表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/10

第2話 小太郎になる

裏庭で木刀を構えていた葵の耳に、屋敷の表がにわかに騒がしくなる気配が届いたのは、それからほどなくのことだった。


「奥方様! 大変にございます!」


弥平が血相を変えて駆け込んできたのは、その直後である。葵と母・志津は、その声を聞くなり、廊下を駆け出していた。葵は木刀を取り落とし、言葉より先に足が動いていた。


崖から運び込まれた小太郎は、すでに意識がなかった。額から流れる血を志津が懸命に拭い、医者が呼ばれる間も、葵は兄の手を握りしめ、必死に呼び掛け続けた。


「兄上、兄上……!」


だが、その呼びかけに応えることなく、小太郎はその日の夕刻、静かに息を引き取った。


「小太郎……小太郎!」


志津は亡骸に取りすがり、これまで見せたことのないほどの声を上げて泣いた。武家の妻として、人前で涙を見せることなど滅多にない志津が、体を震わせ、幾度も幾度も息子の名を呼び続けた。葵もまた、兄の冷たくなっていく手を握りしめたまま、声を殺して泣いた。


その泣き声は、夜が更けるまで、屋敷の奥から絶えることなく漏れ聞こえていた。


屋敷を包んだのは、これまで経験したことのない深い沈黙だった。誰も声を発することができず、灯明の炎が揺れる音だけが、やけに大きく聞こえた。


「殿、このままでは……」


夜も更けた頃、弥平が震える声で、当主であり小太郎と葵の父である勝兵衛に告げた。出陣命令はすでに下っている。当主自らが出向くこともできず、跡継ぎもまた失った今、成瀬の家から一人も出陣させることが叶わなければ、家は召し上げられ、路頭に迷うことになるは必定であった。


勝兵衛は答えなかった。持病の咳を繰り返しながら、長い間、灯明の炎をただ見つめていた。


「弥平。今宵、小太郎の死を知る者を、この場に集めよ」


やがて勝兵衛はそう命じた。集まったのは、屋敷に仕える数名の家士と、女中頭ただ一人。皆、青ざめた顔で頭を垂れていた。


「よいか、皆の者」


勝兵衛の声は、病を押して絞り出したとは思えぬほど、重く響いた。


「小太郎の死は、今この場にいる者以外、誰一人として知ってはならぬ。他言は無用である。万が一にも外に漏れれば、この成瀬の家は改易を免れぬのみならず、口を割った者の首も無事では済まぬと心得よ」


一同は、ただ黙って頭を下げるばかりだった。誰もが、事の重さを痛いほど分かっていた。


その夜遅く、勝兵衛は葵を自室に呼んだ。


灯りの下、父の顔には、これまで見たことのない苦悩の色が浮かんでいた。葵は、父が何を言おうとしているのか、その言葉を聞く前から、なぜか分かるような気がしていた。


「葵」


「はい」


「お前に、頼みたいことがある」


勝兵衛は一度言葉を切り、それから、絞り出すように続けた。


「小太郎になって、出陣してはくれぬか」


灯明の炎が、小さく揺れた。


葵は、しばらくの間、何も答えることができなかった。脳裏には、稽古を見てくれた兄の背中、頭を軽く叩くあの手つき、「お前は、母上と父上を頼む」という最後の言葉が、次々と浮かんでは消えた。


兄が守ろうとしていたものを、自分が守らずして誰が守るというのか。


「……承知いたしました」


葵がそう答えた瞬間、勝兵衛の目から、初めて涙がこぼれ落ちた。


「すまぬ。すまぬ、葵……」


「お謝りにならないでください、父上。これは、私が選んだことにございます」


翌朝、志津は一言も発することなく、葵を鏡の前に座らせた。手にした鋏が、黒髪を一房、また一房と切り落としていく。畳に落ちる髪の重みが、そのまま葵の覚悟の重みであるかのようだった。


「お前は今日から、小太郎じゃ」


髪を切り終えた志津は、鏡越しに葵を見つめ、静かに言った。


「声も、歩き方も、箸の持ち方一つも、それを忘れてはいけませんよ」


「はい、母上」


葵は答えながら、鏡に映る自分の姿を見つめた。短く切り揃えられた髪、そして――どこか兄の面影を宿しているように見える、その顔を。


声が、すでに少し低く、硬くなっていることに、葵は気づいていた。


出陣前夜、勝兵衛は再び葵を自室に呼んだ。具足の紐を確かめるふりをしながら、勝兵衛は静かに口を開いた。


「葵。一つだけ、肝に銘じておいてほしいことがある」


「はい」


「決して、手柄を立てようなどと思うな」


思いがけぬ言葉に、葵は父の顔を見つめた。


「戦働きで名を上げれば、それだけ人の目に留まる。褒賞の沙汰があれば、身元を検められることもあろう。お前がすべきは、目立たず、生きて帰ること。それだけでよい」


「……承知いたしました」


「弥平からも、道中で困ったことがあれば、いつでも文をよこすようにと言ってある。決して、一人で抱え込むでないぞ」


弥平もまた、傍らで深く頷いていた。葵はその二人の眼差しに、言葉にならぬ想いを込めて頭を下げた。


出陣の日は、翌日に迫っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ