第2話 小太郎になる
裏庭で木刀を構えていた葵の耳に、屋敷の表がにわかに騒がしくなる気配が届いたのは、それからほどなくのことだった。
「奥方様! 大変にございます!」
弥平が血相を変えて駆け込んできたのは、その直後である。葵と母・志津は、その声を聞くなり、廊下を駆け出していた。葵は木刀を取り落とし、言葉より先に足が動いていた。
崖から運び込まれた小太郎は、すでに意識がなかった。額から流れる血を志津が懸命に拭い、医者が呼ばれる間も、葵は兄の手を握りしめ、必死に呼び掛け続けた。
「兄上、兄上……!」
だが、その呼びかけに応えることなく、小太郎はその日の夕刻、静かに息を引き取った。
「小太郎……小太郎!」
志津は亡骸に取りすがり、これまで見せたことのないほどの声を上げて泣いた。武家の妻として、人前で涙を見せることなど滅多にない志津が、体を震わせ、幾度も幾度も息子の名を呼び続けた。葵もまた、兄の冷たくなっていく手を握りしめたまま、声を殺して泣いた。
その泣き声は、夜が更けるまで、屋敷の奥から絶えることなく漏れ聞こえていた。
屋敷を包んだのは、これまで経験したことのない深い沈黙だった。誰も声を発することができず、灯明の炎が揺れる音だけが、やけに大きく聞こえた。
「殿、このままでは……」
夜も更けた頃、弥平が震える声で、当主であり小太郎と葵の父である勝兵衛に告げた。出陣命令はすでに下っている。当主自らが出向くこともできず、跡継ぎもまた失った今、成瀬の家から一人も出陣させることが叶わなければ、家は召し上げられ、路頭に迷うことになるは必定であった。
勝兵衛は答えなかった。持病の咳を繰り返しながら、長い間、灯明の炎をただ見つめていた。
「弥平。今宵、小太郎の死を知る者を、この場に集めよ」
やがて勝兵衛はそう命じた。集まったのは、屋敷に仕える数名の家士と、女中頭ただ一人。皆、青ざめた顔で頭を垂れていた。
「よいか、皆の者」
勝兵衛の声は、病を押して絞り出したとは思えぬほど、重く響いた。
「小太郎の死は、今この場にいる者以外、誰一人として知ってはならぬ。他言は無用である。万が一にも外に漏れれば、この成瀬の家は改易を免れぬのみならず、口を割った者の首も無事では済まぬと心得よ」
一同は、ただ黙って頭を下げるばかりだった。誰もが、事の重さを痛いほど分かっていた。
その夜遅く、勝兵衛は葵を自室に呼んだ。
灯りの下、父の顔には、これまで見たことのない苦悩の色が浮かんでいた。葵は、父が何を言おうとしているのか、その言葉を聞く前から、なぜか分かるような気がしていた。
「葵」
「はい」
「お前に、頼みたいことがある」
勝兵衛は一度言葉を切り、それから、絞り出すように続けた。
「小太郎になって、出陣してはくれぬか」
灯明の炎が、小さく揺れた。
葵は、しばらくの間、何も答えることができなかった。脳裏には、稽古を見てくれた兄の背中、頭を軽く叩くあの手つき、「お前は、母上と父上を頼む」という最後の言葉が、次々と浮かんでは消えた。
兄が守ろうとしていたものを、自分が守らずして誰が守るというのか。
「……承知いたしました」
葵がそう答えた瞬間、勝兵衛の目から、初めて涙がこぼれ落ちた。
「すまぬ。すまぬ、葵……」
「お謝りにならないでください、父上。これは、私が選んだことにございます」
翌朝、志津は一言も発することなく、葵を鏡の前に座らせた。手にした鋏が、黒髪を一房、また一房と切り落としていく。畳に落ちる髪の重みが、そのまま葵の覚悟の重みであるかのようだった。
「お前は今日から、小太郎じゃ」
髪を切り終えた志津は、鏡越しに葵を見つめ、静かに言った。
「声も、歩き方も、箸の持ち方一つも、それを忘れてはいけませんよ」
「はい、母上」
葵は答えながら、鏡に映る自分の姿を見つめた。短く切り揃えられた髪、そして――どこか兄の面影を宿しているように見える、その顔を。
声が、すでに少し低く、硬くなっていることに、葵は気づいていた。
出陣前夜、勝兵衛は再び葵を自室に呼んだ。具足の紐を確かめるふりをしながら、勝兵衛は静かに口を開いた。
「葵。一つだけ、肝に銘じておいてほしいことがある」
「はい」
「決して、手柄を立てようなどと思うな」
思いがけぬ言葉に、葵は父の顔を見つめた。
「戦働きで名を上げれば、それだけ人の目に留まる。褒賞の沙汰があれば、身元を検められることもあろう。お前がすべきは、目立たず、生きて帰ること。それだけでよい」
「……承知いたしました」
「弥平からも、道中で困ったことがあれば、いつでも文をよこすようにと言ってある。決して、一人で抱え込むでないぞ」
弥平もまた、傍らで深く頷いていた。葵はその二人の眼差しに、言葉にならぬ想いを込めて頭を下げた。
出陣の日は、翌日に迫っていた。




