第3話 出陣
出陣の朝、屋敷の門前に立った葵は、兄の具足を身に纏っていた。慣れぬ重みが肩にのしかかり、一歩踏み出すごとに、体の奥がぎしりと軋むような心地がした。
その上から羽織ったのは、小太郎が幼い頃から折に触れて袖を通していた、藍地に成瀬の家紋を染め抜いた陣羽織だった。志津が丹念に手入れをしてきたものらしく、色褪せる様子もなく、しゃんと肩に沿っていた。
「これを着れば、小太郎はいつも背筋が伸びると仰っていました」
袖を通す葵に、志津がそっと囁いた。葵は襟元を正しながら、兄の匂いがまだかすかに残っているような気がして、胸が締め付けられた。この一枚に袖を通すことが、小太郎になるということの、何よりの証のように思えた。
「小太郎、しかと頼んだぞ」
見送りに出た勝兵衛が、そう声をかけた。周囲に人目がある以上、父もまた「葵」ではなく「小太郎」と呼ばねばならなかった。その一言に込められた複雑な想いを、葵は痛いほど感じ取っていた。
「行って参ります、父上」
低く抑えた声で答え、葵は馬上の人となった。志津は門の陰から、ただ静かにその背を見送っていた。涙は、もう見せなかった。
隊列に加わると、葵は努めて周囲の兵たちの様子を窺った。誰もが小太郎の顔を見知っているわけではなかったが、中には見知った顔もある。うかつな一言で、正体が露見しかねない。緊張で、掌にじわりと汗がにじんだ。
「小太郎、久しいな」
声をかけられ、葵は反射的に身構えた。振り返ると、そこに立っていたのは、幼い頃からの顔見知りである虎丸だった。小太郎とは同僚であり、共に稽古に励んだ仲でもある。
「……虎丸、か」
かろうじて、声が震えずに出た。
「随分と痩せたな。出陣の支度で根を詰めすぎたのではないか?」
「まあ、そんなところだ」
虎丸はそれ以上深く問うことなく、ただ「達者そうで何よりだ」とだけ告げて、隊列の中に戻っていった。だがその去り際、一瞬だけ、葵の顔を探るように見つめたのを、葵は見逃さなかった。
胸の鼓動が、しばらく治まらなかった。
隊を率いるのは、徳川家中でも名の知れた侍大将である。出陣に先立ち、兵たちを前にした侍大将は、これから向かう任について、簡潔に告げた。
「長篠にて我らは勝利を得た。されど、武田方の残兵はいまだ山中に潜み、村々を襲い、時には一揆を扇動しておる。これを一つ残らず掃討することが、此度の役目である」
淡々とした声だった。華々しい合戦とは違う、地味で、しかし気の抜けない任務であることが、その口ぶりからも伝わってきた。
「降伏する者は捕らえよ。抗う者は、やむを得ず討て。ただし、いたずらに手を汚すことは慎め。我らは、乱を鎮めに行くのだ」
侍大将の言葉に、兵たちは一様に頷いた。葵もまた、他の者に倣って頷きながら、これから始まる日々への不安を、胸の奥深くに押し込めた。
行軍は、思いのほか静かに始まった。山道を進む足音と、時折り交わされる兵たちの短い言葉だけが、隊列の中に響いていた。
夜になり、最初の野営の支度が始まると、葵は改めて気を引き締めた。着替え、食事、眠る場所――これから幾日も続くであろう、正体を隠したままの暮らしが、いよいよ本格的に始まろうとしていた。
焚火の傍らに腰を下ろした葵の視界の端に、少し離れた場所で自分を見ている虎丸の姿があった。
何かを確かめるような、その眼差しに、葵は気づかぬふりをするしかなかった。




