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第1話 事故

木刀を打ち込む音が、成瀬家の裏庭に乾いた音を響かせていた。


長年、成瀬家に仕える老僕の弥平が、竹刀代わりの棒を構えながら、葵の一撃を軽くいなした。


「まだまだ、甘うございますな」


構えを崩さぬまま、葵は額の汗を拭った。息は上がっていたが、目には強い光があった。齢十八、行儀見習いを終え、いずれ然るべき家へ嫁ぐ日を待つ身でありながら、葵は幼い頃から木刀を手放したことがなかった。武家の娘としては、いささか変わり者だという自覚もある。だが、剣を振るう時だけは、胸の内にある落ち着かなさが、不思議と凪いでいくのを感じるのだった。


「葵、いい加減にせよ。嫁入り前の娘が、そのように土埃にまみれて」


縁側から声をかけたのは、兄の小太郎である。葵は木刀を下ろし、悪びれもせず笑ってみせた。


「兄上こそ、暇なようで。長篠のことで、屋敷中が浮き足立っておりますのに」


「浮き足立っているのは喜びゆえだ。武田の騎馬衆を打ち破ったのだぞ。祝い酒の一つも許されよう」


小太郎はそう言って笑ったが、その目の奥にはどこか落ち着かぬ色があった。葵はそれを見逃さなかった。


「兄上、何かございましたか」


「……分かるか」


小太郎は縁側に腰を下ろし、懐から一通の書状を取り出した。


「今朝方、使いが来た。武田方の残兵が、いまだ山中に潜んでおるそうだ。逃げ散った者どもが村を襲い、時には一揆を扇動しておるという。これを掃討せよとの下知が、成瀬の家にも下った」


葵の胸が、ざわりと騒いだ。


「兄上が、行かれるのですか」


「俺の他に、誰が行く。父上はあの通りのお体だ」


小太郎は努めて軽く言ったが、その言葉の端には、家の重みを一身に背負う者だけが持つ、張り詰めたものがあった。


「出陣は三日後だそうだ。俺が不甲斐ない働きをすれば、成瀬の名に傷がつく。……お前が羨ましいよ、葵。剣を振るうことに、何の重さも背負っておらぬのだから」


その言葉に、葵は何も言い返せなかった。剣を振るう時だけ得られる凪いだ心は、兄の言うような軽さからは、遠く隔たったところにあった。だがそれを口にすることは、憚られた。


その日から、小太郎は日々、具足の手入れや馬の調練に余念がなかった。夜更けまで槍働きの稽古をする兄の背を、葵は幾度も見かけた。時折、疲れた顔を見せることはあっても、弱音を吐くことは一度もなかった。


「兄上は、恐ろしくないのですか」


ある晩、葵がそう尋ねると、小太郎は手入れをしていた具足から顔を上げ、少し困ったように笑った。


「恐ろしいさ。だが、恐ろしいと言えるのは、俺が家督を継ぐ者だからだ。父上の代わりに、この家を守らねばならぬ。それだけのことだ」


「私にも、何か出来ることがあれば……」


「お前は、母上と父上を頼む。それだけで十分だ」


小太郎はそう言って、葵の頭を軽く叩いた。子供の頃から変わらぬ、その手つきだった。


出陣を明後日に控えたその朝、小太郎は物見のため、屋敷近くの崖の上に登った。眼下に広がる道筋を検分し、いざという時の伏兵の配置を思案するためである。


供の者を一人だけ連れ、小太郎は崖の縁に立った。朝靄の向こうに、これから進むべき道筋が霞んで見えた。


「この道筋なら、伏兵を置くとすれば、あの岩陰か……」


呟きながら、小太郎は一歩、二歩と足を進めた。


その時、足元の土が、音もなく崩れた。


「小太郎様っ!」


供の者の悲鳴にも似た声が響いたのは、小太郎の体が崖下へと消えた、その直後のことだった。

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