表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/10

第3話 出陣

出陣の朝、屋敷の門前に立った葵は、兄の具足を身に纏っていた。慣れぬ重みが肩にのしかかり、一歩踏み出すごとに、体の奥がぎしりと軋むような心地がした。


その上から羽織ったのは、小太郎が幼い頃から折に触れて袖を通していた、藍地に成瀬の家紋を染め抜いた陣羽織だった。志津が丹念に手入れをしてきたものらしく、色褪せる様子もなく、しゃんと肩に沿っていた。


「これを着れば、小太郎はいつも背筋が伸びると仰っていました」


袖を通す葵に、志津がそっと囁いた。葵は襟元を正しながら、兄の匂いがまだかすかに残っているような気がして、胸が締め付けられた。この一枚に袖を通すことが、小太郎になるということの、何よりの証のように思えた。


「小太郎、しかと頼んだぞ」


見送りに出た勝兵衛が、そう声をかけた。周囲に人目がある以上、父もまた「葵」ではなく「小太郎」と呼ばねばならなかった。その一言に込められた複雑な想いを、葵は痛いほど感じ取っていた。


「行って参ります、父上」


低く抑えた声で答え、葵は馬上の人となった。志津は門の陰から、ただ静かにその背を見送っていた。涙は、もう見せなかった。


隊列に加わると、葵は努めて周囲の兵たちの様子を窺った。誰もが小太郎の顔を見知っているわけではなかったが、中には見知った顔もある。うかつな一言で、正体が露見しかねない。緊張で、掌にじわりと汗がにじんだ。


「小太郎、久しいな」


声をかけられ、葵は反射的に身構えた。振り返ると、そこに立っていたのは、幼い頃からの顔見知りである虎丸だった。小太郎とは同僚であり、共に稽古に励んだ仲でもある。


「……虎丸、か」


かろうじて、声が震えずに出た。


「随分と痩せたな。出陣の支度で根を詰めすぎたのではないか?」


「まあ、そんなところだ」


虎丸はそれ以上深く問うことなく、ただ「達者そうで何よりだ」とだけ告げて、隊列の中に戻っていった。だがその去り際、一瞬だけ、葵の顔を探るように見つめたのを、葵は見逃さなかった。


胸の鼓動が、しばらく治まらなかった。


隊を率いるのは、徳川家中でも名の知れた侍大将である。出陣に先立ち、兵たちを前にした侍大将は、これから向かう任について、簡潔に告げた。


「長篠にて我らは勝利を得た。されど、武田方の残兵はいまだ山中に潜み、村々を襲い、時には一揆を扇動しておる。これを一つ残らず掃討することが、此度の役目である」


淡々とした声だった。華々しい合戦とは違う、地味で、しかし気の抜けない任務であることが、その口ぶりからも伝わってきた。


「降伏する者は捕らえよ。抗う者は、やむを得ず討て。ただし、いたずらに手を汚すことは慎め。我らは、乱を鎮めに行くのだ」


侍大将の言葉に、兵たちは一様に頷いた。葵もまた、他の者に倣って頷きながら、これから始まる日々への不安を、胸の奥深くに押し込めた。


行軍は、思いのほか静かに始まった。山道を進む足音と、時折り交わされる兵たちの短い言葉だけが、隊列の中に響いていた。


夜になり、最初の野営の支度が始まると、葵は改めて気を引き締めた。着替え、食事、眠る場所――これから幾日も続くであろう、正体を隠したままの暮らしが、いよいよ本格的に始まろうとしていた。


焚火の傍らに腰を下ろした葵の視界の端に、少し離れた場所で自分を見ている虎丸の姿があった。


何かを確かめるような、その眼差しに、葵は気づかぬふりをするしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ