第9話 赤備えの将
玄蕃の長槍が、唸りを上げて薙ぎ払われた。近くにいた兵の一人が弾き飛ばされ、地面に転がる。逃げるべきか、進むべきか――迷う間もなく、葵は気づけば、玄蕃の間合いの中に足を踏み入れていた。
「小僧、命が惜しくないと見える」
玄蕃の視線が、まっすぐに葵を捉えた。逃げ場はなかった。葵は刀を構え直し、迫り来る穂先を、辛うじて受け流した。
一合、二合と刃を交えるたび、力の差が、いやというほど身に染みた。玄蕃の一撃一撃が、まるで岩を叩きつけるような重さを持っていた。腕が痺れ、握力が奪われていく。
「いい太刀筋だ。だが――」
三合目、玄蕃の槍が、葵の刀を大きく弾く。体勢を崩した葵の膝が、地に崩れかける。死を覚悟したその刹那、横合いから虎丸が割って入った。
「小太郎に用があるなら、俺も相手だ!」
肩の傷も厭わず、虎丸は渾身の一撃を叩き込んだ。玄蕃はそれを難なく受け止めながらも、二人がかりの猛攻に、わずかに体勢を崩す。
「ほう。二人がかりか。悪くない」
玄蕃は笑いながらも、その攻めは一切緩まなかった。葵と虎丸は、互いに呼吸を合わせ、隙を作っては斬り込むことを繰り返した。だが、その度に玄蕃の槍が、二人の刃を弾き返す。
「なぜ、そこまでして戦う」
打ち合いの合間、葵は思わず問いかけていた。
「主も家も失った身が、なぜ――」
玄蕃は一瞬、動きを止めた。その目に浮かんだのは、怒りでも侮蔑でもなく、どこか遠くを見るような色だった。
「主亡き身に、戻る場所などない。武田に帰れば、負け戦の恥を背負わされるだけ。徳川に降れば、裏切り者の汚名を着せられるだけよ」
槍を構え直しながら、玄蕃は静かに続けた。
「ならばせめて、己の意志で戦い、己の意志で果てる。それだけが、俺に残された、唯一の筋というものだ」
その言葉が、葵の胸に、鋭く突き刺さった。小太郎でもなく、葵でもない、どちらでもない自分――帰る場所を持たぬまま、ただ与えられた役目を演じ続ける日々が、玄蕃の姿と、あまりにも重なって見えたのだった。
「俺は……!」
葵は、込み上げる想いのままに、刀を握り直した。
「俺は、帰る場所のために戦っている。お前とは違う」
その一言と共に、葵は渾身の力で踏み込んだ。虎丸もまた、間髪を入れずに続く。二人の呼吸が、これまでにないほど揃った瞬間だった。
玄蕃の槍が、わずかに軌道を外れた。葵の刃が、玄蕃の脇腹を浅く捉える。同時に、虎丸の一撃が、玄蕃の腕を掠めた。
「……ぐ」
玄蕃は初めて、苦悶の声を漏らした。血が、赤い具足をさらに濃く染めていく。
だが、玄蕃はなおも笑っていた。
「どちらにも与せぬ者の末路など、こんなものよ……」
その声には、諦めとも、どこか安堵とも取れる響きがあった。玄蕃は槍を引き、じりじりと後退を始めた。
「引け! 深追いするな!」
離れた場所に潜んでいた配下たちが、玄蕃を庇うように現れ、山の奥へと姿を消していった。
追う余力は、隊のどこにも残っていなかった。地に倒れ伏す者、傷を抱えて座り込む者――辛くも生き延びた者たちの荒い息だけが、廃寺の境内に響いていた。
葵は刀を杖代わりに、その場に膝をついた。傍らに、虎丸が並んで座り込む。
「……勝ったのか、これは」
虎丸の問いに、葵は答える代わりに、力の抜けた笑みを浮かべた。
生きている。それだけで、十分だった。




