第6話 束の間
秘密が明らかになってから、虎丸の振る舞いは、傍目には何一つ変わらなかった。だが葵には分かった。何気ない仕草の端々に、これまでにはなかった気遣いが、そっと織り込まれるようになっていたのだ。
川辺で水を浴びる段になれば、虎丸はさりげなく見張りを買って出た。荷が重い場面では、誰にも気づかれぬよう、そっと手を貸した。夜営の寝床も、いつからか、虎丸の隣に定まっていた。
「なぜ、そこまでしてくれる」
ある晩、焚火の傍らで、葵はふと尋ねた。虎丸は薪をくべる手を止め、少し考えるように空を見上げた。
「小太郎とは、餓鬼の頃からの仲だ。あいつの妹を、危ない目に遭わせるわけにはいかぬ」
「兄上のため、か」
「……それだけでもない」
虎丸はそう呟いたきり、それ以上は語らなかった。だが、その横顔に浮かんだ表情を、葵は見逃さなかった。頬が、わずかに赤らんでいるように見えたのは、焚火の炎のせいだけではないだろう。
行軍の日々が続く中、二人が言葉を交わす機会は、自然と増えていった。幼い頃の思い出話、小太郎との稽古の記憶、屋敷の裏庭で過ごした遠い日々――他愛のない話ばかりだったが、その一つ一つが、二人の間にある距離を、少しずつ縮めていった。
「お前、木刀を振っていた時、随分と嬉しそうな顔をしていたな。餓鬼の頃から」
虎丸がそう言ったのは、月の明るいある夜のことだった。
「覚えていたのか」
「忘れるものか。小太郎の稽古を、いつも物陰から覗き見ていただろう。俺には、ばれていたぞ」
葵は思わず笑ってしまった。子供の頃の自分を思い出すと、どこか気恥ずかしい気持ちになる。
「あの頃から、剣を振るう時だけは、何も考えずにいられた。今も、それは変わらぬ」
「今は、余計なものを背負いすぎているがな」
虎丸の言葉に、葵は頷いた。小太郎になること、家を守ること、正体を隠し続けること――背負うものは、日に日に重くなっていくばかりだった。だが、その重さを分かち合ってくれる者がいるというだけで、心の内は、以前よりずっと軽くなっていた。
「虎丸がいなければ、俺は……いえ、私は、とうに心が折れていたやもしれぬ」
思わずこぼれた素の言葉に、葵は自分でも驚いた。虎丸もまた、一瞬、目を見開いた。
「……その言葉遣い、俺の前でだけは、崩してもよいぞ」
「え」
「誰かに聞かれれば厄介だが、俺と二人きりの時くらい、無理をせずともよかろう」
その気遣いに、葵は胸の奥が温かくなるのを感じた。誰にも見せられない素顔を、ただ一人、見せられる相手がいる――それがどれほど得難いことか、葵は改めて噛み締めた。
だが、穏やかな日々は、長くは続かなかった。
数日後、隊のもとに、不穏な報せが届いたのである。
「山中に、統率の取れた一団が潜んでおるらしい。ただの敗残兵の群れではないとのことだ」
侍大将のもとに集められた兵たちの間に、緊張が走った。噂によれば、その一団を率いるのは、かつて武田随一の猛将・山県昌景に仕えたという、名のある武者だという。
「海野玄蕃……」
誰かが呟いたその名を、葵は静かに胸に刻んだ。
穏やかだったはずの日々の底に、次第に不穏な影が忍び寄りつつあることを、葵はまだ、はっきりとは分かっていなかった。




