第7話 不穏な知らせ
海野玄蕃という名は、その日を境に、隊の誰の口からも幾度となく聞かれるようになった。
近隣の村から集めた話をつなぎ合わせると、その一党の様子が次第に明らかになっていった。長篠にて主君を失った玄蕃は、武田本家に戻ることも、まして敵であった徳川に降ることも良しとせず、志を同じくする配下と共に山中に潜んでいるとのことだった。
「降る気も、戻る気もない、か」
侍大将は、村人からの報せを聞き終えると、低く唸るように呟いた。
「厄介なことだ。降伏を勧めても応じまい。かといって、放っておけば、いずれ村々を巻き込んだ大事になりかねぬ」
集められた兵たちの間に、重い沈黙が広がった。これまで相手にしてきた敗残兵の群れとは、明らかに質が違う。統率が取れ、逃げ場を失った者たちが、命を惜しまず刃を振るってくる――それがどれほど厄介か、経験のある古参の兵たちほど、よく分かっていた。
「玄蕃の一党は、山中の廃寺を根城にしておるらしい。数はおよそ二十」
侍大将の言葉に、隊の空気は一段と張り詰めた。こちらの数は三十を超える。数の上では優っているはずだったが、なぜか誰の顔にも、安堵の色は浮かんでいなかった。
その夜、葵は寝床の中で、なかなか寝つけずにいた。傍らでは、虎丸もまた、まんじりともせず天を見上げていた。
「虎丸、眠れぬのか」
「……ああ。お前もか」
「二十人、か」
葵の呟きに、虎丸は小さく頷いた。
「案ずるな。俺が傍にいる」
「分かっておる。だが……お前を、危ない目に遭わせたくはない」
虎丸は、少しの間、黙っていた。それから、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「俺は、俺の意志でお前の傍にいる。誰に言われたわけでもない」
その言葉に、葵の胸が、じんと熱くなった。
「玄蕃という男、どのような者なのだろうな」
葵がそう漏らすと、虎丸は少し考えるように目を細めた。
「主にも家にも与せず、それでもなお戦い続ける――正気の沙汰とは思えぬが、どこか、分からぬでもない」
「分かる、というと」
「戻る場所も、進む場所もない者の心細さよ。俺には、想像するしかないがな」
その言葉が、葵の胸の奥に、静かに残った。小太郎でもなく、葵でもない、どちらでもない自分として生きるこの日々は、玄蕃の境遇と、どこか通じるものがあるように思えたのだった。
翌朝、隊に下知が下った。廃寺に潜む玄蕃の一党を、討伐せよとの命であった。出立は、明日の未明と決まった。
具足の紐を締め直しながら、葵は静かに息を吐いた。これまでの掃討とは、明らかに違う戦いになる――その予感が、体の芯にまで、じわりと染み渡っていた。
「葵」
珍しく、虎丸が二人きりの折に、その名を呼んだ。
「何だ」
「生きて帰るぞ。必ずだ」
葵は、まっすぐにその目を見つめ返し、深く頷いた。
「ああ。必ず」
夜の帳が下りる中、廃寺のある山の方角から、風に乗って、かすかな気配が漂ってくるような気がしてならなかった。




