画を見た日の半券をマグネットで留めてある。二年前の十月の日付が、色あせずに残っていた。その日付の下に、新しい映画の半券を一枚重ねて留めた。
鍋に水を入れて火にかけ、だしの小袋を加える。豆腐を手のひらに載せ、包丁を入れると、湿った音がして、白い四角が、鍋の中へ落ちた。ねぎを刻み、わかめを戻す。味噌を溶くと、湯気が立って、部屋の隅まで広がった。窓の外で、犬を連れた人が通り過ぎていく。
火を止めて、椀によそう。ちゃぶ台の前に座り、一口、飲んだ。
熱くて、少し塩気が強かった。それでも、舌の上で、豆腐がやわらかくほどけた。美優は、もう一口、飲んだ。湯気の向こうに、去年の台所がぼんやり浮かんだ。
椀を置いて、スマートフォンを取り出す。母とのトーク画面を開いた。最後のメッセージは、お盆に帰れなかったことを、八月に詫びたものだった。母は〈気にしないで。無理のない時に〉と返してくれていた。
指が止まった。何を送ろう。どんな言葉なら、自然だろう。美優は、そこで思案をやめた。伝えたいことは、もう決まっていた。
〈今度の週末、帰ってもいい?〉
送信ボタンを押す。椀の湯気が、画面の端に薄く映った。
返事は、味噌汁が冷める前に来た。
〈もちろん。何食べたい?〉
美優は手を止めた。母と何を食べたいか。料理の名前は浮かばなかった。実家の台所で、湯気の上がる鍋が目に浮かぶ。
美優は返信欄に触れた。
ゆっくり、文字を打った。
〈なんでもいい。一緒に食べたい〉
送信を押して、画面を伏せる。窓の外では、向かいの部屋に灯りがともっていた。味噌汁は、まだ温かかった。




